■ 05-02
テーブルを拭きながらいつもと変わらない穏やかな日をポアロで迎えていた。あと1時間後には昼食のラッシュを迎えるだろう。そんな事を考えながら扉を開けてやって来た客を笑顔で出迎えた。
「いらっしゃいませ」
店の入り口に立っている客はまさかの名前で心臓が止まるかと思った。嫌とかでは無く予想だにしなかったからだ。名前の来店に思わず顔に出る所だったがどうにか笑顔のまま堪える事が出来た。
「……」
そんな俺とは対照的に名前は目を丸くし言葉を出そうとしていたが、何も言えずに口をパクパクとさせている。その姿は餌をねだる雛鳥みたいで吹き出しそうになった。
「お客様お一人様ですか?」
「……はい」
「カウンターへどうぞ」
席へと案内し一旦離れて水とメニュー表を用意しながら彼女を盗み見る。名前は口元に手を当て考え込み思い出したかの様にはっとした後、頭を抱えて落ち込んだ。その姿に今度は堪えきれず小さく吹き出してしまった。どうやら安室透としての潜入先がポアロだったのを思い出し自己嫌悪に駆られて落ち込んだのだろう。
俺の顔を見て固まっていた様子から憶測すると、どうやら趣味を楽しんでいた雛鳥は偶然にもポアロに来てしまったらしい。彼女の荷物には映画館のロゴが入った薄い大きめの袋を持っていたから中にはパンフレットが入っていて、それを持っていると言う事は映画を見た帰りなのだろう。
準備した水とメニュー表を持ち、再び彼女の座っているカウンターへと向かった。
「お客様、お冷やとメニューをどうぞ」
いつものように水とメニュー表を差し出す。名前を見ると悲しそうに、眉を下げ口を開いた。
「ごめんなさい」
小さな謝罪とおずおずと申し訳なさそうに見上げる姿は愛らしい。そんな名前とは裏腹に俺の気持ちは真逆だった。彼女がこの店を選んでくれて嬉しかった。たまたまだと分かっていても名前が来てくれた事は柄にも無く運命的な物を感じてしまった。気にしないでいい、そんな意味を込めて安室透の顔から降谷零に戻ると名前は安心した様に微笑んだ。
名前は初めて出会った時に比べると大分表情豊かになった。安心しきったその表情に、何故だか悪戯を仕掛けたくなって瞬時に周りを確認した上でメニュー表を持つ彼女の指に軽くなぞる様に触れた。
「っ!!」
「ごゆっくり」
真っ赤になって固まっている名前を他所に再び安室透になる。もう少し指を絡めたかったが今出来るギリギリの接触だった。いきなり触れた事に対して真っ赤になっていたが少しは男として意識しているのだろうか。そうであって欲しい。
形だけの結婚は時折辛い物がある。手を動かしながら初めてプレゼントをもらったあの日の事が頭をよぎった。風見を初めての友達と言ってはいたが、風見が友達なら俺は一体名前の何なのだろうか。その時に聞く事も出来たが、それは彼女を追い詰めてしまうかもしれないと思うと聞けなかった。友達の存在は嬉しいが、友達から恋人になる可能性も否定は出来ない。もし名前と風見が恋仲になったら俺は潔く諦める事が出来るのだろうか。
それはきっとその時にしか分からない。
俺が他の客の接客中に名前は注文を済ませていた。伝票を確認すると昼時なのにカフェラテ1つしか頼んでいない。彼女の事だ、大方俺に迷惑がかかると思って早目に帰るつもりなのだろう。だが店に入ってしまったので何も注文しないのも変だと思って早く済ませる事が出来る飲み物にしたのだろう。全く…気を使い過ぎな雛鳥だ。もう少し甘える事を学んで欲しい。
俺は急いでサンドイッチの用意をして名前の頼んだカフェラテと共にトレイに乗せて持って行き彼女の目の前に置いた。
「これサービスです」
サンドイッチを置かれた名前は心配そうに目配せした。そんな事気にしないでいい。そう思いを込めて目で伝えると横から梓さんが出てきた。
「あれ?安室さん、もしかしてお知り合いですか?安室さんが毛利さん以外にサービスなんて珍しいですね」
「いえ。初対面ですよ、梓さん。あまりにも可愛らしい方でしたので、ついサービスしたくなっちゃいました。僕は安室透といいますが、良かったら僕とデートしてくれませんか?お客様」
「あの安室さんが女の子をナンパしてる…」
梓さんは驚いた様に目を瞬かせている。当たり前か安室透はそんなキャラでは無いからな。
「ごめんなさいデートは出来ないわ。私、結婚しているの」
名前の言葉には少しだけ複雑だった。結婚しているのもナンパしているのも俺なんだが、形だけでもフラれてしまい残念な気持ちと同時に結婚している事を言ってくれて嬉しかった。
「あら、指輪をされてないから独身かと思いました」
梓さんの言葉に名前は眉間に皺を寄せる。よく見る分からない言葉を考えている時の仕草だ。
「付けない方もいらっしゃいますし、貴女もなんですよね」
「そうなの」
彼女をフォローしていると、またあの悪戯心が芽生えてしまった。
「ですが貴女を射止めるとはさぞ素敵な旦那さんなんでしょうね」
少しだけ名前の口から俺の事をどう思っているか聞きたかった。本人を目の前に何を言っているんだ、と名前に思われそうだが梓さんがいる手前何か言うだろう。俺の事を意識しているのなら旦那と言うワードで照れるような反応をする筈だ。たが彼女の言動は意外な物だった。
「そうね。でも最近マンネリ気味で貴方みたいな格好いい人に乗り換えるのも悪くないかもね」
「………そう思って下さるなら嬉しいです」
名前の言葉に思わず持っていたトレイを握り締めた。笑顔をなんとか作って嘘を吐く。安室透を褒められても、ちっとも嬉しく無い。俺は降谷零だから演じている安室透に乗り換えられても困る。いや、彼女なりの冗談のつもりなのだろうが少しも笑えない。安室透も自分のはずなのに好意を寄せられたら嫉妬心さえ感じる。
怒りと苛立ちが入り混じった感情に支配されていると急に名前は表情を変えた。首を軽く傾け上目遣いでまるで悪女のように、にっこり微笑む。
「なんてね。残念だけどデートはやめとくわ。愛してるの彼の事。誰よりもね」
名前の言葉に思考停止した。
名前が、俺の事を、愛している。
頭の中で彼女の言葉だけが反芻する。理解するにつれて心拍数が上昇し、顔に熱が集中していった。
「すみませーん」
「はい!安室さん3番テーブルお願いします」
「えぇ…」
梓さんに呼ばれるまで客の声に気付かなかった。少しだけ赤くなっているであろう顔を隠す様に、急いで呼ばれたテーブルへと向かった。
マンネリとか愛しているとか一体あんな言葉どこで覚えてきたんだ。挑発の仕返しのつもりなのだろうが破壊力がありすぎる。
「すみません、コーヒー2つ」
「は、はい。コーラ2つですね」
「違いますよ安室さん、コーヒーですよ。珍しいですね聞き間違いだなんて」
「あぁ…えぇ。すみません」
名前の爆弾発言が尾を引いてしまい普段しない様なミスをしてしまった。常連客は笑って許してくれたが公安にあるまじき失態だ。
落ち着け、あれは冗談だ。そう思っていても名前の口から愛しているだなんて俺の心を掻き乱すには十分だった。まだ心臓が早鐘を打っている。情け無い、ガキか俺は。
俺にしては大分時間が掛かったが、何とか立ち直り客を捌きながら時々感じる名前の視線になんとか仕事をこなした。
そろそろ食べ終わる頃だろうと、時々時計を確認しながら名前の食べるペースを計算して仕事をこなす。名前の事だから食事が終わったら早々に立ち去るだろう。もう少し話しをしたくてレジ近くで作業をし、偶然を装い彼女の会計をした。
「お気に召していただけましたか?お客様」
「えぇ。サンドイッチ美味しかったわ。お金はちゃんと払わせて」
「僕のサービスですから、お代は結構です。気に入ったのなら、また来ていただきたいですね」
「サンドイッチは美味しかったけど貴方と私が会うのはこれで最後よ。さよなら安室透さん。またね」
にっこりと笑う姿は可愛いが名前らしさが無い。言葉も変だと思ったがすぐに彼女の意図を察した。またね、とはきっと夜も会うからなのだろう。同意を込めて笑い返した。
「えぇ…またお会いしましょう」
彼女の背中を見送り、俺はカウンターへと向かう。
きっと帰ったら名前はお金を払うと言うだろう。ウチの雛鳥はそんな頑固な所がある。お金は要らないから代わりのものが欲しい、そう言ったらどんな反応をするだろうか。拒否されない事を祈りつつ俺は彼女のいた席の食器を片付け始めた。
20.1218
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渡り鳥は救われたい