術師を辞めた夢主に最後に会いにきた夏の話


「あっ」
公園のベンチで、買ったばかりのパンを開けていると、一人の少年が駆けてくる。転がっているサッカーボールを追いながら、自分を見て声を漏らした私に訝しげな目を向けていたけれど、ボールを拾うとすぐにみんなのところに戻っていった。少年の肩には、呪霊がこびりついていた。黒い手が彼の肌にぎゅっと食い込んでいる。
「……」
パンを食べながら、その様子をただ見つめる。
十年ほど前、私は術師をやめた。きっかけは、恋人が私を置いて出ていったこと。呪霊を見るといやでも彼を思い出してしまうし、ましてや呪術師なんてしていたらなおさらだ。だから、数年だけ呪術師をしてがっつり稼いで、今はのんびりと暮らしている。だから久しぶりに呪霊を見て、声をあげてしまったのだった。
食べ終えたパンの袋をしまい、立ち上がる。最後にもう一度だけ少年の方を見てしまったけれど、すぐに背を向けた。私はもう呪術なんて使わない。あんな力があったから、私は彼に出会ってしまった。あんな力があったから、私は今もなお、こんなに傷ついているのだ。

その日の夜だった。録り貯めていたドラマでも見ながら夕食をとろうと、一人カレーを作っていた。
「うん、いい感じ」
ご飯が炊けるまで、あと十分。テーブルの上を片付けなきゃ。そう思ってエプロンを脱ぎかけた時だった。ピンポーンとチャイムが鳴る。
「なんか荷物あったっけ」
はーいと返事をして、玄関に向かう。
ドアを開けて最初に感じたのは、匂いだった。しかしすぐに、懐かしいと感じてしまったその匂いが血の匂いだと気づいて、はっとする。
「や、あ……」
目の前の彼が、息も絶え絶えに声を絞り出した。
「うそ……傑……?」
私の問いに、大きな口が嬉しそうに弧を描く。
「よかっ、た……最後に…会え……っ」
そのままこちらに倒れ込んできた彼を、なんとか受け止める。……体温が低い。彼に触れた手が血だらけなのに気づいて、息を呑んだ。
「傑?!大丈夫なの?!きゅ、救急車……っ、いや……!」
今すぐ救急車がきてくれたとしても、きっと彼は助からないだろう。
「やだ……なんなの、もう……っ!」
なんとか彼を横たわらせる。どうしよう、私はどうすればいい?
「っ!」
そのとき、脳内に浮かんだのは『反転術式』の文字。高専時代に何度か試したけど、使えたことはない。しかもここ数年呪術を扱っていないのだ。
「でも、それしか……!」
緊張で手が震える。呼吸もうまくできない。
「お願い……っ!」
全身が痛い。神経が焼き切れそうになるのを感じて、思わず唇を噛んだ。
私はどうなってもいい。高専で彼に出会ったことに意味があるというのなら。今まで彼を忘れられなかったことに意味があるというのなら。どうか彼を助けてください──そう願うと、私は彼の冷たい手を握りしめたのだった。


