創世の祝宴:01


 そこには何もなかった。ただ、タムだけがいた。
 何もかもがない。一切が無であった。
 目が何かを見ることはなく、耳が何かを聞くことはなく、手が何かに触れることもない。圧するものはなく、タムはそこで自由だった。心地好くはあったが、同時にその自由を虚しくも思った。長く無の中にいては、心が虚になってしまいそうだ。
 自分はいつまでこの孤独に耐えられるだろう。タムは俯き、何かが起こるのを待った。
 そして、それは現れた。無の中から染み出るように現れたのだ。背の高さはタムと同じほどで、人の形をしている。手足があり胴があり、頭がある。タムと違うのは、頭に目鼻や口がないことだった。
 タムは未だかつて、これほど人に似た人でない生き物に会ったことがなかった。否、生き物ではないかもしれない。それは生死を超越した存在なのだと、瞬時に悟った。それが何であるか考えるのは、無駄なことなのだ。何であれ現れてくれたことで孤独感は和らぎ、安堵した。
 タムの目の前にいる何であるかわからないそれが、タムを見た。それに目はなかったのだが、見られているとタムは感じた。
 名前を尋ねられているのだ。
「私はタム」
 そう言ったのだが、声は出なかった。唇だけが動いた。無の世界では、声が伝わらないのかもしれない。しかし目の前のそれは聞こえたのか感じ取ったのか、微かに頷いた。何もない場所に指をさす。
 それが指をさした場所に、点が現れた。指によって穿たれたような、小さな点だ。その点には、とてつもない力が漲っている。これが全ての根源なのだ。この小さな点に、全てのものが凝縮されている。
 タムは静謐な心で、その光景を見守っていた。驚きも、戸惑いもなかった。これは全て当然で、約束された出来事なのだ。
 タムは人の形をしたそれを見た。それも、タムを見た。
 小さな点が伸びていく。点はすでに点ではなく、線となった。線はどこまでも伸びていく。こうして伸びだけがある空間が生まれた。いつしか線は、縦や横に広がっていった。点は線となり、面になる。そして面は膨らみ、ついに厚みのある世界が誕生した。刹那の出来事だった。
 気づけば、人の形をしたそれは両手に何かを握っているようだった。それぞれのてのひらに、明るいものと暗いものがのっている。暗いものは、総毛立つほど暗くおぞましいものだった。タムが手にしていたなら、迷わず捨てていたことだろう。
 人の形をしたそれは両手を合わせ、明るいものと暗いものを混ぜてしまった。何を思ったのか、混ぜたものをタムに手渡す。
 その儚げなものを受け入れるには抵抗があった。何故こんなにも脆く重要なものを自分に渡すのか。人の形をしたそれの考えは、自分には計り知れないものがある。混ざったものを両手で包みこみながら、「前にもこんなことがあっただろうか」と頭の隅で考えた。
 どうも、昔のことははっきりしない。
 眩い光のせいで、タムの思考は中断された。手の中のものが光っている。歓喜の光だった。尊く厳かな喜びの光が、辺りを照らす。耐えきれずに閉じたタムの目蓋の裏側までも、隅々まで照らした。光の洪水の中で、細く目を開けた。人の形をしたそれがいる。タムには、それが笑っているように見えた。


