04


 ――出口が、あるなら。
 この生活に、この閉塞した世界に出口があるのなら、そこから脱出してみたい。そんな衝動が突如膨れ上がり、抑えきれなくなっていた。
 二人は明るい地区に足を踏み入れていた。外光を取り入れる構造になっていて、白い壁は眩しいほどだ。
 スフィアの空には、地上を照らす光源はない。星も一つもない。ここが光の内側だからだ。
 白亜の壁に、軽やかな少年達の足音が響く。サンディは足が速く、乱れのないフォームで走っていた。タッフェムは必死で手足を振り、どうにかついていった。後方から聞こえる複数の足音が、タッフェムを急かす。
 サンディは右へ左へと角を曲がるが、行き当たりばったりに逃げているというより、どこかを目指して進んでいる様子だった。ひと気のない地区は目印になるものもなく、どこもかしこも真っ白だからか方向感覚もなくなって、タッフェムなどとっくに迷ってしまっていた。
 次の角を曲がると、サンディの姿がない。もっと先に行ってしまったのかと、息を切らしながら走り出そうとすると、襟首をつかんで引きとめられた。サンディが建物と建物の細い隙間に潜んでいる。
「こっちです」
 人一人がやっと通れるという間を、二人は一列になって駆け抜ける。少年達を見失った追っ手の、焦りの混じった怒声が聞こえた。
 狭くて急な階段を駆け足で下りていくと、水路に挟まれた地下通路に出た。
「奴らは下っ端なので、もう追ってはこられませんよ。ここから先は、機密情報に触れられる者しかたどり着くことができないので」
 それからサンディは、水路に飛びこむよう指示した。水深は一メートルほどだろうか。下水ではなく、水は澄んでいて清潔そうだが、どうしてここで濡れなければならないのか、タッフェムは納得がいかない。
「ぐずぐずしていると捕まりますよ。まあ、好きにすればいい」
 サンディは水に飛びこんだが、飛沫と共に彼が消えてしまったのでタッフェムは仰天する。見失うはずもないのに、どうしたことだろう。
 取り残されてしまって狼狽えていたが、退路もないので、腹を決めるしかなかった。息を止め、えいっとばかりに水へと身を投じる。
 飛沫があがる音。視界が泡で塞がれる。そして、足がつくくらいの水深だったはずなのに、つま先はどこにも触れず、体は下へと沈んでいった。
 何が起こっているのかと混乱状態に陥り、ごぼり、と息を吐き出したその時。タッフェムの体は空中を落下していた。体勢を整える暇もなく、床に尻餅をつく。
 そこも白い壁に囲まれた通路で、目の前にはサンディが佇んでいた。思考が追いつかず、のろのろと天井を仰ぐと、たっぷりの水がそこにあった。水はとどまり、落ちてこない。
 そういえば、タッフェムの服はどこも濡れていなかった。飛びこんだ際、確かに体に水がまとわりつく柔らかい感触があったのだが、どういう仕掛けになっているのか。
 目的地はこの突き当たりだとサンディは言う。手を貸してもらって立ち上がり、二人は進んだ。装飾のない、白く大きな扉らしいものの前で立ち止まると、サンディはポケットをさぐり始める。
「僕がポリスに追われた理由は、これを盗取したから」
 取り出したのは、丸くて平べったい形をした物だった。白っぽく、重量がありそうだが、タッフェムにはそれが何だかわからない。分厚いコースターみたいだった。
「これは、象牙の輪切りなんです。鍵として使われています」
「ゾウゲって、何だ」
「さっき話した、大きな獣、それに牙が生えているんです。持ちこまれた象牙は少なかったので、これはとびきり貴重なんですよ」
 扉を開けるために必要なコードを入力するボタンが壁についているが、その下の部分に丸い窪みがある。サンディは象牙をはめ、いくつかのボタンを押した。
 そうすると、扉に文字が浮かび上がる。サンディは、緑に発光する文字を見上げて、わずかに頬の辺りを緊張させた。出会ってから初めて、この少年の顔から余裕というものが薄まるのをタッフェムは見た。といっても、想定内の事態だったらしく、慌てる気配はない。
「音声認識。後はこれをクリアすれば開くわけだ」と呟き、タッフェムの方を見る。
「君、ここに書かれている文字が読めますか」
 タッフェムは戸惑っていた。浮かんでいるのは見たこともない文字で、スフィアで使われているものとは全く異なっている。
「ああ、読めるよ」
