11 正体
- 木を打ちつける音が石づくりの部屋に反響している。ベルトルトから最後の木材を受け取り、一仕事終えたコニーがふうと息をつき、完成した扉のバリケードを確かめるようにひと眺めした。
「巨人を防ぐにしては心もとないけど、ないよりはマシだよな……」
「まぁ、精々また破られねぇことを祈ろうぜ」
抑えていた閂から手を外して踵を返す。ベロニカが調達した覆いの布は長年の劣化でとても傷の手当てには使えない有様だったが、そこはクリスタが自身のスカートを包帯替わりにして解決したようだ。消毒に手当てまで済んだライナーの様子を伺って、ベロニカはほっと息をついた。その横では、ユミルもなにやらクリスタに手当てされたそうにしてコニーに呆れられている。
「ライナー、さっきはすまなかった。俺、お前に助けられてばっかだな……あぁ、そういやアニにも命張って助けられたよな。いつか借りを返さねぇと……」
コニーがすまなさそうにそう口にすると、ライナーは「……別に」と視線を逸らした。
「そりゃあ……普通のことだろ。兵士なんだからよ」
「どうかな……あんな迷いなく自分の命を懸けたりするのって、ちょっと俺には自信ねぇぞ。なぁ?ベルトルト、ライナーって昔っからこうなのか?」
話を振られたベルトルトは逡巡のち、「いいや」と言葉少なに否定する。
「昔のライナーは……戦士だった。今は違う」
(……戦士?)
どういう意味だろう。兵士とは違うのだろうか。首を傾げていると、「何だそりゃ?戦士って何のことだよ?」とライナーも不思議そうに返した。同郷の二人にだけ通じる何かを指していたのかと思ったが、どうもそうでもないらしい。
とりあえずしばらくまた使えそうなものを漁りに行く必要がありそうだと考えを巡らせていた矢先、轟音と激しい揺れが塔を襲う。よろめく彼女たちの頭上からパラパラと細かい石くれが降ってくる。「な、何だ!?」状況を確認しようと、慌てて全員で上階へと駆け上る。音の出所は屋上だった。ベロニカたちが駆けつけると、そこにはゲルガーとナナバ、そして――血塗れになり横たえられた、2名の上官の姿。一目見ればすでに息がないことは明らかだった。ゲルガーが悔しげに歯噛みする。
「気をつけろ。壁の方角から岩が飛んできて、そいつにやられた」
「……あいつだ!1体だけ壁の方に歩いていった、あの獣の巨人の仕業に――うぉ!?」
森の方角からさらに接近してきた巨人の大群を見て、コニーはその言葉を途切れさせた。
「巨人多数接近!さっきの倍以上の数は!」
「巨人が作戦行動でも取ってるようなタイミングだね。まるで最初っから遊ばれているような気分だ……」
巨人をある程度退けるや否やまた次の群れが投入される。周囲を見渡せば厩舎も岩で押し潰されていて、それはこの古城から脱出する足を失ったも同然だった。これらが全て『獣の巨人』の指揮によるものだとしたら、あれも同様に知性巨人に違いないと危機感が募る。見られているのだ。もしかしたら夜が更ける前、月明かりのない中で、一行が城を訪れた時からずっと。
「君たちはここから離れるな。別の方向からまた群れが来るようであれば知らせてくれ。……正直、私達だけであの数相手にどこまで太刀打ちできるか分からない。けれど――戦う限りはまだ、負けていない」
己に言い聞かせるようにそう口にし、刃を装填して再び巨人の群れへと立ち向かっていく後ろ姿。
早く一端の兵士になり、俺たちに楽をさせてくれと笑いながら教えを授けてくれた。幾度となく助けてもらった背中に踊る自由の翼。それが耳を塞ぎたくなる絶叫とともに引きちぎられ、飲み込まれて見えなくなる最後の瞬間まで、目を逸らさずにいることが唯一ベロニカにできた返礼だった。
「あぁ……やられた……」
