遅咲きのリナリア 10



 一紀くんからの連絡がない。そのことを気にし始めたのは三月の中旬を過ぎたころだった。
 うちの大学の前期試験の合否はとっくに出ているはずで、後期試験の合否もそろそろ発表される。一紀くんが無事に受かっていれば、「そう言えば、無事受かったから」とあっさりとしたメッセージのひとつがあってもおかしくない頃合いなのに。
 もしかして、うまくいかなかったのだろうか。それとも、忙しくて単に報告を忘れているだけだろうか。どちらにしたって、なんだかんだ律儀な彼の性格を考えると想像しがたい。かと言って、もし前者だったらと思うと、無神経にわたしから連絡をするのも躊躇ってしまうし――。
 思案しながら、講義終わりやバイトの休憩時間になれば逐一スマホを見て、彼からの連絡が来ていないかを確かめた。
 けれど、とうとう彼からの連絡がないまま、一流大学の入学式の日を迎えてしまった。
 わたしは特に用事もないのにキャンパスへ赴いて、学生たちを掻き分けながら一紀くんの姿を探した。スーツに身を包んだ新入生たちがまとうオーラは華やかだし、我先にと新入部員の勧誘をする上級生のユニフォームは鮮やかだしで、目が眩みそうだ。
 せめて、風真くんか本多くんにでも会えたら。もしかすると、ふたりなら一紀くんの状況を知っているかもしれない。 
 どうか一紀くんの身に悪いことだけは起きていませんようにと、桜の花びらが舞う期待感に満ちた空間のなか、わたしだけが顔を強張らせていた。
 そのときだった。

「なまえ先輩!」

 振り向くと言うよりも、腕を引かれて振り向かされたと言うほうが正しかった。
 すこし息を切らした一紀くんの姿がそこにあった。会場のなかに溢れ返っている新入生たちの例に漏れず、彼もダークグレーのスーツに青いネクタイを締めている。

「一紀くん!」
「何より先に、今日は君のこと探さなきゃって思って。……やっと見つけた」

 乱れた呼吸を整えながら彼は言う。

「……本当にゴメン。君にはいろいろ力になってもらったくせに、今日まで報告ひとつできなかった。……言い訳みたいで情けないけど、僕のスマホに弟がジュース零して、使えなくなったから買い替えたんだ。受験真っ只中の時期に。急だったからちゃんとバックアップも取ってなくて、君の連絡先も……ほんと、一生の不覚」

 苦虫を噛み潰したような顔で一紀くんが言うので、事件当時の彼の苦悩が伝わってくるようだった。

「でも、一紀くんがここにいるってことは」
「……うん。おかげ様で、無事に受かったから」

 イメージしていた通りの涼しい声とともに、一紀くんは頷いた。
 彼の言葉でその言葉を聞けたとたんに、ずっしりとした安堵が胸に降りてくる。思わず力が抜ける。

「おめでとう! でも、本当によかった……もしかしたら、もう一紀くんに会えなくなるのかもなんてことまで考えちゃったから」
「なにそれ、大袈裟。勝手に人のこと行方不明にしないでくれる」
「だって、もし何かあったらって思うと、心配になっちゃって」
「……それぐらい、僕のこと考えてたってこと?」
「そりゃあ考えてた、けど……」

 一紀くんがどこか不機嫌そうな顔をして、すこし手の力を強める。横を通り過ぎていく新入生たちがわたしたちに這わせる興味本位な視線で、やっと気付いた。

「い、一紀くん、手! なんか、繋いでるみたい……!」
「あ……ごめん」

 彼に掴まれたままだった手首がふっと宙に落ちる。
 一紀くんは自分を落ち着かせるみたくふうとため息をついた。きっと律儀な彼のことだから、今日までわたしに報告をできていないことを気にしてくれていて、ひどく慌てていたのだろう。

