逃避行 | ナノ
書斎でホームズの世界に入っていると、呼び鈴が鳴り現実へと引き戻された。栞を挟み席を立ち別室にあるインターホンを確認する。そこに立っていた女性を見ると無意識のうちに口角が上がっていて、すぐに受話器を取った。

「はい」

「こんにちは、突然すみません。私、苗字名前と申しますが沖矢昴さんはご在宅でしょうか?」

「名前さんじゃないですか、お久しぶりです。良かったらそこの門を潜って玄関まで来てくれませんか?」

「分かりました、お邪魔します」

インターホンを切り、預かっていた彼女のスマホを持ち玄関へと向かう。靴を履いて扉を開けると、そこには名前が立っていた。

「お久しぶりです、昴さん。この前のお礼をしに伺いました」

「わざわざありがとうございます。そう言えば名前さんのスマホ、僕の車に落ちていましたよ」

「やっぱり昴さんの車に落としてたんだ!すみません重ね重ね…」

名前は俺からスマホを受け取ると頭を下げ、それをショルダーバッグの中へ入れた。初めて会った時よりも大分元気そうで一安心する。久しぶりの名前との会話に心地よさを感じたが、よく俺の居場所が分かったものだ。だがその理由はすぐに分かった。敷地の外で射る様な視線を感じる。そこには不機嫌を全面的に出した安室くんが立っていた。

少し離れた門扉の外で腕組みしながら睨みつけているが、よく彼が名前をここに連れてきたものだ。てっきり安室くんが1人でスマホを取りに来ると思っていたが大方名前に頼み込まれたのだろう。彼の事だ、俺との事は伏せて街で偶然会ったから取りに行くとでも言ったか。


名前に頼まれて渋々連れて来た。本当は会わせたくなかった。余計な事は言うな。彼の視線からたくさんの情報が見てとれた。



「昴さんには本当お世話になって…それなのに急に居なくなってすみませんでした」

彼女に再び目をやると深々と頭を下げていた。

「いえ、貴女の心情は分かってますから。大丈夫なんですか?彼は?」

名前は安室くんとの事を聞かれるのを見越してか、来た!と顔に出してから一気に捲し立てた。

「えっと、実はアレ、ドラマの撮影だったらしくて。彼は駆け出し中の俳優で、あの拳銃も偽物で人を追いかけるシーンはあったみたいなんですが、私と間違えて追っちゃったみたいなんです」

言い終わった後の名前の目は今の話しを信じてくれるか心配してか俺の顔色を伺っていた。

無理矢理な設定に笑いそうになるが、名前が一生懸命考えたのだろう。綻びを指摘した時の顔も見たかったが、それを堪えて乗っかる事にした。

「成程、彼イケメンですからね」

俺の言葉に良かった、信じてくれたと安心しきった表情をする。全く…内情を知っている俺で無かったら誤魔化しきれなかったと思うぞ。俺の心中を知らずに名前は紙袋を手渡してきた。

「これあの時のお金とお酒が好きだと聞いたのでお礼に受け取って下さい」

「わざわざありがとうございます。気を使わなくても良かったのに」

「いえ!お礼はちゃんとしないといけませんから」

金もお礼も要らなかったが彼女の好意として受け取る事にした。名前が渡してきた紙袋の中には封筒と酒瓶が一本入っていた。そういえばコンビニで買い物をしている時に嗜好の話題でウイスキーをよく飲む話をしたな。名前から贈られた酒が気になり手に取って見てみると、その銘柄に思わず内心苦笑してしまった。

「ホォー、ライですか」

「あ、それはお酒を選んでいる時に彼が渡してきて…。ライって名前のお酒なんですね。私はお酒に詳しく無いし英語も読めなくて、彼に名前を聞いても読めなくていいって言うから分からなくて。このお酒は大丈夫でしたか?」

「僕はウイスキー党ですから大丈夫ですよ」

何の因果の関係かと思ったが、安室くんが決めたのか。酒のセレクトは彼なりの皮肉を感じた。

「昴さんの好きなものはウイスキーしか知らなかったからこれしかお礼の品が用意出来なくてすみません。もし良かったら別のものを用意するので欲しい物言って下さい」

「欲しい物ですか…そうですね」

お礼としては十分だったが、これで名前との繋がりが絶たれてしまうと惜しくもある。ならば、また会う機会を作れば良い。そういった類の物は待つのでは無く自分で作る物だ。

名前の顎を持ち少しだけ上を向かす。抵抗と邪魔が入る前に距離を縮め名前の額に口づけた。それと同時に彼女からもらった金の入った封筒を気付かれない様に名前のバックに入れる。名前から離れ、顔を見るとぽかんと口を開け固まっていた。

「ではコレで」

「……えっ?ちょ、今……」

固まっていた名前は状況を理解してくれるにつれてだんだんと頬を染めていく。その赤くなった顔は何回見ても見飽きないから何度でも見たくなってしまう。だが刹那、門がけたたましい音を響かせ開いた。名前は音に驚いたのかビクリと肩を揺らし振り返る。

おい、借りている家だ。乱暴に扱わないでくれよ。

外門を乱暴に開けた張本人は大股歩きでこちらにやってきて彼女と自分の間に割って入り、俺がキスした名前の額を力強く擦った。

「痛っ…痛いよ、零くん。ファンデが服に付いちゃうよ」

彼女の訴えも無視して無言で彼は拭き続ける。そう言えば初めて意識のある名前の口から彼の呼称を聞いた。あの時は彼としか言っていなかったから勘違いをしていた。名前はこんなにも安室くんに愛されていると言うのに。

「構わない。大体君も隙がありすぎる」

多少苛立ちを孕んでいるが名前を見るその目は愛に満ちていた。痛い痛いと訴える名前を抑えつけ、彼の気が済むまで額を擦った後は俺に向き直る。その目は殺気立っていて彼女を見る目とは全く違っていた。

「僕の恋人に何をするんですか、沖矢さん」

額のキスくらいは許されると思ったが、敵意剥き出しの所を見ると彼の中ではアウトの様だ。彼女の前で殺気を出すのは怯えさせるぞと思ったが、余程強く擦ったのか名前は涙目になりながら額を押さえていてそれどころじゃ無いらしい。

「欧米ではキスは挨拶の一つです。それに額のキスは祝福を意味するんですよ。貴方達の祝福を込めてさせていただきました」

「貴方からの祝福なんていりません。それにここは日本です。そんなに欧米が好きならさっさとこの国から出て行くといい」

「それは困ります。まだやるべき事がありますからね」

安室くんは舌打ちをして未だに真っ赤な顔の彼女の手を取る。

「さっさとこんな所から帰るぞ」

「ちょっと零くん…昴さん、本当にありがとうございました。お邪魔しました!」

「えぇ。またお会いしましょう、名前さん」

「"また"は無い!2度会わせないからな!」

その言葉は名前に言ったのか俺に言ったのか。安室くんに引きずられるようにして彼女は去っていった。


名前はきっと今後も安室くんの力になってくれるだろう。これから例の組織との大切な局面だ。味方は多いに越した事はない。

安室くんは会わせるつもりは無いだろうが、きっとまた近い内に名前には会える。

彼には悪いが優しい名前の事だ、俺に渡したはずの金がバッグに入っていたら再び俺の元に来てくれる筈だ。それがいつになるか分からないが名前に再び会えるまで、彼女からもらったウイスキーでも飲もうと俺は家の中に戻って行った。



21.0305

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