 タムが目にしたのは、蒼々たる大空と広く平らな土地だった。どこまでも、空と大地が続いている。その二つ以外には何もない。タムはしばらく呆然と突っ立っていた。だが永遠にこのまま立っているわけにもいかない、と歩き出す。歩きながら、自分の身なりを確認した。スニーカーにジーンズ、緑のフード付きトレーナー。鞄もしっかり背負っている。「いつもの」格好だ。
 そこは呆れるほどに広く、何もなかった、歩いても歩いても、目に映る景色は変わらない。それでも希望を捨てず歩き続けた。天と地の境まで辿り着けば、別のものが見えてくるかもしれない。
 そうして歩いて歩いて、どのくらい歩いたことだろう。
 時間を計るものは持ち合わせていなかった。空に太陽でもあればその傾きで時の経過を知ることが可能だが、ここにはその太陽すら存在しないのだ。ただ体に広がる疲労感だけが、かなりの距離を歩いたことをタムに教えていた。
 タムは腰を下ろした。天と地の境に近づいたとは思えない。自分はこれからどうなるだろう。永久にこの地を彷徨するか、もっと悪ければ力尽きて死んでしまうかもしれない。
 そんな想像に愕然とし、タムはもう死んだような顔をして中空を見つめていた。死ぬならせめて、ここがどこだか知りたいものだ。
 歩くのをやめて感傷に浸っていたタムの目が、あるものをとらえた。遠くに見えるそれは砂粒のように小さいが、確かに動いている。ようやく、天と地以外のものが見えた。それもおそらく、生き物だ。大喜びで立ちあがり、疲れも忘れて走り出した。手を筒にして、未だ小さく見えるものに呼びかける。
「おーい、おーい!」
 向こうも気づいたようで、近づいてくるのがわかった。
「おーい、おーい!」向こうも声を張り上げている。
 互いの距離が縮まり、相手の姿が見えてきた。それは、駝鳥だった。タムより背が高い。
「やあ、良かった。ここには何もないし誰もいないから、困っていたんだ。ここは何と言う場所なんだ? 自分が死ぬ場所がどこか、知っておきたいんだ」
 笑顔で話しかけると、駝鳥は怪訝な顔をした。
「あんた、死ぬのか。どうしてなんだ」
 どうしてだろう。タムも不思議に思った。さっきまでは自分はもう死ぬと思いこんでいたが、今はそう思えない。
 馬鹿馬鹿しいことだ。体が疲れていたせいで、気弱になっていたのだろう。
「いや、死なないよ。もう平気さ」
「そうかい。それなら、いいんだが」
 駝鳥はなめまわすようにタムを見た。彼から見ると、自分は珍しい生き物なのだろうか。タムから見れば、喋る駝鳥も珍しい。
「あんた、あれは持っているのか」
 駝鳥は嘴を近付ける。つつかれるのではないかと、タムは一歩退いた。
「あれ、じゃあわからないな。あれって何だ?」
「あれは、あれだ。名前だよ」
「名前か。名前はあるよ。私の名は、タムだ」
「そうか、タムか」
 駝鳥は沈黙する。タムは、自分が羨望の眼差しを向けられていることに気づいた。
「名前がどうかしたのか」
「羨ましいんだよ」
 彼の言葉の意味が理解出来ず、タムが首をひねる。
「つまり、あんたに名前があることが羨ましいと言っているんだ。ここで自分だけの名前を持つ者は、そういない。ほとんどいないと言ってもいい。あんたはわからないだろうがね、名前があるというのは本当に幸福なことなんだ。どうだい、わかるか?」
 問われたタムは、また首をひねった。名前を持つのは当然のことなので、そのありがたみについて考えたことがなかったのだ。
「ああ、俺も名前が欲しい」
 吐息を漏らし、駝鳥は呟く。
「ここには、お前の他に誰かいないのか」
「いるさ。ここをずっと歩いていくと、何人かいる」
「そうか。会ってみようかな。ありがとう。さようなら」
 別れの挨拶をしたつもりなのだが、通じていないのか駝鳥はタムのあとをついてくる。タムが振り返ると、「名前が欲しいもんだ」と駝鳥は目を逸らして言った。
 どこまでも駝鳥はついてくる。タムは立ち止まり、駝鳥に話しかけた。
「何だって言うんだ。どうしてあとをつけたりするんだ」
「わかるだろ、俺は名前が欲しいんだ」
「悪いが、私のはあげられない。諦めてくれ」



[*前] | [次#]
しおりを挟む
- 1/59 -

戻る

[TOP]
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -