?? 英雄
- 「君には心から感謝している」
夕闇の中、目の前には海岸線が広がる。流木に腰掛けたまま男は言葉を紡いだ。浮浪者のような身なりをした、みすぼらしい男――これが他民族を虐げ、地獄を作り上げてきた支配者だなんて、誰も思いはしないだろう。そう他人事めいた思考が過ぎる。
「全ては、君とその同胞の協力がなければ成し得なかったことだ」
ただこの、澄んだ瞳だけは。理想を秘めた静かな眼差しには滲み出る高貴さがある。その人ならざる輝きは、本人が望もうと望むまいと、限りなく『支配者』のものに違いなかった。未だ人と人として話している実感がないままに、葉巻から口を離し、端的に返す。
「必要ありません。私は元より己の益しか頭にない男です。感謝するならば、あなたの民である妻に」
「ああ。彼女ほど心が豊かで、気高い女性もそういない。……君たちを祝福する資格など、私にはない。だが、それでも。君たちの存在を知った時、この心がどれだけ喜びで打ち震えたことか」
愚かな帝国の、下らない治世で。垣根を越えて育まれた奇跡。人と人とは分かり合える。暴力ではなく、愛で――その出会いこそが、私の望んだ理想そのものだ、と変わり者の王は微笑んだ。
齢4で親を殺され、虐げられるばかりの日々を憎んだ。巨人の力で世界を支配する残虐非道な怪物ども。エルディア人に一槍くれてやる。それが若き日の、正義感ばかりだった己の全て。
たかがマーレの一青年の、無謀な反乱計画はありきたりに失敗に終わり、大勢の仲間と拠点を喪った。そのまま死を待つばかりだった生を、憎むべきはずの女に救われ、王からの恩赦を受け、そうして今がある。
恋を知り、人を愛し、初めて平穏を望んだ。だが、この世界で愛するひとと公然と生きる道はどこにもない。
目の前の男の語る、理想郷以外では。
「友よ」
穏やかで、憂いた目をした男は俺を友と呼ぶ。
「君の名を借り受ける許可を、私にくれないか」
何のことを言っているのかはすぐに見当がついた。新たな秩序には、新たな象徴がいる。この街から消える男の名ほど、仮初の英雄として祀り上げるに都合のいいものはない。
「なあ、」堅苦しい敬語を取っ払って初めて男の名を呼んだ。流石に賎民に呼び捨てにされることには慣れていないようだ。面食らった表情がどうにも笑える。
「俺とあんたは共犯だ。だから――世紀の大嘘つきが務まるのは、俺くらいのもんだろ?」
合意の証に手を差し伸べる。
「……ああ。……ああ……」
男は涙さえ浮かべて手を固く握り返し。感謝と謝罪を繰り返し、繰り返し口にした。
遠い王都から同胞の勝鬨の声が響いている。
出発の時は来た。海の向こうで得られるささやかな幸福だけを、ただひたすらに思い描いて、戻ることはない故郷に背を向けた。
波が彼らの痕跡をかき消していく。