何時間も健闘した上官たちがガスと刃を使い果たして捕食されていく姿を目の当たりにし、コニーが声を絞り出すように呟いて、ガクリと膝を折る。孤立無援。武器もなく、周囲を数多の巨人で囲まれた104期の新兵たちは絶望的な状況に置かれている。
巨人に食われて、いずれ消化されることもなく吐き出されて。そうやって終わる。次にその死に様に直面するのは自分たちだという悲観が全員の頭をよぎる。
――自分は、ここで死ぬのか。
――何もわからないまま、発見も報告できずに。
――彼と仲間と生きて帰る未来も選べずに。
嫌だ。こんなのは正しい死に時ではない。受け入れられない。受け入れるわけにはいかない。未だ月明かりの下で蠢く肌色への憎悪と、不条理に対する怒りが胸中を焦がす。
「戦う限りは……」
ベロニカは口の中でつぶやいた。しゃがみ込み、岩で即死した2名が装備していた立体機動装置に手を伸ばす。やはり替えの刃は鞘ごとへし折れ、装置の方は明らかに故障していて、新たな部品がなければ修理できそうにない状態だ。けれど。リーネの遺体の側から立ち上がり、ふらふらと焚き火の方に近づこうとしたベロニカを困惑混じりの声が呼びとめた。
「ベロニカ、お前……何してんだ?」
「火が要る」
そう簡潔に返すと、何をしようとしているのか察したらしい面子が息を飲む。
「まだガスの残ってるボンベに火をつけてあいつらに投げる。いや……それだけだと的に届かないか」
何か重しになるものを探してきて括りつける。最終手段としては自分が腕に抱いて飛びこめばいい。多少は爆発の威力が増すはずだ。それで何匹かは殺せるだろうか。思い詰めた危うい表情のベロニカの肩を掴んで制止したのはライナーだった。
「何考えてんだ、それだけは絶対にダメだ」
「残された攻撃手段はもうこれしかない。そんなことライナーならすぐに分かるでしょ?」
ベロニカは瞳をぎらつかせて頑なに続けた。巨人の正体が人間かどうか?今はそんなことを考えている余裕はない。ここで最後まで抵抗しなければさらに喪われる命がある。だというのに黙って何もせずにいられるだろうか。何も成さないで死ぬよりは、ここで巨人を一匹でも多く倒してから死ぬ。大事なひとが、自分よりも一瞬、一秒でも長らえる道を選ぶ。
尋常ではない様子のベロニカに気圧されてライナーは額に汗を浮かべる。
「頼むから落ち着け!お前、完全に周りが見えなくなってるだろ!実行に移すには危険すぎるって言ってんだ。爆発で殺せるとも限らないし、衝撃で塔が崩れちまうかもしれない。そうなったら本当に俺たちは逃げ場がなくなっちまう」
ライナーの言うことも一理ある。一方で、何もしていなくたって塔が崩れるのが時間の問題なのも確かだ。では、どうやってあの巨人の大軍相手に戦えばいいというのだろう。ベロニカは俯いて強く歯噛みした。何か。他に何かないのか。ここからこれ以上、一人として仲間を喪うことなく、全員生き延びることのできる手立ては――。絶対に諦めたくない。けれど、ベロニカの頭ではその解を導き出せそうになかった。クリスタも「私も……戦いたい」と悔しさを滲ませた声音で口にする。
「何か、武器があればいいのに。そしたら一緒に戦って死ねるのに」
「……クリスタ。お前まだそんなこと言ってんのかよ」
ユミルの苛立たしげな声がクリスタを遮る。
「彼らの死を利用するな。あの上官方はお前の自殺の口実になるために死んだんじゃねぇよ。……お前はそこの死に急ぎ女とも、コニーや上官方とも違うだろ。本気で死にたくないって思ってない。いつも、どうやって死んだら褒めてもらえるのかばっかり考えてただろ?」
「そ……そんなこと……」
クリスタは動揺の隠せない震えた声で否定する。「クリスタ」ユミルは彼女の名を呼び、彼女の肩を掴んだ。躊躇するように一瞬瞳を閉じて続ける。
「こんな話、もう忘れたかもしんねぇけど……。多分、これが最後になるから……思い出してくれ。雪山の訓練の時にした約束を」
一瞬、視界が眩しさで眩んだ。西の山から顔を出した朝日が塔を照らす。絶望感をよそに地平線の果てまで明るくなっていく空。巨人さえいなければこの景色を少しは楽しむ余裕もあったかもしれない。「……最後に、陽を拝めるとはなぁ」と諦念まじりに一人ごちたコニーに向かって、ユミルは手を差し出した。
「コニー、ナイフを貸してくれ。……ありがとよ」
首を傾げつつ、素直にナイフを差し出したコニーの頭を彼女はペチッと叩く。
「何に使うんだよ、それ」
「まぁ。そりゃ……これで戦うんだよ」
「……オイ?」
普段と様子の違うユミルをライナーが呼び止めた。
「ユミル?何するつもりだ?」
「……さぁな。自分でもよくわからん」
彼女は冷や汗を流しながらも、どこか皮肉げに笑った。視線を端にいたクリスタに移して訥々と口にする。
「クリスタ……お前の生き方に口出しする権利は私には無い。だからこれは、ただの私の願望なんだがな――」
逆光の中に佇む彼女の口元には笑みが浮かんでいる。その真摯なまなざしは、どこまでも目の前のクリスタただ一人だけのために注がれていた。
「――お前、胸張って生きろよ」
地を蹴る音。言い終えるやいなや、躊躇いもせず塔の先へと駆け出し、ひらりと身を踊らせたユミルの姿にその場にいた誰もが驚愕した。
「嘘でしょ!?ユミル!……!?」
慌てて下を覗き込んで叫ぶ。その瞬間、前触れもなく迸った強烈な閃光が瞳孔を貫いた。自然のものではない旋風が前髪をかきあげる。庇った腕の隙間から信じがたい光景が目に飛び込んでくる。何者をも寄せつけまいとばかりに吠えるような甲高い叫びを上げたのは――凶暴な爪の、鋭い牙を持つ小柄な巨人の姿。
巨人は下で待ち構えていた無知性巨人の上、塔の側面を素早く飛び移り、次々とうなじを噛みちぎっていく。さっきまで当たり前のように話していたユミルが、巨人に変貌した。その事実を受け止めきれずにベロニカの思考は混乱の渦に叩き込まれる。崩れかけていた塔がさらにぐらつき始め、落ちそうになったクリスタの足をライナーが咄嗟に掴んだ。ベロニカとコニーも手を伸ばし、慌ててクリスタを引っ張り上げようと支える。「あ、ありがとう、ライナー……いっ!?」ライナーはどこか意識を別の場所にやっているのかギリギリと強くクリスタの足首を掴んだまま微動だにしない。
「いたた!ライナー、足!」
「ライナー!?もういいって!放せよ足!オイ!」
「ハッ!?……すまん」
コニーがライナーに向かって叫ぶとようやくライナーは我に帰ったらしくパッと手を離す。そのままどこか呆然とした様子で、「クリスタ。お前は知ってたのか?ユミルが、巨人だったって……」とクリスタに問うた。
「知らなかった。いつも近くにいたのに、こんな……こんなことって。信じられないよ。3年間ずっと一緒にいたのに。何なの一体……あれがユミルだっていうの?」
そんなの嫌だ、と小さく呟いてクリスタは唇を食む。しばしの沈黙の後、ライナーは「……つまり」と息を吸い込んで続けた。
「あいつは、この世界の謎の一端を知ってたんだな。まったく……気がつかなかったよ」
「……正体を明かし兵団に貢献することもできたはずだ。エレンみたいに。でも、それをしなかったのは、それができなかったから……なのか?」
「待てよ!エレンは自分が巨人になるなんて知らなかったんだろ?でも、何かユミルは巨人の力を知ってた風だぞ」
ユミルは自主的に意志を持って巨人化し、力を使いこなしている。「……あいつは、どっちなんだ……?」コニーが困惑した様子で汗を浮かべる。なんらかの方法で巨人化能力を手に入れ、巨人を殺すために力を使う、人類の味方なのか。はたまた、鎧や超大型と同類の人類の敵なのか。3年間共に寝食を共にした仲だが、その答えに易々と結論を出せるほどベロニカはユミルを知らない。彼女は自分のことを語らず、いつものらりくらりと器用に荒波をかわして事を済まそうとしていた。わかりやすく口に出すことといえばいつもクリスタのことばかりで。
……もしかして。「一体、ユミルの目的は何なんだ……」ぽつりとベルトルトが呟いたのを皮切りに、ベロニカは視線をクリスタに移動させた。力を隠していた理由は分からない。彼女が何を知るかも。だけど今戦っている彼女の目的は、もっと単純で、普遍的な――。
「あ……!!」クリスタが声をあげる。ユミルの体が塔の下にいた巨人に引きずり下ろされ、食いつかれていく。そのたびに伸ばされた腕を噛みちぎり返すも明らかに多勢に無勢だった。巨人を足場にして一旦上へと逃れようと跳ね上がったが、片足を掴まれて身動きがとれない。掴まれた塔の側面にビキリとヒビが入り、がたつきはじめた石の並びが塔の崩壊がそう遠くないことを知らせていた。そのまま硬直状態になるかと思われたが、次の瞬間ユミルはパッと手を離して巨人の群れの中へと落ちていく。
「何だ!?まさか、塔の損傷を気にしてるのか!?」
「……そうだよ。巨人の力を自分一人で逃げるために使うこともできたはず。あの体の大きさじゃここの巨人すべてを倒すことなんてできないよ。なのに今、ここでユミルが戦っているのは……私たちを、命懸けで守ろうとしてるから」
確信を持った口調ではっきりと言い切ったクリスタの声にベロニカはぎゅっと拳を握りしめた。そうだ。ユミルの正体が何であれ、今この場で戦いから逃げ出さずに立ち向かっているのは、他ならぬクリスタと、自分たちがここに取り残されているからだ。
四肢が巨人に噛みつかれ、血しぶきと蒸気が空に散る。その姿を見て「何でよ……ユミル」とクリスタが彼女の名を呼び、バッと塔の先端に足をかける。
「――死ぬなユミル!!こんなところで死ぬな!!」
大声が明るみ始めた空に響く。クリスタの小柄な体から迸りでた、初めて聞く声量にベロニカは驚いて目を見張った。「何いい人ぶってんだよ!!そんなにかっこよく死にたいのかバカ!!性根が腐り切ってるのに今更天国に行けるとでも思ってるのかこのアホが!!」罵倒まじりの叫び。だが、それは確かにユミルの元まで届いていた。
「自分のために生きろよ!!こんな塔を守って死ぬくらいなら――もうこんなもんぶっ壊せ!!!」
黒光りする大きな瞳と、目が合った気がした。
瞬間、ユミルは身を翻したかと思うと塔の側面を思い切り崩して石を巨人に次々と投げていく。ビキビキと崩壊の音を立てながら傾いていく塔の屋上で、ベロニカたちは体勢を崩した。しゃがみこみ、石の壁に手をついて揺れに耐える。
「オ、オイ!あいつ本当に壊しやがった!?」
「いいぞユミル!!」
目の前に巨体の影が落ちた。恐怖を煽るような外見に思わず身を竦ませた全員の耳に、嗄れた低音が入ってくる。
「 イキタカ ツカアレ 」
バッと手を伸ばしてユミルの巨人の髪に飛びつく。ガラガラと塔が崩れていく轟音。ごわついて一本一本芯のある体毛を必死で握りしめてその振動を耐え忍ぶ。地を揺るがす音が鳴り止むと、目の前には完全に崩壊した古城が広がっていた。ユミルの体から降り、けほ、と舞い上がった塵を払うように軽く咳をしてベロニカは周囲を見渡す。跡形もなく広がる石塊の下から振動が響き、再び肌色が伸びてきていた。
「ッ!まだ終わってない!生きてるやつが何体も!」
「巨人が起き上がってきてる!?オイ!ブス!早くとどめ刺せよ!」
コニーが言い終わるか言い終わらないうちにユミルは再び地を蹴って巨人へと飛び出し、勢いよくうなじを喰いちぎる。だが死角から伸びてきた腕に後ろ髪をガシリと掴まれ、そのまま小柄な巨体が宙を舞った。
「ああっ!ユミル……!」
思い切り岩角にぶつけられて頭がぐしゃりとひしゃげる。四方から掴みかかる手がユミルの巨人の姿をあっという間に覆い尽くし、あたりに鮮血と肉片が飛び散る。ブチブチと音を立てて無惨に食い散らされていく姿にベロニカたちは呆然と息を呑む。青ざめ、いてもたってもいられなくなったクリスタがダッとユミルの方向へと駆けだした。「待って、ダメだクリスタ!!」その後を追ってベロニカも巨大な石を滑り降りて彼女を引き止めようとする。
「待ってよユミル……まだ……話したいことがあるから――まだ!私の本当の名前!教えてないでしょ!!」
クリスタはユミルに向かって必死に呼びかける。その健気さを嘲笑うように、無垢な瞳をした殺戮者が岩の影から姿を覗かせ、クリスタの体に向かって手を伸ばす。最悪の未来がベロニカの脳裏をよぎった瞬間。
一閃。素早い緑の影が空気を切り裂いた。うなじを一発で仕留められた巨体が力なく地に崩れ落ちる。間一髪助かったクリスタの横で華麗に着地したのは――「……ミカサ!?」名を呼ぶとミカサはスッとこちらに視線をやって皆の無事を確かめ、わずかに安堵でまなざしを緩めた。緊迫感を纏い、しかし力強く「あとは私達に任せて」と口にして再びワイヤーを射出して飛び立っていく。空を見上げれば、いくつもの自由の翼がはためいていた。調査兵団だ。頼りになる兵士の姿に、安心感が湧き上がってくる。なんとか生き残ったのだ――膝を軽く震わせながら、ベロニカは止めていた息を大きく吐いた。
「――あ!?あれ、エレンじゃねぇか!?」
近くの瓦礫になにやら不時着したらしいエレンの姿を認め、同期は彼の元に駆け寄った。「オーイ!エレン!」「……!お前ら!」呼びかけると、エレンもパッと顔を明るくしてこちらを見やる。
「今のは随分痛そうだったが……平気か?」
「な、なんだよ。見てたのかよ。巨人を討伐したらちょっとよろけちまっただけだって」
軽口を叩き始める同期を見てベロニカは強張っていた体から力が抜けていくのを感じた。「とにかくお前らが無事で良かった……ここで一体何があったんだ?」そうエレンに問われてベロニカは力なく苦笑する。
「もう、色々とありすぎて……話さなきゃいけないことだらけだよ。でもまず一番はじめに報告すべきなのは――」
ベロニカは言葉を切って、ちょうど巨人の中から助け出されたらしい彼女へと視線をやる。巨人の討伐を終えて駆け寄ってきたアルミン、ミカサも踏まえて簡潔にこれまで起こった出来事を伝える。
「まさか……ユミルが?」
エレンと同じく、巨人化能力を持つ者が104期にもう一人紛れこんでいた。呆然としたアルミンの呟きが地に落ちる。クリスタに支えられ、横たわるユミルの姿を遠目から見る。体に負った損傷こそ、彼女が巨人に変身して戦い抜いた勲章。あたり一面に立ち上る蒸気が、夜から明け方にかけて行われた攻防のすべてが幻ではないことを示していた。
◆◆
調査兵団と合流したベロニカたちは、ウォール・ローゼの壁にたどり着き、次なる作戦の支度を整えようとしていた。頬に雨粒があたる。空には重い雲が立ち込め、ぱらぱらと小雨が降ってきていた。重傷で意識のないユミルが乗せられた担架の端にきつく縄紐をくくり付ける。滑車が回転し始め、担架が壁の上へと上がりはじめたのを確認して息をつくベロニカに兵士が声をかける。
「君ももう上に上がりなさい」
「はい!」
返事をして、壁の上から下ろされてきたブランコ状の装置に腰を押し付ける。立体機動のワイヤーによって徐々に引っ張りあげられ、壁の上に辿り着くと一人の女兵士がこちらに手を差し伸べた。
「ありがとうございます、ニファさん」
「……よっと。君は怪我はない?」
「私は大丈夫です。怪我をしたのはユミルと……あと、あっちにいるライナーが片腕を巨人に噛まれて。深い傷ですし、この後トロスト区で治療を受けた方がいいかと」