「そう言えば、一紀くんは前からわたしのことそんなふうに呼んでたっけ?」
「そんなふうって?」
「『なまえ先輩』って、初めて呼ばれたような気がして。さっき、一瞬戸惑っちゃった」
「……そんな呼び方してないと思うけど」
「ええっ、呼んでたよ?」
「……あ、そ。じゃあ呼んでたんじゃない。別に、変じゃないし、君だって僕のこと名前で呼んでるんだから、いいでしょ? 『なまえ先輩』でも」

 相変わらずくせのある受け答えだと思うけれど、もちろんダメな理由なんてひとつもない。頷いたら、彼は「どうも」と視線を目を伏せた。
 もうすぐ式典が始まる時間らしく、新入生の波がぞろぞろとホールのほうへ向かっていく。
 わたしは一紀くんの新しい連絡先を教えてもらった。彼に「こっちにも登録するから、なんでもいいから君から送って」と言われて適当なスタンプをひとつ送ったら、一紀くんの口角がすこしだけ上がった。

「……変なスタンプ」

 わたしは可愛いと思ってたのにな。そう言い返すひまはなさそうだった。
 一紀くんはスマホをスーツの内ポケットにしまう。きっちりと襟元を正し直す仕草がやけに大人っぽく見えた。ブレザーとスーツなんてたいして形は変わらないのに不思議だ。

「それじゃ、改めてよろしく。腐れ縁のなまえ先輩」

 一紀くんがわたしのことを「腐れ縁」と言うせいだろうか、本当に彼と顔を合わせる機会は多くなった。
 教養課程の選択授業が同じかと思えば、空きコマも同じだったりで、途中からは開き直るようにしてカフェテリアに集まり、一緒にレポートやら雑談をするようになった。
 高校のころもよく一紀くんと一緒に勉強をしたけれど、懐かしいような気分にどこか落ち着かないような新鮮な気分が混ざるのは、一紀くんが私服だからだろう。バイトや学校の帰りに長々と駄弁ることはあっても、休日にわざわざ会おうと約束をしたことはなんてほとんどなかったから、そのラフな姿はいまだに見慣れない。

「……なに。人のことじろじろ見て」
「いや……なんか、また一紀くんと一緒の学校に通ってるんだなぁって。なんか、時が戻ったような気がするなぁって」
「なにバカなこと言ってるの。戻ってるんじゃなくて、今この瞬間も進んでる。僕たちが出会ったころから三年も経ってるし、僕たちは大学生。……あのころから時が止まってるのなんて、君くらいじゃないの?」

 彼がわたしの恋愛について言っているのだとすぐにわかった。一紀くんがこういう責めるような目をするときは、大抵颯砂くんの話をしているときだったからだ。久しぶりにこの視線を浴びると、彼と離れていた半年はぬるま湯に漬かっていたのだと思えるぐらいには身が引き締まる。

「……わたしはもともと、進むつもりはないよ」
「じゃあ、やめられたの? ノゾム先輩のこと」

 彼が紡いだ名前のせいで、思い出してしまう。遠くからわたしを呼ぶときの颯砂くんの笑顔とか、グラウンドにいてもすぐに見つかる広い背中とか、電車のなかで聞いた「ずっときみに聞きたいことがあったんだけど」という言葉とか。
 どれをとったって、わたしの心臓はきゅうと唸る。
 しばらく黙ったままのわたしを見て、一紀くんは根負けしたみたくため息をついた。

「……まあ、ゆっくりでいいんじゃないって言ったのは僕か」

 ゆっくりというには時が流れてしまっていることは、自分でもわかっている。明日起きたら颯砂くんのことなんて何とも思わなくなっていますように、と眠る前に願ったことも数えきれないぐらいある。
 それなのに、わたしの心はうまく変われない。一か月前にしたメッセージのやり取りを何度も読み返してしまうし、彼が店に遊びに来たとたんに視線と笑顔があふれてしまって、マスターに褒められたりしてしまう。
 ロボットみたいに入れ替えられたらどんなに楽か、と思う。「颯砂くんを好きじゃないわたし」の心と取り替えたい。そうしたら、高校時代の恋は甘酸っぱい青春の一ページとして、胸の奥にしまっておくだけでいいのに。

