遅咲きのリナリア 01



 颯砂くんが発した「いいよ」というたった三文字が、鼓膜に張り付いている。
 顔の火照りを吹き飛ばしたくて、夢中で海辺沿いの道を走る。二年生になって気分も一新しようと新調したばかりの白いスニーカーは、まだ足に馴染んでいない。もしかしたら端っこがコンクリートで削れてしまうかも、なんてことが一瞬だけ頭をよぎったけれど、すぐに忘れてしまった。
 歩道から砂浜に続く階段を降りながら、スマホの連絡先の中にひかるちゃんのアイコンを探す。今の時間なら部活も終わっているだろうから、彼女はきっとすぐに出てくれるはずだ。案の定二コール目で電子音は途切れて、底抜けに明るい声がする。

『はーい、マリィ! どうしたの?』
「あっ、あのねひかるちゃん。わたし、とうとう誘っちゃった……!」
『ちょっと待って、ホント? ついに? っていうか、あのカレのことで合ってるよね?』
「うん、颯砂くんのこと……ダメ元で今度の日曜にボウリングに行こうよって言ってみたんだけど、いいよって言ってくれて……」

 ひかるちゃんは大げさにキャーッと声を上げて、自分のことのように喜んでくれた。
 颯砂くんとは、入学してすぐに知り合った。とにかく明るくて屈託のないひとだというのが第一印象だった。晴れた日の風のようにからりとしたイメージからは一転、陸上部のフィールドにいるときはぴりりと引き締まった真剣な表情をしていて、いつの間にか目で追うようになっていた。
 それなのに、いざ本人を前にすると「頑張って」とか「応援してる」とか、けなげな言葉のひとつも吐く度胸がなかったわたしは、ただ彼を目で追っているあいだに想いだけを煮詰まらせてしまって、とうとう彼と自然な会話すらできなくなった。
 そんな状況に絶望して、ひかるちゃんに「どうしよう、颯砂くんが好きかも」と打ち明けたのが半年と少し前のこと。そして、彼をデートに誘ったのは今日が初めてだ。

『でもねマリィ、ひかるは素直に嬉しいけどさ、デートに誘うのに出会ってから一年もかかってちゃ先が思いやられるよ〜!』
「う……そうだよね。わかってるんだけど、颯砂くんを前にするとすごく心臓がどきどきして……」

 夕暮れどきとはいえ日が長くなり始めたばかりの初夏の海はまだ比較的空いている。数人のサーファーたちがのびのびと波を白く切り裂いてるのが見える。
 砂浜の適当なところに座って、ひかるちゃんとの電話に腰を据えようとしたそのとき、

「邪魔。僕のサンダル、踏んでるんだけど」

と頭のすぐ上から声がして、慌ててスマホを耳から離す。

「ごめんなさい! ちゃんと見えてなくて――」

 そこまで言ったところで、目の前にいるウェットスーツ姿の男の子が誰だかを認識した。入学式に知り合ってから、何度か帰り際に挨拶を交わしたことがあるだけの彼――氷室くんだ。彼は腕にサーフボードを抱えていて、そう言えば彼が趣味でサーフィンをやっていることをひかるちゃんから聞いたことがあったな、と思い出した。

「あ……氷室くん!」
「どうも」

 彼は立ち上がったわたしの足元からブルーのビーチサンダルを拾い上げると、煩わしそうに手で砂を払った。その姿が怒っているように見えたので、わたしはひかるちゃんに「またかけ直すね」と伝えて急いで電話を切り、氷室くんに「踏んじゃってごめんね」と改めて頭を下げる。

「別にいいよ。壊れたわけじゃないし。でも、周りが見えなくなるくらい電話に夢中になるのはやめた方がいいよ」
「……うん、気を付けるね」

 氷室くんはビーチサンダルを履きながらじいっとわたしを見た。濡れた前髪の下から覗く瞳がなにかを企んでいるように見えて、思わずごくり、と唾を呑む。

「な、なに? その顔」
「……君が僕のビーチサンダルの上で大きな声で話してたからであって、別に盗み聞きしたわけじゃないんだけど」

 彼はそう前置きしてから、淡々と言った。

「君はノゾム先輩のこと、好きなんだ?」

 それを聞いて、自分の喉からいまだかつて出たことがない奇妙な音が出た。スマホを握りしめていた手に、にわかに汗が滲む。
 なんと弁明をしようかと視線を泳がせるけれど、氷室くんはのんきにベルクロの砂を払っていた。

「氷室くん、今の話……」
「ああ。こんな話、別に他人に言い触らしたりしない。ノゾム先輩を含めて。僕、そんなにデリカシーないやつに見えるわけ?」

 そういう問題ではない。けれど、弁明をしたところですでに意味がないだろうことだけはわかった。
 わたしが硬直しているあいだに氷室くんは「じゃあまた学校で」と階段を上がっていってしまって、残されたわたしはただひとり、オレンジ色にぎらついた水面の反射を一身に受けながら、さっきまでの浮かれていた自分の姿を思い返してひたすらに後悔していた。


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