039話 いつかの約束よりも
凛から電話があって、会うことになったのですが、実はうちの水泳部は部活がありまして、怜君の特訓もあるしね。
ああ、江ちゃんが新しいメニュー作ってくれたみたいだし、大会から逆算しても、あと一週間がデッドラインだ。
と、こんな時に大変申し訳ないんだけど、凛からの呼び出しとあらば仕方ない。この間のこともあるし、何か凛の責任みたいに抱えてそうだから、一度ちゃんと話しなきゃとも思ってたし。
いい機会だと思うから。
「――て、ことなんだけど、江ちゃん、今日の部活任せちゃっていいかな?」
「そういうことなら、任せてください!お兄ちゃん、頑固なので、頑張ってくださいね!」
皆さんには適当にごまかしておきますから!と続けてくれた江ちゃんに思いっきり頭を下げてお礼を言うと、その日の放課後、ハルの制止の声も聞かずに、下校のチャイムと同時に教室を飛び出した。
ごめん、ハル!
駆けだして、駅に丁度やってきた電車に飛び乗れば、ギリギリ待ち合わせの時間には辿り着くと思う。家だと何かと煩いのもいるし、ゆっくり出来ないから、外で落ち合うことになっていた。
鮫柄学園最寄り駅まで迎えに来てくれていた凛の姿を見つけて駆け寄れば、こちらに気が付いたのか、柱に預けていた身体を離して、さっと背中を向ける。
どこかよそよそしい空気が漂っているのはきっと気のせいじゃない。
「凛……?」
「ん……」
恐る恐る、というか、おどおどしながら声をかける私に顔だけ振り返った凛は、「あー……」と困ったように頭をかいたかと思うと、そっと私の手を取った。
「え……っ」
「泣きそうだろ、お前」
「なんでっ!」
泣かないよ!と叫べば、「そうか」と、ただ一言。でも、空気が穏やかになったように感じる。繋がれた手はとても温かい。凛なりに私を気遣ってくれているのかもしれないけど、これから彼は、私に何を話すのだろうか。
凛は悪くない。
そう、ハルは言っていた。これは全部、私の心の問題だし、こういった心の問題で水泳から離れてしまった私が、自分自身で解決しなくてはならないんだってことくらいよくわかってるつもりだったし、簡単じゃないことも、分かっていたのに。
それでもあの時、私は、泳げることに何の疑いも持たなかった。
でも、オヨゲナカッタ――……。
「ねえ、凛」
「ん?」
「何も聞かないの?」
話があると呼び出したのは、凛だよ。何か切り出してくれなきゃ、私からは何も言えないじゃない。
私の言葉に歩みが止まる。繋がれていた私の足も自然と止まって、背中を向けたままの凛を真っ直ぐに見上げた。
「ついたら、話す」
「え?どこに……」
「行けば分かる」
行けば分かる。
凛の言う通り、そこにたどり着いたとき、私の足は何かに掴まれたように動かなくなった。
「今日、練習休みっつったろ」
「うん……」
ここに私が足を踏み入れることは二度とないと思っていた。元々男子校だ。女子の私がここにいるだけで問題になりそうなのに、凛は真っ直ぐ、ここへ連れてきた。
静かな空間、目の前にあるのは、大きなプール。
私には因縁の深い場所だと思うのは、二度もここで溺れたからだろうか。
「泳げなくなったのは、俺のせいだな」
「!――違うっ!」
凛の口からそんなこと聞きたくて会いに来たんじゃない。凛に自分を責めてほしくて、今、ここにいるんじゃないよ。
凛はただ真っ直ぐプールを見つめているだけで、否定する私の言葉に眉一つ動かすこともなければ、こちらに視線をやることもしなかった。それでも繋がれた手だけは、ぎゅっと優しく握ってくれた。
まるで、何も言うなとでもいうように。
「俺がお前を置いていった後、お前がどうしてんのか、ずっと江から聞いてた」
「え……?」
江ちゃんから――?
でも、江ちゃんは知らない。私が泳げなくなっていたこと。毎日欠かさず涙を流して眠りについていたこと。中々眠れなくて、兄を困らせたり、ハルに悲しい顔をさせてしまったこと。
何も知らない。
「お前は元気にやってるって、そう聞いてた」
「……うん、そうだよ」
「その報告聞くだけで、俺は、辛かった」
「!――……」
え――……。
「最低だよな」と自嘲する凛を思わず見上げる。私と繋がっていない方の手で顔を覆っている凛は、一体どんな顔してるんだろうか。
ねえ、辛かったって、どういうこと?私だってずっと辛かったよっ。
「何で、お前は俺がいねぇのに、笑ってんだよ、とか、結局俺なんて、お前にとったら、その程度だったんだな、とかさ」
「そんなわけないじゃん!一度だって会いになんか来てくれなかったくせに!一度だって連絡くれなかったくせに――っ!」
その程度って、ふざけないでよ。私にとって、凛がどれだけの存在だったのかも知らないくせに。傍にいなかった間、何も、何も――。
繋いでいた手を振りほどいて、両手で凛の胸を叩けば、ぱしっとその腕を掴まれた。それをも振り払おうとするが、凛はそれをよしとしなかった。
「再会して、分かった。俺もお前も同じだったこと」
「――……っ」
「けど、俺はお前から一番大事なもん取り上げちまったんだな」
違うってば。
私が泳げなくなったのは、凛のせいじゃないの。人魚姫は、人間に恋をして声を捨てた。足にある鋭い痛みを我慢して、必死の思いで王子様を見つけて傍にいようとした。
私は――?
凛も失って、水泳も、水にさえ拒まれて、何もかも失って諦めた。
そう、諦めたの。
凛の手が私の頬を包んで、そっと額同士がくっついた。その温かさに鼻の奥がツンとする。
「諦めたのは私だよ」
「――それでも、お前は水への恐怖を克服しただろ」
「それは、ハルが――……!」
そうだ。
ハルが、傍にいてくれた。ハルが、あの頃の私の心を死なせないでくれたから、今こうして、私は凛の前に立っているのだ。
離れていく凛が、真っ直ぐに私を見つめる。その顔が、あの頃のハルの顔と重なった。
ああ、私は今、凛を追いつめてる。
「俺じゃなくて、ハルだ」
「凛……」
「お前は、ずっとそうだよな。一番はずっとアイツなんだ」
「え……?」
一番って何?
私の中で、凛とハルは一番二番ってそんな、順位づけできるような存在じゃないよ。どっちも大事なの。どっちも失ったら、私真っ直ぐ立って歩くことだって、出来ない。
「まつり、俺を選べ……っ」
「り、凛っ」
「俺はハルに勝つ。アイツの得意のフリーで、アイツに勝つ」
待ってよ。
何で、ハルか凛か選ばなくちゃならないの。
「俺がハルに勝ったら、俺を選んでくれ」
しっかりと凛の手に掴まれた頬が痛い。熱い。凛が真っ直ぐに向ける瞳が、言葉が、拒み切れない。選ばなきゃならない理由なんて分からない。それでも、何かに縋りつくように、ハルとの勝負に固執し、私を離すまいとする彼の手を、この場で振り払うことなど、私にはできなかった。
(いつかの約束よりも)
なあ、まつり。
なあに?
今度は、お前も一緒にリレー泳ごうぜ
ほんと?
ああ。俺が帰ってくるまで、怠けんじゃねーぞ
うん!わかった!