「──っと!……っ、ナマエ!大丈夫かい?!」
激しく肩を揺さぶられ、意識が戻る。あれ、私何をして……そうだ、傑に反転術式を使ったんだっけ。
「あぁ、よかった。目が覚めたね」
優しい声と、大きな手が頬を包み込む感触。
「すぐ、る?」
破れた袈裟は乾いた血で色が変わっている。自慢の長い黒髪もぐちゃぐちゃで汚れていた。
「君、反転術式使えたんだね。私が出ていった後に使えるようになったのかな」
「……使えないよ。何度か試したけど」
「そうか。じゃあ、今私が生きてるのは、偶然……奇跡みたいなものかな」
傑がすっと目を細める。その顔にきゅうっと胸が締め付けられるのを感じて、思わず顔を背けた。
「傑、なんで来たの?……今頃になって」
「会いたくなっちゃって。死ぬんだと思ったら、最後にナマエの顔が見たくなったんだ」
本音の滲んだ声に、息が詰まってしまう。
「……何も言わないで出ていったくせに。本当、勝手なんだから」
あの頃の傑は、一人で抱えて、一人で苦しんで。私にもそれを悟らせず、ただ突然目の前から消えてしまった。側にいたのに、傑の葛藤に気づいてあげられなかった惨めさ、申し訳なさ、突然愛する人に置いて行かれた悲しさ、虚しさ。いろんなことを思い出して、呼吸をするのもつらくなる。
「……悪かったよ」
彼の手が私の手をぎゅっと握る。十年前よりも大きくてかたい手。きっとあれから、私が知らないところでたくさんもがいて、たくさん苦しんだんだろう。そのまま、なんとか口を開く。
「手、もうあったかくなったね。よかった」
「うん。ありがとう」
しんと沈黙が落ちる。時計の音がやけにはっきりと聞こえた。
「傑、これからどうするの?」
「そうだね、どうしようかな。教団も私が死んだと思ってるよなぁ」
ここにいれば?と言ってしまいそうになる。でも、きっと彼は何かあれば、また私を置いて消えてしまうだろう。もうあんな思いをするのはこりごりだった。なら、今ここで私から手放すのが、きっと正解だ。
「そう。悪いけど、なるべく早く出て行ってほしい。もう術師と関わりたくないんだ」
「ふふ、私はもう呪詛師だけどね」
「そういう問題じゃないでしょ」
悪戯っぽく笑う傑に、思わずくすりとしてしまう。
「わかった。君に迷惑はかけたくないし。こうしてまた会えただけで十分幸せだからね」
「っ……」
そう言って、本当に幸せそうにくしゃりと笑う彼を見て、なんて残酷な男なんだろうと思った。胸がずきずきと痛む。
「傑、あの……」
言いかけたところで、突然スマホの電話の音が鳴り響いた。電話に出るためポケットに手を入れようとするも、久々に術式を使った影響か手がうまく動かない。
「私が出すよ。……はい」
スマホの画面を見て、一瞬傑の顔色が曇る。私もそこに表示されている名前を見た時、どきりと心臓が跳ねたのがわかった。
「──もしもし」
「久しぶり!元気してた?」
「急にどうしたの?……悟」
ごくりと息を呑む。
「君に報告があってさ」
「……どうしたの?」
一拍置いてたずねる。
「傑が死んだらしい」
「……そう」
「あれ、驚かないの?」
「驚いてるよ」
「そう?ただね、死体が見つかってないみたいで。今こっちでも探してるけど、まあ時間の問題かな」
「そうなんだ」
「ま、見つかったらまた連絡するよ」
「わかった」
そのあと二、三言、話をして、電話を切る。顔を上げると、傑がこちらをじっと見ているのと目があった。
「なんで悟に私のこと話さなかったの?話せば、すぐにここを出ていくのに」
何も答えられなくて、すっと目をそらす。
「……別に、今から電話して悟に言ってもいいけど」
「ふふ、意地悪だね」
傑が私の腕を引く。そして、そのまますっぽりと私を抱きしめた。
「傑、だめ……やめて……」
好きな気持ちが止まらなくなる。彼の熱に溶けてしまわないようにそう言ったのに、傑は私の体に回した腕にぎゅっと力を入れた。そのまま優しい声で囁く。
「私があの時出て行かなかったらさ。ナマエとこうして、二人で暮らす未来もあったのかな」
「っ……」
「一緒に料理して、ご飯食べて、のんびりテレビみて。たまにはどうでもいいことで喧嘩したりさ」
さっき作ったカレーを、傑と一緒に食べる光景が脳裏をよぎる。目頭がじわりと熱くなるのがわかった。
「あったかもしれない、けど……っ」
でも、それを壊したのは傑じゃないか。ボロボロと涙が溢れてるのに気づく。ああ、どうして、この人のことを好きになってしまったんだろう。胸が張り裂けそうなほどに痛くてたまらなかった。
「泣いてるの?」
「泣いて、ない……」
「ナマエのこと、たくさん傷つけて、ごめんね」
その声が震えてるのに気づく。慌てて顔をあげると、彼の頬が涙で濡れていた。
「傑の泣き顔、初めてみたかも……」
思わずつぶやく。
「はは、君の前では強がってたしね。私も泣いたの、何年ぶりだろう」
彼が情けなく眉尻を下げた。それを見て、私もまたぎゅっと胸が締め付けられて、涙が溢れてしまう。そんな私の目元を拭いながら、傑が口を開いた。
「ねえ、こんなわがまま、だめかもしれないけど……どこか遠くで、一緒に暮らさない?」
鼻を啜りながら、傑がたずねる。
「うん……」
もう、それに頷く他なかった。もうこの恋を、愛を、手放したくない──そう思ってしまったのだった。

**

──電話を切る。スマホをしまうと、部屋の入り口に立っている伊知地に声をかけた。
「伊知地、ちょっと出てくるわ」
「ええっ!?でも五条さん、この後任務が!夏油さんのこともありますし……」
「大丈夫大丈夫!適当に七海とかに回しといてよ」
「いや、七海さんも任務が……」
慌てる伊知地を放って、部屋を出る。廊下の窓から空を見上げると、大きな月が出ているのに気づいて、目隠しを持ち上げた。
「……久しぶりの同窓会になりそうだ」
ぼそりと呟いて、また歩き出す。
僕が高専を出る頃には、月は雲に覆い隠されてしまったのだった。




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