オレに会いたくないわけ

 今年もホリデーが近付くというのに、オレはというと、ホリデーの「ホ」の字すら知らないかのような目まぐるしいスケジュールをこなしていた。
 四年生になって、それなりに経歴に箔がつくような派遣先に来て数か月。忙しいなかでも自分のやることには慣れてはきたし、手の抜きどころはなんとなくわかってきたころだ。

「トラッポラくん、お疲れ様〜」

 同じ研究班のメンバーの声は、もはや聞き慣れた。背後から降りかかる溌剌とした声に振り向けば、その女の子は口角をきゅっと釣り上げる。

「あー、お疲れ」
「珍しく金曜に年休入ったね。突然だからなんにも予定とか入れてないけど」
「急だったよなー。まあ、ラッキーはラッキーだけど」

 帰り支度をしようと、かたちだけの白衣を脱ぎながら廊下を歩いていると、女の子も並んで歩き出した。オレからはこれ以上、特に交わしたい言葉もない。ポケットからスマホを取り出してそれをアピールしてみても、彼女は引き下がらなかった。

「トラッポラくんは、休みなにすんの? もし暇だったら――」
「あー、彼女が暇だったら会おうかなーとか思ってたとこ」

 「カノジョ」という単語に、かちりと女の子の表情が強張る。けっこう冷静なタイプに見えてたけど、そんな顔されたらさすがに気付くって。なおさら「もし暇だったら」の部分は、聞こえてなかったことにしてほしい。

「……あ、そうだよね。ごめん。や、暇だったらみんなで集まろって誘おうと思ってさ」
「なーるほどね。いーじゃん。今度オレからみんなに声掛けるわ。何気に全員で集まったことってないもんな」

 「うん、楽しみにしてる」というか細い返事のあと、彼女は手を振って去って行った。明るい髪が翻って見えなかったけれど、たぶん笑っていたと思う。器用な子でよかった。もし監督生におなじ言葉を投げかけたなら、まともに言葉を紡げていたかすら怪しい。
 結局のところ、オレは監督生のことがかわいそうでかわいいみたいな、そんな風に思っているらしい。これは今気付いたこと。
 もうとっぷりと日が暮れてしまった空の下、駅までの味気のない道を歩く。
 突然言い渡された連休を前にして、さっきまでは「心行くまで眠ってやろう」なんて思っていたのに、オレの親指は監督生の名前を探し出しては、タップしていた。
 数秒のコール音とごそごそというノイズのあと、鼓膜をくすぐるようなやわらかな声がする。

『……あれ? もしもし、エース?』
「あーうん。お疲れ。今電話してヘーキ?」
『うん! 今トレイン先生の書物整理終わって寮に戻るところ。……珍しいね、エースから電話くれるの』
「そう? そいや最近しゃべってないなと思ってさ」
『エースが忙しそうだから、あんまりかけないようにしようと思ってたの。早く落ち着くといいね』

 監督生が近道をして、草のうえを進む音が聞こえてくる。
 しばらく言葉を探しながら、直接会うのはおろか、こうして電話で話をするのも数週間ぶりだということに気付いた。

「……なかなか会えなくてゴメン。実は明日から連休になったからさ、一緒にどっか行こうよ」
『え、それ、ほんとに?』

 本当だよ、と言う自分の声が笑っていた。
 想像していたとおりの弾むような声が返ってきたことに、ぐっすり眠るよりたらふくごはんを食べるより、疲れを癒されたような気になったのは、本当に気のせいだろうか。

『……嬉しい。久しぶりにエースに会えるの、ずっと楽しみにしてたから』

 掠れた声に、どれだけの辛抱が潜んでいるのかは、カンタンに想像できた。
 監督生が「寂しい」とか、「もっと会いたい」とか、そういうことを言わないのか言えないのか、どっちなのかはわからない。言われたところでオレにはどうしようもない忙しさだったのは事実だったから、今はただありがたかった。
 オレがデートに誘っただけで、こんなに喜んでくれる人間って、他にいるのだろうか。ちぎれんばかりにしっぽを振る犬が目に浮かんで、今すぐ撫でてやりたい衝動に駆られた。
 ――これが、アニキが去年言っていた「恋」に近いと言われたら、違うとは思うけど。

「じゃあ、明日ね。オレ、そっちの最寄り駅まで迎えに行くから。行きたいとこ考えといて。きっと、お前のほうがいっぱいあるでしょ」

 電話を切ると、胸のあたりにあたたかな余韻がまだ残っていた。
 明日のことを考えて心が躍ったのは、初めてだ。アニキの言う恋愛には程遠いけれど、オレだってあいつのことをかわいいと思ってる。あんなに従順に待ち続けてくれる子なんて、たぶん少ない。
 ――あいつ、どんな服着てくるかな。髪、ちょっと伸びてるだろうな。
 きっとオレのことを頭いっぱいに考えながら身に纏ってくるあれこれを見るのは、純粋に楽しみだった。





「は?」

 思わずかさついた声が漏れてしまったオレを、通りすがりの見知らぬ何人かが怪訝そうに見た。
 どんくさい監督生にも分かりやすい、派手な看板の売店の横に背中を預けたのは、腕時計が待ち合わせの時間ぴったりを示していたころ。
 それから、早くも四十分が経っていた。
 あいつに限って、この日に限って、寝坊はあり得ないはずだ。メッセージを入れても既読にすらならないことをさすがに怪しんで電話をかけてみれば、十コール目でやっと監督生の「もしもし」が聞こえた。

「あ、もしもし!? お前、まさか今日のこと忘れてないよね?」
『……ごめん、エース。朝からグリムの調子がよくなくて、様子見てたら連絡入れるの忘れちゃって』
「グリムの?」
『うん。お腹痛いみたいで朝からうなされてて。しばらく様子見てみるけど……もしかしたら今日は会えそうにないかも』
「なんで。あいつが腹壊すなんて、よくあることじゃん。どうせなんか変なもんでも拾い食いしたんじゃないの? そんなヤワなやつじゃないし、寝てりゃ治るって」
『でも……』

 口ごもる監督生の声が一瞬遠のいた。グリムに視線をやったのだろう。
 待ちぼうけしていた四十分間ですでに積み重なっていた苛立ちに、いろんなワガママが畳みかける。直接グリムの様子も見てない自分が、ひどく無責任なことを言っていることも自覚していた。
 それでも、なぜ「わかった、仕方ないよね」で電話を切れないのかが、不思議でしかたない。

「……お前、オレに会いたくないわけ?」

 ひどく場違いなセリフだと、すぐに分かった。
 はっとしたけれど、口を突いて出た言葉は取り消せない。なんでもない、と取り消そうと息を吸うと同時に、電話の向こうで監督生が自嘲気味に笑うのが聞こえた。

『会いたいよ、もちろん。……私のためにせっかく時間作ってくれたのに、遅れてごめんね。でもグリムが心配だから、もうすこし様子見させて。あとで連絡する」

 「私のために」という言葉が、胸のもっと奥に冷たく突き刺さる。肺のあたりに雪の花でも咲いているかのように、吸う息も吐く息もいやに冷たくなった。
 いくらか沈黙を交わしたあと、

「変なこと言ってごめん。なんでもない。チャンスならまたあるし、今日はグリムの面倒見てやってよ」

と強いて冷静に言うと、監督生は小さく「わかった」と答えた。寂しさを、むりやり毛布で包み隠したみたいな声だった。
 ――とりあえず、頭を冷やそう。それで、あとでもう一度、ちゃんと謝ろう。
 自己嫌悪にまみれながらスマホをポケットにしまい、歩き出した。
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