14 偽り者
- 燃えるような夕日が麦畑を照らしている。男は首に巻いた手布をそのままに、軒下の古びた椅子にどっかりと腰を落ち着け、ベルトを緩めて腹を摩った。途端に「ちょっとあんた、はしたないよ」なんて鋭い声が飛んでくる。口うるさい女房だ。我が家で寛ぐのが何が悪いってんだよ、なあ?頭を下げて椅子の下でうたた寝をしている愛犬の頭をちょいちょいと撫でてやる。
思う存分体を働かせたあと酒を一杯ひっかける、それが長年この土地で農夫を勤めてきた男の生き甲斐だった。時折ひそやかに領主様の不気味な噂が聞こえてきたりはするけれど、知らぬ存ぜぬを通してさえいれば、存分にこの質素で悠々とした暮らしを続けられる。そうやって先祖もそのまた先祖もこの畑を守ってきたのだ。遠くの南部では壁が破壊されたとか、避難民が押し寄せて大変なことになっているだとか聞くが、この領内で人生のほとんどを暮らしてきた男にとってはこれっぽっちも知ったこっちゃない話だった。
平穏そのものの風景にぼけーっとして外を眺めていると、向こうから道なりに馬に乗った小さな影が近づいてきた。こんな時間に来客とは珍しい。一瞬憲兵かとも思ったが、それにしては格好がどう見ても平民のそれだった。獣の鼻息と、「どうどう」と宥める声。ロバの背を撫ぜながら、娘は申し訳なさそうに眉をさげてこちらに声をかけてきた。
「あのう、こんな時間にすみません。うちの荷車がもうだいぶきてたみたいで、さっきバラバラになってしまって……よかったら道具を貸していただけませんか?」
「おお、そりゃあ全然。持ってけ持ってけ」
「ありがとうございます!」
快い返事に勢いよく頭を下げた少女を見下ろして農夫はポリポリとシミだらけの頬を掻いた。
「……けどよう、今から来た道戻るつもりか?もう日も暮れかかってるし、この辺は野犬も出るから危ねぇぞ?」
「大丈夫です!こう見えても結構夜目は効きますから。獣の一匹二匹くらい追い払えますよ」
むん、と自信ありげに腕を捲ってみせる少女のあまりの純朴さに、おめぇさんがかあ?と呆れた目を向ける。とはいえあまり若い衆を引き止めるのもかわいそうだ。「そうかい、まあ、気ぃつけて帰んなよ」と物分かりの良いふりをしてひらひらと手を振ってみせた。
ぺこぺこ何度も頭を下げたあと、ロバの上で尻尾に似た髪の毛を左右に揺らしながらのんびり道を戻っていく少女の姿に、ひょっこりと窓から覗かせた相方が首を傾げる。
「おやまあ。あんな元気な娘っ子いたかね?うちの倅より若いじゃないか」
「あれだ、あいつよ、馬飼いんとこの姪っ子だろ」
ご近所さん付き合いにご執心な女房は興味を抱いているらしいが、べつに世代が入れ替わっていくくらい、大して面白い話でもない。あの娘も道具を使い終わったら明日や明後日あたりまた返しに来るだろう。大欠伸をして、男は再び一日の終わりをゆったりと味わうことにした。
――「君は、反逆者になる覚悟はあるか?」
ハンジ班への配属が決まった日、エルヴィンは理知的かつひどく苛烈な光を宿したその瞳でベロニカを射抜き、問いかけた。
クリスタ・レンズ――本名をヒストリア。彼女の生家たるレイス家こそが、この壁の真実の鍵を握る一族。それが判明してすぐ、ベロニカはエルヴィンから特命を受けた。シーナ外壁北部、レイス家領地への潜入。新兵であり、顔が割れていないベロニカならば内部を探りやすいと踏んでの抜擢だった。
潜入するにあたり、調査兵団は親族との関係が薄くなっていた老人に当たりをつけた。ベロニカは彼の姪を名乗り、病気で遠方にいる彼に代わって残された馬の面倒を見るという名目で住み込みで働いている。
ここ最近のルーティーンは、馬の世話、そして村人との歓談。遠回りだが徐々に、だが確実に内部に溶け込み、領内を探っていく。
(……みんなはどうしてるかな)
