黒峠は猫を抱えてご機嫌に事務所のドアを開けて中へ入り、反対に不機嫌な亜沙子が抑えきれない苛立ちを音で表すかのように、乱暴にドアを閉めた。
「有紀さん、おかえりなさい。猫は見つかったんですね。それから柊さん……は、またどうしたんですか」
亜沙子の表情に目をとめて円は苦笑した。
「また有紀さんが失礼なことを言ったんですか?」
「それはあんまりだ、円さん。私は自分の女性に対するマナーは完璧だと自負しています」
その自信はどこからわくのか。
猫を床に放すと、黒峠は椅子に散らかっているカルタを片づけ始めた。亜沙子は来客用のソファーに腰を下ろす。先ほど帰ったばかりだということもあり、円と目が合うとどことなく気まずくて、いかにもばつが悪いといった笑みを浮かべてしまう。円も微笑を返してきた。
「えー、それではお話を聞きましょうか。まず、あなたのお名前を教えて下さい」
黒峠は亜沙子の前で、わざとらしく手帳を開いた。
「先生。私、真面目に悩んでいるので、先生がそういった態度なら帰らせてもらいます」
「君って短気だね。なんだか怒っているらしいから、君の機嫌が良くなるようにと、丁寧な応対をしたんじゃないか。気に障ったなら謝るよ。こちらも大真面目に応対しよう。それで、相談内容は? 闇金融で金を借りて業者に追われているのかい? それとも、人を殺したとか?」
「帰ります」
亜沙子は鞄を肩にかけ、勢いよく立ち上がった。
人を馬鹿にするにもほどがある。
黒峠はにやにやしたまま無言だったが、円の方が亜沙子を引きとめた。
「柊さん、落ち着いて下さい。有紀さんはたちの悪い冗談が好きなんですよ、ご存じのように。久しぶりに柊さんが訪ねてきて下さったんですから、有紀さんもふざけるのはその辺にして下さい。さ、柊さん、座って。とりあえず話してみて下さい」
これが黒峠なら耳も貸さず、鞄で脳天に一撃でもくらわせて帰るところだが、円に言われたのでは仕方ない。ここまで言われたのに振り切って帰っては、円に申し訳なかった。
反省の色など見えない黒峠を睨んでから、亜沙子は椅子に座り直した。
とりあえず、一通りの事情を説明する。意外にも話している最中、黒峠は茶々も入れず、腕を組んで黙って聞いていた。
亜沙子が話を終えた後、彼の第一声はこうだった。
「悪いけど、それ、気のせいなんじゃないかな」
正直かちんときたが、自分自身、話しながらそうではないかと思わないでもなかった。誰かに見られている「感じ」。誰かにつけられている「感じ」。全て証拠はなく、そんな気がするだけ。犯人らしき人物を見たことすらないのだ。
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