「エース・トラッポラが早朝に、それもぐったりした女子生徒を抱えて、裸足で走っていた」という噂は瞬く間に広がった。
 噂に尾ひれがつき「お前、まさか女に何か……!?」とクラスメイトから畏怖の視線とともに尋ねられるたびに、エースはすで山盛りだった苛立ちを、さらに募らせた。

「あんな噂なんて気にするなよ、エース。見間違いにもほどがある。ここは男子校だぞ」

 頬杖をついて、貧乏揺すりを隠さないエースの隣に、デュースが呆れた表情で腰掛けた。

「……デュースはデュースで鈍感すぎ」
「なにか言ったか?」
「べっつになにも〜」
「それよりエース、誕生日おめでとう! 大したものはあげられないが、昼休みに購買でエースの好きなパンを買ってやる。今日だけだぞ」
「どーも。マジ? んじゃ、一番高いやつ選んじゃおっかなー」
「ぐ……一番高いやつって、カスクートかメンチカツか……? けっこう高……いや、男に二言はないからな」

 苦い顔で財布の中を確認するデュースの向こうに、彼女――今は『彼』の姿だが――が見える。
 ばち、と言い逃れできないほどまっすぐに視線がかち合うものの、すぐにエースから逸らしてしまった。

「おはよう。エース、デュース」
「ああ、おはよう。監督生」

 はよ、と小さく返事をして、ノートの確認をするふりをして、俯いた。
 どんな顔をすればいいのか、どんな言葉をかければいいのか、エースは分かりかねていた。
 昨日の朝、魔法薬を飲み干すと同時に呼吸すらしなくなった監督生。背筋が凍って、冷静でいなければという気持ちと同じほどに膨れ上がった感情。それに任せて、まくし立てるように放った数々の言葉。
 監督生がいなくなった自分がどうなるのか、まざまざと見せつけてしまった。自分自身に、そして、あろうことか彼女自身に。
 ゆっくりと目を開いた彼女の頬に落ちたのは、自分の頬から流れ落ちる大粒の水滴だった。
 ぐしゃぐしゃになっていたであろう自分の顔を見て監督生は、指の腹で、エースの頬を拭った。

『私が死んでも、一滴も、涙零さないんじゃなかったの』

と言って、笑いながら。
 ――いやいやいやいや、「臨死用」の魔法薬だなんて、知るワケないじゃん。あいつもなんも言わずに飲むしさ、ホントにもう目覚めないんじゃないかって思ったワケ。いや、フツー思うでしょ。たしかに、心の底から目覚めてくれって願った。オレのこと置いていかないでよ、なんて、引くほど女々しくて重いことまで考えた。おまけにやっと、オレがお前のことどう思ってるのかも、わかっちゃった。
 ――でも、でもさ? あんな、全てをかなぐり捨ててるとこを本人に見られて、今更どんな顔すればいいワケ? 今までさんざんカッコつけておいたのに、台無しにも程があるじゃん。てか監督生、お前はさ、何がしたくてオレの前でアレ飲んだの。心臓に悪すぎでしょ。オレのことからかってんの? でも、ふざけ半分にそんなことするやつじゃないし、なのに怒るのも大人げないし。

「エース、隣座っていい?」

 その声ではっと我に返った。監督生がグリムを抱えて、エースの右隣の席を指さしていた。

「……いーよ。てかいっつも聞かずに座ってんじゃん」
「そうだよね。ごめんごめん」
「……なんで謝んの」
「えっと、なんかエースの機嫌が悪そうだからかな。……これはわがままだけど、せっかく誕生日なんだから、笑顔でいてほしいな」

 へらり、と笑う監督生の顔を見て、強張っていた気持ちがみるみる溶けてゆく。

「エース、お誕生日おめでとう! ふふ、やっと言えた……!」

 金属を打てば響く。そんな具合に、全身に痺れのような感情が一瞬のうちに伝播した。
 それは目の前のやつを自分のものにしたいだとか、守りたいだとか、同じ量の想いを贈り合いたいだとか、いろんなものが混じり合って、「とりあえず抱き締めたい」という衝動に近かった。
 エースは拳に力を込めて、ぐっと何かを堪える。

「……ありがと、監督生」

 拗ねた子どもみたいな言い草だと思って、やり直したくなる。
 ちょうど教室に入ってきたクルーウェルが、教室内を切れ長の瞳で見渡して、何やら満足気に頷いた。

「よし、仔犬ども、揃っているな。さて、今朝はまだ寝惚け眼の仔犬も多い。目覚ましに魔法薬の雑談でもするか」

 クルーウェルが、授業が始まる前のアイドリングトークをするのは珍しくない。何気ない雑談のように紡がれることがテストの内容に繋がることもあると知れてからは、生徒たちはこれが始まると慌ててノートを引っ張り出すのだった。

「その危険さから実習で調合するカレッジはほとんどないが……『臨死薬』というものがある。必須の材料は一角獣の角の粉末と、薔薇のトゲ……まあ、このあたりはアカデミーの範囲だ。お前らはまだ習得せずとも構わない。興味のある勤勉な仔犬は躾を受けにこい」

 デュースはメモを取りかけた材料を、ごしごしと消しゴムで消した。

「……で。この『臨死薬』だが、服用すると臨死どころか、二度と目覚めることができなくなるので注意が必要だ。再び目覚めるには、一日以内に『心の底から服用者を愛する者の涙』が必要になる。つまり、家族や愛する者を信頼して服用するしかないということだな」
「それは、リスクがあまりにも大きいな……」
「その通りだ、スペード。お前らに服用の機会はないだろう。他の魔法薬の作用を打ち切るために使われるケースがほとんどだ。……それもそうそうないがな」

 昨日の朝、クルーウェルに『心の底から感謝する』と切実な表情で頭を撫で付けられたことを思い出した。そのときには、監督生の唇からは細い息が吹き返されていた。
 クルーウェルがどういうつもりでこのアイドリングトークを挟んだのか知らないが、エースにとってはたまったものじゃなかった。右隣の監督生の、じっと前を見つめていた頭も、徐々に垂れていく。
 いたたまれない、とはこういうことか。
 まったく授業の内容が頭に入ってこない一時間を拷問のように耐えしのいだエースだったが、授業終了のチャイムと同時におもむろに立ち上がった。

「どこ行くんだ、エース!?」
「んー、ちょっと!」
「あ、エース、待ってよ!」
「監督生まで、どこ行くんだ!」

 どたばたと小走りで教室を出ていくが、背後に革靴の音がひとつ続いている。きっと監督生だ。
 慣れとは怖いもので、監督生がいると思うと、彼女が追い付けるスピードへ、足が勝手にサボりだしてしまう。
 その一方で、きっと赤い、情けない顔をこれ以上見せたくなくて、中途半端な歩調のまま監督生の前を歩き続けた。
 途中で何度も名前を呼ばれて、無視をするたびに心がちくりと痛んだ。そのどうしようもなさに、自分で呆れて。

「エース、待ってってば!」

 校舎裏まで逃げてきたころ、とうとうそんな震える声を出されてしまえば、エースの両足は勢いを完全に失ってしまった。

「……はあ。も〜、なに。こんなトコまで追いかけてきてさ」

 くるりと振り返ると、肩で息をする監督生。

「だって、エースが、逃げるから……!」
「ナマエが追い掛けてくるからじゃん」
「え? そ、そうなの……? でも、お礼、まだちゃんと言えてないから」
「はあ? なんの」

 吸う息と吐く息を大きくした監督生が、照れたような笑みを浮かべた。

「エース。助けてくれて、ありがとう。私も、解毒方法は知らなかったから……あんなふうに、困らせてごめんね。うまく言えないけど、エースのそばにいれば、きっと目覚められるって思ったんだよね。エースの笑顔が、また見たかったから。……だから、嬉しい」

 朝焼けのような笑顔は、瞼に染みるようだった。
 そうプログラムされているおもちゃのように、考えるひまもなく、エースは彼女の身体を腕の中に閉じ込めた。また目じりから熱いものが滲んできそうで、誤魔化すようにふるふると首を振る。

「……いーよもう、今お前がいるなら、それで」

 監督生と言葉を交わすとき、自分でもぞっとするぐらい、自分の声が甘い瞬間がある。その理由を、エース・トラッポラはもう知っている。
 指のあいだに滑る、なめらかな髪のさわり。それだけでは足らずに、エースは監督生の顔をすこしだけ離すと、蠢く唇に言葉を紡ぐすきも与えないで、そこに口付けた。
 ゆっくりと唇が離れるころには、壊れたメーターは一番右に降り切れて、なりふりなどどうでもよくなっていた。
 ――もう好きってバレてんだし、いっか。それにオレ、今日誕生日だし。

「エ、エ、エース、なに、今の……!?」
「……いーじゃん、ダメ? 許してよ。お前の言う『お礼』とさ、誕生日プレゼントってことで」

 やっとのことでやってきた「今日」までに募らせたエースへの感情を、はるかに凌ぐその行動に、監督生はしばらく言葉を失っていた。
 やがて、真顔から口元を緩めて、けらけらと愉快そうな笑い声を漏らしはじめた。
 「行こーよ」というエースの声のやわさは、やはり彼女には、恋人に贈るようなものに聞こえるのだった。
 それが比喩ではなくて、単なる事実になるために、ひとりで座るには広く、ふたりで座るにはちょっと窮屈なオンボロ寮のソファが、きっと手を貸してくれる。

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