中央憲兵が活発になっている今、手紙は一方的な報告で手いっぱいで、リヴァイ班に配属された同期たちの動向は知ることができない。無事でいればいいが。こまめに記録を続けている手帳をパタンと閉じて窓の外に視線をやる。真っ暗闇の中で、遠くにぽつりぽつりと民家の明かりが見え、虫の音だけが耳に染み入る。
平穏そのものだ。これまでは随分と有能な『番犬』がいたようだが、その者は出払っているようで、今のところは憲兵の定期的な見回りもやり過ごせている。
自分がこうも嘘を取り繕えるとは思わなかった。巨人と程遠いところに暮らし、最前線の街の実情などまるで知らない内地の住民たち。彼らを偽り、害のない村娘として振る舞う。任務のため仕方ないと言い聞かせても、罪悪感がもやついて消えてくれない。
(……ブレるな。余計なことを考えるな。今の私の任務はレイス家の正体を探ること)
王政は人類にとって重要な真実を隠し続けてきた。まずはじめにそれを暴かなければ。目的のためには。先へ進むためには……。
目的。
――こんな時、いつも脳裏を過ぎるのは最後に見た鎧の巨人の姿だ。人間の姿のままのベルトルトを守り、ユミルの巨人と共に無知性巨人に群がられていた。あの後の消息は辿れていない。普通の巨人が容易にあの硬い皮膚を剥がせるとは思えないが、あれだけ消耗していたら、最悪の場合は壁にたどり着く前にそのまま力尽きて食われているかもしれない。
だが。
(ライナーは、あんなところで死なない)
確信があった。遠くない未来、必ず再び相見える日が来る。きっと彼らは、こうしているうちにも襲撃の準備を着々と進めている。だからこそ、内政が安定しないまま、彼らを倒す勝算もないまま攻めてくる日を迎えるわけにはいかないのだ。湧き上がる薄暗い感情を整理するように、ベロニカはただ一人、机に座って静かな夜を明かした。
◆◆
1週間経つと、はじめに噂好きの女性と打ち解けたのが功を奏したのか、周りからよそ者だと奇異な目で見られることも少なくなった。今日は祝祭のようで、村の中心部、ご婦人方がきゃあきゃあと噂話を咲かせる中で子供たちは野原を転げ回っている。その中で一人、ふてくされた表情を浮かべる少年がいた。「どうしたの?」声をかけると、「べつに」とむっすりとした答えが返ってくる。
「こんなつまんないとこじゃなくてさ。オレはもっと遠くに探検に行きたい」
「あはは……。のどかだもんねぇ、この村は」
風も穏やかに、青空には羊のような雲が浮かぶ。柵の向こうからは歌声が聞こえてくる。こちらを捕食せんと迫る肉塊、臓物で汚れた草木、崩壊した街の姿も、ここにはない。どこかこの場にいてはいけないような居心地の悪さすら感じるのを、笑顔の裏に隠す。
「そうだよ。大人はみんな危ないから出るなって。この村にずっといれば安全だからって。オレだって分かってるけど、でも……」少年は言葉を切って、いたいけな鳶色の瞳でベロニカを見上げた。
「なあ、外ってどんな感じ?」
言葉に窮する。なんでもないふうに返せばいい。だのに、思うように動かない表情筋がそれを許してくれなかった。唇を開く前に、タイミングよくもう一人の少年がベロニカの脇の下を潜って顔を出した。
「なんだよ、おまえまだ冒険とか言ってんの?肝試しんとき一番泣いてチビってたくせに!」
「は!?はあ!?漏らしてねーし!!」
顔を真っ赤にして立ち上がり、自分の周りをぐるぐる回って追いかけっこをはじめる少年たちにベロニカは問うた。
「『肝試し』って、いったいどこに行ったの?」
「おねーさん、聞きたい?」
ニヤッと笑って怪しく目を煌めかせた少年が声を顰めた。「礼拝堂で起きたことは知ってる?」「うん。ついこないだ聞いたよ」ベロニカは首肯する。