 それなのに、読めるのだ。タッフェムにとっては気味が悪いことだったが、サンディはやや安堵したように笑みを広げる。
「それは、失われた言葉ですよ。かつての世界で使われていたもの。僕には読めない」
「どうして、僕が読めるんだ」
「君は、全ての言語に通じているんです。そういう人なんです。さあ、読みあげて下さい」
 自分は部外者で、アクシデントによって巻きこまれたにすぎないとタッフェムは思いこんでいたが、どうもそうではないらしい。
 知らないところで事は動いていたものの、自分も歯車の一つだったのかもしれない。偶然ではなく、意図的に少年はタッフェムの運ぶ荷物に隠れたのだ。
 だが、もう、細かいことはどうでもいいような気がしていた。どこからか、花の香りが漂ってきて、頭を麻痺させている。花の香りなど、生まれてから一度も嗅いだ記憶がないというのに、それが花だとわかるのだ。
「――“花園”」
 タッフェムが読みあげると文字は消えて、扉がスライドしていく。二人は無言のまま、扉の向こうへと足を踏み出した。
 どこまでも続くかと思える広い空間に、色とりどりの花が咲き乱れている。そこは音もなく、風もない。
 無数の色にタッフェムは目を奪われ、芳香に酔って棒立ちになっていた。
「スフィアの人々は、植物というものを恐れて封じこめました。何故なら植物は野放図に成長し、どんなものでもいずれ破ってしまうから」
 むせかえるほどの香りの中、サンディはゆっくりと足を進める。
「光が外にもれてしまうのを危ぶんでいるんです。彼らは光を集めて独占しておくことに味をしめた。外ではとうに清算が済んで、光を待ちわびているというのに」
「お前は、スフィアを破りたいんだな」
 タッフェムが指摘すると、サンディは狡そうに目を光らせたまま微笑した。
「それは、ついでかな。僕は花に自由を与えたいだけなんです。まともな花が一輪もない世界なんて、無意味だから」
 彼によると、ここの花は皆、昏睡状態なのだという。サンプルとして集められ、管理されている。
 サンディはまたポケットから小さなものを取り出して、タッフェムに見せる。細やかな模様が彫られた、美しい、てのひらに収まるほどの、あかがね色をした小瓶だった。
 蓋を外し、中の水溶液を花の上に垂らす。
「これで、僕の任務は完了」
「中身な何なんだ」
「大したものじゃありませんよ。花達を目覚めさせるものです」
 おそらくは、健やかすぎるほど植物は育っていくのだろう。そしていずれは窮屈になり、狭いスフィアを内側から破ろうとする。誰かが気づいた時には、手遅れになっているのだ。
「僕達は一足先に、外へ出ようじゃありませんか」
 サンディが手招きするので近づいてみると、地面に銀色の巨大なものが埋まっていた。レモンを細長くのばしたような形だ。失われた文字が刻印されていて、【種子】と読めた。
「これはね、外に脱出するための乗り物なんですよ」
 ハッチを開けると、ほとんど横たわる形の座席が二つほどあった。
 二人は黙ってそれを見下ろしていたが、サンディがタッフェムの顔をのぞきこむ。
「やめておきますか」
 タッフェムは硬い表情で長らく口をつぐんでいたが、緊張をといたように、ふと苦笑する。
「いいや、行くよ。ここにいたって、荷物を配るだけでつまらない。外には、僕が飽くことがないほどの言葉が残されているんだろう。そういうものを見てみたいんだ。それに」
 サンディの目を、真っ直ぐ見つめる。
 もはや彼の瞳からは嘲りの色が消え、代わりに真摯で静謐な望みのようなものが宿っていた。サンディは、タッフェムの次の言葉を待っている。
「僕は、お前と一緒に行かなきゃいけないって、そんな気がするんだ。ずっとずっと、そうだった気がする」
 彼の瞳が、彼の笑顔が、無性に懐かしく思えてくるから不思議だ。その理由は、どれだけタッフェムが手をのばしても届かない遠いところに、それこそ、失われた文字のようなもので刻まれていて、決して読むことはできないのだろう。
 怪訝そうにするかと思いきや、意外にもサンディは笑って見せる。生意気そうではない、少年らしい、快活で腹蔵のない笑みだった。
「それじゃあ、行きましょう、タッフェム」
「そうだな、サンディ」
 光は弾けて、再び世界をあまねく照らすのだろう。



(終)



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