腹の中を渦巻くドス黒い感情に、自然とハンドルを握る手に力がこもる。
「ごめんね零くん、怒ってるよね?」
名前を横目で見るとおずおずと上目遣いで俺の顔色を伺っていた。自分なりに隠していたつもりだったが、顔にも運転にも出ていたのだろう。気持ちを整理させる為に名前に気付かれない様に深く息を吐いた。
「君には怒ってないさ」
「ごめんね」
怒ってないとは言ったが名前の表情はあまり変わらなかった。隣で恋人がイライラしていたら気分は良くないだろう。彼女も強制わいせつ罪を受けた被害者なのに俺に対して気を使わせてしまって、自分が情けなく感じる。嫉妬心故の自分の言動にも、ため息を吐きそうになった。
こんな事になるのなら、やはり会わせなければ良かった。スマホをあの男の車に落としたかもと言われた時、安心させる為に簡単に見つけられるからと言ってしまったのが悪かった。
昴さんの事が分かったら私に教えて、と言われて無論一度は断った。だがお礼も言えずに別れたからどうしてもと縋る名前にお願いされたら強くは言えなかった。自分でも頑張って躱していたのだが、勝手に昴さんに会って来たら怒るからね!と言われて渋々了承してしまったのだった。
つくづく名前には甘くなってしまうが二度とあの男には会わせないとさっきの事で決意した。
車を適当に走らせていた俺は近くのコインパーキングに前から停める。不思議そうに俺を見る名前に向かい合い、自分のシートベルトを外し身を乗り出して、少し赤くなっている名前の額に口付けた。
「零くん、誰かに見られちゃうよ…」
「俺はもう気にしない。だが君がそう言うと思ってこっちが見えないように前から駐車した」
「もう…」
照れてはいるが嫌ではないと名前の表情から感じ取った俺は、もう一度額に口付ける。
「それに消毒をさせて欲しい」
「昴さんはバイキンじゃないよ」
困った様に眉を下げ、あの男を庇おうとする名前に良い気はしない。俺は面白くなさそうに彼女から視線を外し、どかっと深く運転席に座り直した。
「俺にとっては恋人がいると知ってて手を出す奴は、菌と変わらない」
「人をそんな風に言っちゃ駄目だよ」
「だが俺も責任がある。ずっと恋人がいないフリをして欲しいと頼んだのは俺だし、君が他の男に言い寄られても文句は言えない。だから…」
そこで言葉を切って名前の右手を取る。もう片方の手でポケットに剥き出しの状態で入れていた指輪を取り出し薬指に嵌めた。
「君が恋人がいる証」
「……え?」
何回もイメトレをしたお陰でスムーズに出来たが、内心とても緊張した。小さな宝石が一粒付いたシンプルなリングは、名前の好みを考慮して選んだ物だが気に入ってくれるかも不安だった。そんな俺を尻目に短く声を上げた名前は指輪をつけた右手を広げ目を見開き凝視する。
「これ…私に?」
「君の好みに合う物なら付けていて欲しい」
「嬉しい…ビックリしたけど、ありがとう!大事にするね」
「だが…刻印は出来なかった、ごめん」
指輪を買った時、店員に刻印も出来ると言われて自分と名前の名前でも入れようと思ったが出来なかった。本当は名前でも彫ってあげたかった。君は俺の大切な恋人だと言う証を。だが刻印を頼む為の申込書を店員に出された時、例え偽名や架空の情報でも記録として残す事に躊躇ってしまった。
「名前なんて彫らなくても大丈夫だよ」
沈んでる俺の表情とは逆に名前は笑顔を俺に向けていた。そして名前は指輪を外してそれを俺の目の前に掲げる。
「私が付けている時はわからないけど…ほら、指を通す所だけを見ると数字のゼロになるでしょう?ゼロくんの名前が入っているんだし、こういった物を身に付けられるなんて思わなかったから充分だよ。ありがとう」
名前の言葉に思わず目を見張った。指輪の輪が数字の0。そんな彼女の機転に思わず笑みが零れる。
「君は…いつからそんなに頭が回るようになったんだ?」
「あ、ひどい!今私の事バカにした!」
そりゃあ、零くんよりは頭は良くないけどさ…と指輪を再度嵌めつつ、むくれる顔にそっとキスを贈る。唇を離すとむくれていた顔から少し照れ臭そうになって、再び笑顔になってくれた。
いつかは左手の薬指にお揃いの指輪を贈ろう。そしてその前には大きな宝石で装飾されたリングで結婚を申し込もう。
プロポーズの場所はどこがいいだろうか。夜景の見えるホテルでディナーを楽しんだ後に贈ろうか。それか初めてキスしたあの思い出のトロピカルランドの展望台でもいい。シンプルに家でハロに見守ってもらうのも捨てがたいな。
指輪だけじゃ味気ないから一緒に花束を添えて。
一生の君の隣にいる事を誓う。
だが名前はどんなプロポーズでも嬉しそうに頷いてくれる筈だ。
「そろそろ昼だな、昼食にしようか」
「そうだね、何食べたい?ここからだと私の家の方が近いから買い物してから家に来る?」
「それもいいが…良ければこの近くに良い喫茶店があるんだ。良かったらそこで一緒にランチでもどうかな?」
名前に初めて出会った時のような誘い文句を使って食事に誘う。名前はその事に気付いたのか嬉しそうに微笑んだ。
「行きたい!…でも、いいの?」
不安そうに首を傾ける名前に安心させる様に深く頷く。安室透の知人と会わない様にしていたから、外食なんて初めて出会った時とトロピカルランド以来だ。だがもう、そんな事を気にする必要は無い。
「あぁ。だが表向きには安室透と付き合っている苗字名前でいてもらわなければならない。君に色々と覚えてもらいたい事もある。面倒だと思うし負担にもなる。それでもいいか?」
正直普通に付き合うよりも面倒だ。気を使うのは大変だし、躊躇いもある筈。だが名前の答えは聞くよりも前に分かっていた。それは決して驕りでは無く、俺を好きでいてくれている名前を信じているからだ。
「私、頑張る。だがら零くんと色んな所行きたい。だから…一緒にいさせて」
俺の想像通りの言葉に自然と口角が上がる。
「あぁ…ずっとずっと一緒にいよう」
我慢してきた分、恋人らしい事をたくさんしよう。これからは外で手を繋いで歩く事も出来る。2人で映画を見に行ったり、飲食店でご飯も食べたい。俺は名前としたい事がたくさんあるんだ。
名前、君を好きになって良かった。
ずっとこの幸せが続いていく。
そう信じていた、この頃は。
逃避行[白と赤の真実]Fin
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21.0507
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