「あんたを見ているとフリーダ様を思い出すねぇ」――そう言って、一昨日一人の女性が語ってくれたのは、5年前領主とその家族を襲った悲劇だった。ウォール・マリアの壁が壊された日の夜、混乱に乗じたならず者が領内に侵入して礼拝堂を襲撃したのだ。運悪くそこで祈りを捧げていた妻や子供たちは惨たらしく殺され、主人のロッド・レイスだけが生き延びたと。とりわけ領民に慕われていた長女フリーダの死は、誰もが惜しんだという。これがこの平和な村で唯一と言っていいほどの悲惨な事件であるということを、団長宛に報告したばかりだった。
「あの丘あたりに墓地があって、その先に礼拝堂まで続く雑木林があるだろ、そこで見たやつがいるんだって。しろーい衣装を身に纏って、血濡れで歩いてる……死んだ領主様の家族の幽霊が、今でもうめき声混じりに祈りを捧げてる声が聞こえてくるんだって!」
少年は耳打ちするようにヒソヒソ声で続けたあと、「……まあ俺はそんなのいないって思ってるけど?」とあっけらかんと笑ってみせた。「気になるからみんなで夜中に行ってみたらさ、こいつはビビりだから声聞いたとかなんとか、わーわー泣いてうるさくて」
「黙れよ!」顔を真っ赤にしたはじめの少年が叫んで彼をキッと睨みつけた。「絶対聞いたんだ!嘘なんかじゃないっ!」
……これだ。おそらく、これが手掛かり。
ベロニカは内心で確信を強めた。あまり時間はない。どうやら今夜にでも確かめにいく必要がありそうだ。そんなことを考えながら、揶揄われて泣きそうになっている少年を宥め、言い合いの仲裁に入るのだった。
◆◆
その日の夜、月が隠れた時を見計らって、明かりも少なな道を抜けて林へと向かった。見回りの憲兵に気取られないようランタンに布を被せて、最小限の光源の中で木の根元に目を凝らしながら進む。
見つけた。
やや前のめりに生えた巨木。草をかき分ければ、小柄なベロニカがギリギリ身を通せるくらいの木のうろが現れた。地を這いながら穴を潜ると、そこは洞穴のように、全身すっぽりと入ってしまえるほどの深さがあった。辿れば、足場からさらに窄まるように、ネズミ一匹通れるかどうかの空洞が下へと続いている。試しに小粒の石を落とすと、カン、コォン、と硬いものに当たって反響しながら下に落ちていく音がしばらく続いた。
この地には巨大な空洞が広がっている。少年が聞いた恐ろしい声というのは、木の根の下に続く地下からの曝気音だ。それがベロニカの予想だった。事件後にすぐに領主が礼拝堂を再建したのもおそらくは地下へ通じる入り口を隠すためだ。
そして、石造りの礼拝堂がただの盗賊に壊されたとは思えない。レイス卿が壁の秘密を知るならば、そこには巨人の力が関わっている可能性が大いにある。
そうしてしばらく地面を調べていると、遠くから車輪の音が近づいてきた。慌ててランタンを消して、穴の中で息を潜める。人の話し声に顔だけ覗かせて道の方へ目を凝らすと、馬車から降りてなにやらやりとりをしている男たちの姿が見えた。長身の男が「慎重に運べよ」と指示を出し、木造りの荷台に棺桶が二つ降ろされる。誰かを生け取りにして連れてきたようだ。まさか。
(エレンとヒストリア……!?)
ベロニカは息を呑んだ。リヴァイ班に保護されていたはずの二人がどうしてここに拉致されているのか。いや、しかし、これでレイス卿こそがエレンの身柄を執拗に要求してきた王政の黒幕だと示すピースが揃った。
あの戦いの日、ライナーはエレンに向けて巨人を投げて寄越してきた。つまりは、エレンが食われても彼らとしては構わない――エレンの持つ巨人を操る力は他の巨人に『継承』可能ということだ。そして、もし読み通りレイス卿が巨人の力を有しているならば、エレンからその力を奪うことだってできる。
一刻も早く二人の居場所を調査兵団に知らせなければ。教会の方面へと向かっていく男たちを見送ったあと、ベロニカは慎重に林を後にし、伝達兵と接触するべく急ぎ馬を走らせるのだった。