そう伝えると、一瞬の沈黙の後、「……彼が。そうだね、私からハンジさんに伝えておくよ」と彼女は頷いた。
クリスタはユミルのそばで不安そうにその様子を見守っている。ベロニカもその横にしゃがみ込み、顔色の悪い彼女に「クリスタ、大丈夫?」と声をかけた。
「うん。……大丈夫。ユミルがこんな状態になってるんだもの、私がしっかりしないと」
「あまり思い詰めないでね。私たちがこうして生き延びられたのも、ユミルが自分の身を投げ打ってまで巨人と戦ってくれたおかげだ。これからどうなるかはわからないけど……ユミルの処遇について何か上から言われても、説得ならいくらでも協力する」
「ありがとう、ベロニカ……心強いよ」
クリスタはその美しい碧眼にほっとした色を乗せて微笑む。そうしているうちに、少し離れた場所で駐屯兵団の兵団服を着た兵士が壁の上まで登ってきて報告をし始めた。ベロニカのいる位置からでは一部しか聞き取ることができなかったが、どうやら先遣隊が「壁の穴がどこにも無い」という結論に至ったことだけは間違いないようだ。
やはりか、とベロニカの頭に再度確信がよぎる。それはウトガルド城に辿り着くまでに行った南班の調査結果と一致していた。今回ウォール・ローゼ内に出現した巨人は壁の穴から侵入したのではない。壁の中に発生したのだ。
コニーの村の件と、そして今回ウォール・ローゼ内に出現した巨人の正体について――自分もゲルガーやナナバたちの代わりに報告しなければいけないことが山ほどある。巨人の研究の第一人者で、エルヴィン団長に近しいハンジ分隊長になら今この場で伝えてしまっても問題ないかもしれない、そう考えて立ちあがる。
立ちあがろうとしたはずだった。
(……?)
強風に吹き付けられた旗がバタバタと激しい音を立てている。違和感。ふと、ベロニカの視線はこちらに向かって歩いてくる兵士たちの更に向こう側に向けられた。そこではエレンと話していたらしいライナーとベルトルトの姿があった。彼らの近くにはミカサが立っていて、次の瞬間目でも追いきれないほどの速度で刃を抜くと、振り向きざまに――
「――え?」
思わず、呆気にとられた声がこぼれ落ちる。隙間から鮮血が見えた。何が起きた?斬った。誰が?ミカサが。ふたりを?遠目に見た景色に目を疑う。自分の頭がおかしくなったのか?現実が急に遠のいてしまったようで思考がうまく働かない。兵士たちがそちら側に向かって一斉に駆け出したのを目にして、ベロニカはようやく我に帰る。
「――エレン!!逃げろ!!!」
爆発。
雷鳴のごとく激しい衝撃が全身を襲う。物資が吹き飛ばされてあたり一面に飛び散った。一瞬で体が地面から跳ね飛ばされ上下の感覚を見失う。
「……ッ!!うあ……!?」
ベロニカは爆風の中、咄嗟に飛ばされそうになったユミルの担架にしがみついた。何かが重く空を切る音が近づいてきて、必死で薄く瞼をこじ開ける。
霞みの中垣間見えた輪郭。
鈍色の硬い皮膚で覆われた腕が蒸気を切り裂いた。
見間違えるはずもない。
全ての元凶が、あの日から焦がれるほど追い求めていた仇の姿が、すぐ目の前にあった。
「―――」
嘘だ。嘘だ。嘘だ!!
目の前が肉色で覆い尽くされる。全身が大きく熱く硬いものに包まれ、掴まれたのだと気づいた時には、壁から離され、ユミルとベロニカの体は地上から遥か遠い場所へと持ち上げられていた。「ユミル!!ベロニカ!!」クリスタの叫び声だけがかろうじてベロニカの耳に届く。
「ぁ、あ……?な、――いや、やだッ!離せ!!」
パニックになり、指の中で無我夢中でもがく。背中に熱い皮膚が触れている感触と握り潰されかねない恐怖に悲鳴が漏れる。再び爆風が起き、視界がぐるぐると回転する。逆さ向きのままあり得ない大きさの黒々とした目玉と目が合った。ぱくりと大きく開いた口に放り込まれた記憶を最後に、ベロニカの意識は闇に飲み込まれた。