056話 嵐が呼び起こした記憶



「若、お聞きしたいことがありまして、参上しました」
「入れ」


黄瀬からの申し出からもうすぐ一週間となる。その前に最終確認で若の元を訪れれば、不機嫌そうな顔で迎えられた。


「何かあったのか」
「まつり嬢に探りを入れている輩がおります。居所が先に知られてしまえば、厄介なことになるかと思われますが」
「――山吹だろう。俺が組を継ぐことに反対なんだろうな」


やはり、若自身が勘付いておられたなら、間違いではないのだろう。それにしても、お嬢に危険が迫れば、もっと危機として血眼になってでもお嬢の行方を捜そうとするはずだが、やけに落ち着いている。


「まつりの居場所は、分かってる」
「!――…」
「俺の目を欺けるとでも思ったか」


お嬢に偶然にも再会してしまったのは、あのデパートでだけだ。その他での接触はないし、居場所まで特定されるような行動はとっていないはずだが。本当に、この人は、鋭くてかなわない。


「今しばらく、この件はお前にゆだねる。俺が下手に動けば、あいつが危ない」
「!――はっ」


なるほど。山吹の狙いが跡目争いに勝利することならば、若を辞退させるにはお嬢を餌に遣うのが一番有効的だ。そうなれば、若は、自分の立場を捨てでも、お嬢を取るだろう。

この人は、本当にお嬢のことを愛しておられるから。

それを分かっていても、俺は、お嬢をこの組に残しておくことはできなかった。


ぐっと拳を握りしめて、頭を下げると、その場を立ち去った。せめて、一目でも若にお嬢を見せてあげることが出来れば、あの人の凍った心の一かけらでも溶かすことができるかもしれない。





***

琢磨が下がって、静かな空気が戻ってくる。そっと目を閉じれば、今も瞼の裏に焼き付いて消えないのは、あいつの真っ直ぐな瞳と、柔らかい笑顔。

そして――、全てなくなったあの日の静寂。


『にぃに。これ、これっ』
『ん?どれ?』
『まつりね、これね、すっごく好き。これをね、いつか、にぃにと一緒に見に行きたいの』
『!――そうだな。まつりがもう少し、大きくなったら、一緒に行こう』
『ほんとう?やくそくね』


海に焦がれた小さなお前を、俺は決して外に出さなかった。それでも、お前は文句ひとつ言わずに、俺のあとをついて回っていた。殺気だっていた俺に誰も近づけずに遠巻きに様子を見守る中、お前は、恐れずに俺の前まで来て、首を傾げていた。


『にぃに、どうしたの?元気ないね』
『!……何でもないよ』
『まつりね、今日はにぃにと寝る!』
『そうか』


俺の抑止力となっていたアイツを取り上げたのは、誰かなんてわかり切っていた。我が子でありながら、俺を見る目は怯えていたし、酷く嫌っていた。

俺の狂気的な心がまつりに執着して壊してしまわないように、親として当然のことをしたのかもしれない。

だが、俺はそれですべて失った。


「まつり……っ」





***

「俺から、俺からアイツを取り上げたのかっ!!!」


誰かの怒声と、泣きじゃくる小さな女の子。それをじっと見ている事しかできなかった私の頬には涙のあとが伝っていた。


きっと、男の人にとって、その女の子は、何にも代えられないほど大切な人だったんだと思う。それを誰かが取り上げた。引き離してしまった。

女の子もきっと離れたくなかったと思う。

ううん、離れたくなかったの。ずっと傍に居たかったと思うの。


寂しい背中。誰も寄せ付けない冷たい空気。それは、女の子が傍にいるだけで和らいだ。温かい風が吹いた。無邪気な笑い声が響いた。


――ああ。
失ったものが返ってくる。引き金なんてなかった。ただそれが当たり前であるかのように戻ってきたのだ。


「――にぃに…」


夢ではない。
身体が冷たく凍りそうな寒さの中、口から吐き出した海水が息を正常に戻す。未だ、降り続いている雨が容赦なく体温を奪っていく中、私は失った心の欠片を取り戻していた。


何が引き金だったのか。
自分の身が危険にさらされ生死の境を彷徨った時に垣間見たひと時の夢。


私には、兄がいた。
今の兄とは違う、兄がいた。


あの日は、嵐だったの。
こんな風に、雨が容赦なく叩きつけていて、母に引っ張られて屋敷を後にした私は、何かを感じて酷く抵抗した。

兄に、二度と会えなくなることをどこかでわかっていたのかもしれない。


琢磨――。
彼とは幼いころに何度も顔を合わせていた。私と、私の兄を理解し、寄り添ってくれるただ一人の信頼できる人だった。

でも、彼もまた、私と兄を引き離した。


「な、……で」


どうして。
私、どうして今まで忘れていたの。


涙でぬれているのか、雨に降られて視界が悪いのか、判断すらできない朦朧とした意識の中、自分が陸に打ち上げられていて、取り敢えずはまだ生きていることを理解しながらも、混乱していた。


でも、その中でも一つだけ言える確かなことは、私が今本当の兄のことを思いだしたことを誰にも知られてはいけないということだった。

知られればまた、繰り返す。


たぶんきっと、お母さんは、兄のことが恐ろしいんだ。だから、逃げたの。私を盾にして、籠の中から飛び出した。

自分から水泳をとりあげた組織から、その組織で自分が産み落としてしまった一人の男から。


母を憎む気持ちはないにしても、兄と引き離されたこの長い年月をどうしたって呪ってしまう。兄には私が必要だったはずだ。

これは驕りでも何でもなく、幼いながらに私が感じていた人とは違う兄の感覚。狂気に似たそれが芽吹く寸前だった不安定な心の拠り所は、幼い私だったはずだ。


「けほ……っ」


ああ。
何が恋愛だ。水泳だ。
それより先に私が目を向けるべきだったのは、必死に思い出して向き合うべきだったのは、もっと別にあった。


私が凛に惹かれたのは、彼の中に兄とよく似た感覚が時々見えたからだ。たぶん、今の方がその感覚は色濃く出ている。再会した彼に感じたそれも、あの頃私が惹かれた凛のそれも、全部――。


私は、二度も大切なものを手放したのだ。
どちらも不可抗力だったかもしれない。それでも、私は、二人のことを切り離すことでしか自分を保っていられなかった。


兄のことは今までずっと記憶を封じることで身を守り、凛への想いは封じないと前を向いて歩いていけなかった。

それほどまでに二人は私にとってかけがえのない存在で、手放せるものではなかったはずなのに。


「お兄ちゃん……っ」


私、もう逃げないから。
もう、誰かに守ってもらわなきゃならないほど幼くないから。だから、もう一度会いたい……。




(嵐が呼び起こした記憶)
会いたい。
それだけで他は望まない。
もう一度だけでいいから
どうかその願いを叶えて。


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