この世の底で見る夜明け



大学入試に失敗して浪人、就職活動に失敗して大学留年、自殺にも失敗した依杏は現在実家暮らしのニートだ。療養を理由に大学は休学している。実際腹の傷口が塞がった後、三ヶ月間は措置入院で閉鎖病棟に入れられた。自傷他害の危険があると診断されたためらしい。
最初の一ヶ月ほどは混乱していたのか断片的な記憶しかないが、世間から隔絶された環境に長く身を置くと、焦燥感と不安、半ば虚勢の楽観を繰り返し往き来するようになる。精神状態が不安定だった時期に人間関係を悪化させたため、友人だと思っていた数少ない相手とは一層疎遠になった。皆忙しいので自殺未遂なんかしたメンヘラに構っている余裕はないのだ。
大学浪人も留年も恥晒しだと言って責めた両親は、自殺に失敗したことだけは詰らなかった。子供に『イアン』なんて珍妙な名前をつけておきながら、体裁ばかり気にして愛情が感じられない両親がずっと嫌いだったが、依杏自身が蔑ろに扱われた以上に金銭的にも社会的にも面倒や迷惑をかけていることは事実なので、ひとまず大学卒業まで実家を追い出されないのは助かる。まともに関わる苦労を惜しんでいるのだと分かっていても、気まぐれな体罰や叱責が止んだ日常は依杏の精神を徐々に落ち着かせていった。

全てのニートが引きこもりという訳ではない。依杏の場合は入院前にバイトで貯めた金が多少残っていたこともあり、通院以外に近所へ散歩がてら買い物に出掛けることもある。他人の目が気にならないといったら嘘になるが、家から一歩も出なくても噂話の標的にはなり得るし、散歩に関しては早朝暗いうちならば特に顔見知りに遭遇することは避けられた。
夜明け前のコンビニにはあまり客が来ない。じきに秋も終わろうとするこの季節、周辺に屯するやんちゃな連中は明け方が近付く頃には流石に家へ帰るのだろう。夜勤のバイト店員も大抵やる気がなさそうな接客態度で、配達業者が弁当類を補充しに来る光景を見掛けることもある。
見覚えのある顔の男と出会ったのは思いがけないことに早朝のコンビニだった。中年の男性店長に指示されながらレジカウンターの保温ケースに缶飲料を補充している彼は最近入った夜勤バイトらしい。ユニフォームの胸に付けた名札を見てもなかなか思い出せなかったが、記憶の底から男の素性を探り当てた途端にその理由も分かった。依杏が高校一年生の頃、同じ学年の男女数人が覚醒剤使用容疑で逮捕、補導されるという事件が起こり、彼も退学になった生徒の一人だったのだ。
荻原ジュネ、確か隣のクラスで依杏と同様に変わった名前だった。何かの拍子に耳にした名前が印象に残っていただけで漢字は知らない。男女に分かれた二組合同の保健体育の授業で一緒だったような気がするものの、一年の夏休み明けに事件が発覚したこともあって記憶が定かではない。

「溝口、切腹したって聞いたけど、意外に元気そうじゃん」

立ち読みを装って肝心の雑誌には碌に目もくれない不躾な視線をどう捉えたのか、店長がバックヤードへ引っ込んだ後、カウンターの内側から出てきた荻原がまるで旧知の仲であるかのように話しかけてきて、想定外の行動にあからさまにびくついてしまう。繋がりが薄い依杏の存在を覚えていたこと自体驚きだが、店内に他の客が居ないとはいえ、ありふれた噂話と同じ調子で自殺未遂の件を持ち出す辺り、悪意の有無と別に無神経な人物という印象を受けた。そもそも外見からして軽薄そうな感じがする。関わるのが面倒で、覚えていないふりをすることにした。

「……すいません。ちょっと、思い出せないんすけど。同じ大学とか?」
「あぁ! そっか、覚えてねぇか。オレ、荻原。高校一緒だったんだよ。高梨が心配してて、先週家に電話したって言ってたけど、もしかして家族から何も聞いてない?」

高校三年間同じクラスだった友人の名前を不意に出されて、大学浪人中に数回会って以来連絡を取っていなかったことを思い出す。携帯電話は解約してしまったので、恐らく電話を取った母親が故意に伝えなかったか忘れたかしたのだろう。
同じ年の連中は順調に大学を卒業後、就職していたら社会人二年目だ。
なかなか口を開かないでいると、一応170cmはある依杏よりも10cm以上身長の高い荻原が、平積みの週刊誌を整頓するため足許にしゃがみ込んだ。上目遣いで見上げる表情はやはり深刻さを感じさせない。

「近いうちに、高梨には連絡するんで。……ありがとうございました」
「オレは腹切ろうとは思わなかったけどさぁ、『やべえ、失敗した』って気持ちは分かるよ。首吊ったことあるから」

依杏の目を見上げたまま淡々と打ち明けた内容は思いの外生々しく、彼が自殺しようとしたきっかけは高校を退学処分になった理由と同じだろうかとぼんやり考える。因みに首吊りは梁やロープが体重に耐えられなかった場合、運が悪ければ脳機能に重い障害が残るし、成功しても糞尿を垂れ流すことになると聞いたので依杏は選択肢から外した。

「……寝たきりになんなくて良かったっすね」
「あー、うん。……そういう意味では、良かったかも」

無難な反応を返したつもりだったのに荻原にとっては予想外だったらしく、何だか拍子抜けしたような表情で首を傾げてみせる。過剰に反発したり親近感を抱いて気を許したりすることを期待したのかも知れない。他人の気持ちを想像して共感する能力に欠けているのは元からだ。死に損なって尚更全てが億劫になった所為もある。

誰かが言った通り、陽はまた昇って止まない雨はない。そんな風に優しく美しい世界が実在するとして、青空の下で生きる権利があるのは這い上がる努力をした人々だけだということも知っている。現在の依杏は夜明け前のぬかるみで泥水を啜る暮らしに甘んじる怠惰な肉塊だった。
それでも高梨には連絡してみようと思う。


2012/10/06
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