「人間の心って、どうしてこうもうまくいかないんだろうね」
「…………同感」

 わたしの呟きに、一紀くんは目を伏せて頷いた。


 さらに一紀くんとの「縁が腐れ」たのはそのすぐあとのことだ。
 本多くんと颯砂くんとわたしで、一紀くんの入学お祝い会をすることになった。発案者は本多くんで、会場はわたしのバイト先のダイニングバーだ。わたしはマスターに断って、その日は客としてお店にやって来ていた。
 はじめてお店に足を踏み入れた一紀くんは、店のなかをぐるりと見渡したあと、最後にわたしを見て

「……明らかに、君が好きそう」

と、納得したみたいに言った。
 丸くなってテーブルに座ったとき、颯砂くんと、わたしの気持ちを知っている一紀くんが揃っていることの息苦しさが、昔よりも薄れていることに気付く。

「で、イク先輩、ノゾム先輩。なまえ先輩は、ここでちゃんと働けてるんですか」

 一紀くんは蟹のクリームがたっぷりと絡んだパスタをフォークに巻き付けながら言った。

「みょうじちゃんはねー、すごいよ。いつもテキパキしてるしニコニコしてる! お客さんからもよく話しかけられてるしね!」
「へえ……それって、男性客ってことですか?」
「どっちも!」
「なんだよイノリ、心配してんのか? でも、気持ちはわかる。オレらもみょうじが男性客に掴まってるの見たら、自然としゃべるのやめて準備してる。厄介そうだったらいつでも止めに入れるように。ボディガードみたいなもん?」

 颯砂くんが笑いながら言うのに本多くんも頷くので、冗談ではないらしい。実際にはそういうお客さんはマスターのお友達や知り合いがほとんどで、危ないことは今のところ起きたことがないのだけれど、颯砂くんの言葉は素直に嬉しかったし、頼もしかった。

「そういやノリくんは、新しいバイト探さないの?」
「まあ、ぼちぼちって感じですね。アンネリーのバイトは好きですけど、大学から遠いんで。最近フリーターの人も入って、店長にも『無理しないでね』って言われちゃってますし」
「ハハ! それ、戦力外通告じゃん!」
「っ、違いますって」
「一紀くん、うちのお店なら、いまバイト募集してるよ?」
「そうなんだ……ってそれ、もしかして勧誘?」

 盛り上がるわたしたちのテーブルに、マスターがにんまりと笑いながらやって来た。

「あ、マスター。こんちは!」
「サッサくん、どうも」

 かつて体育会系だったらしいマスターは颯砂くんを気に入っている。颯砂くんが遊びに来ているときは、よくカウンターからメニューにない料理が乗ったお皿が出てくる。そしてマスターが得意気に「彼に食わせてやって」と颯砂くんの背中をくいと顎で示すのだ。
 今日も今日とて、新しいドリンクを人数分サービスしてくれた。グラスをテーブルに置いたあと、マスターが

「あと、新顔の君のことを、向こうのお客様が呼んでいてね」

 と一紀くんのことを見て言ったので、わたしも一紀くんと同時に「えっ」と声を上げてしまった。
 マスターの浅黒い肌色をした指の先に、カウンターに座る中年の男性が見える。見たことがあるようなないような、という印象だ。
 一紀くんに「知り合いなの?」と尋ねると、彼はその人物を認めて心底うんざりしたようにハアとため息をついた。

「……僕の学科の、予備ゼミの教授……で、レーイチさんの知り合い」

 遠くでそのひとと話している一紀くんの背中を見ただけで、一紀くんはあの教授に逆らえないのだということがわかった。逆らえないというには一紀くんは反抗心を滲ませすぎていたけれど、結局うまく丸めこまれているように見える。
 十数分にも及ぶ攻防のあと、エネルギーを吸われたような顔で一紀くんはテーブルに戻って来た。何を話したのかと尋ねるみんなに、平坦なトーンで一紀くんは答えた。

「……まだ僕も信じられないけど、来週からここで働くことになった」


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