どうやってここまで辿り着いたか記憶があやふやで、恐らくダンデさんが呼んでくれたアーマーガアタクシーに乗せられて空中移動してきたような気もするが、処理能力が極端に落ちているのか胸を張ってそうだったとは自信満々に言い切れない。そんな呆然とした状態で開けた玄関の先があまりに惨状を極めていても、そんなの今どうでもいいとすら思ってしまうわけで。掃除の途中で家を飛び出したことをこの時になってようやく思い出しても、だからなんだと、他人事のように思ってしまって。
配置がずれているソファにテーブル。めくれたままのラグ。コンセントをさしたまま転がっている掃除機。何のためにこんなことをしていたのだっけ。
――そうだ、キバナさんが、来るからって、そういう話だった。キバナさんの為に、大掃除なんかしていたのだった。
『俺じゃ、アリシアを幸せに出来ない。俺じゃあ、君の幸せになれない。だからどうか……キバナと、幸せになってくれ』
キバナさんの、ために。
◇◇
要は、改めて別れようという意味合いであろう、あれは。
重力に引かれているような体が楽になれる場所を求めた結果、どすんと倒れ込んだのは自分のベッドで、靴も脱がないまま手足をシーツの上に乱雑に投げ出して、意味もなく天井を見つめる。見慣れている筈のそこが、なんだかとても遠い。
「……っあ、あれ?イーブイ」
突然ハッとして上体を勢いよく起こして周囲を慌てて見やれば、ブイ、と存外近い位置からイーブイの返事があった。そちらに目をやれば、大人しく枕元に丸まるイーブイが。ほんの少しだけ寂しそうに目尻を下げている、私のイーブイ。
思えばダンデさんの家からここまで、いやダンデさんの家で記憶が戻ってからというもの、まったく、イーブイの記憶がなかった。
「え、やだ、イーブイ、ごめんっ、ごめん」
「ブイ〜」
自分の顔が一瞬で青褪めたことが嫌でもわかる。呼吸が荒くなり、震える手のままイーブイに手を伸ばせば、そっと四本足で立ち上がった後にぺろりと指先を舐め、のそのそと近づいてきた。そのまま、私の前で再び座り、小さく鳴く。
寂しそうな、心配そうな、複雑な顔をしていた。
「……イーブイは、全部、わかってたんだよね。教えて、くれてたんだね」
「……ぶいっ」
「だからずっと、ダンデさんに甘えてたんだ」
紐解かれた今、ダンデさんと出会ってからのイーブイの行動の全てに得心がいく。元からイーブイは、ダンデさんにとても懐いていたのだ。だから“初めまして”の瞬間に自分からその体に飛び込んでいったのだし、その後も私がダンデさんを蔑ろにしようとすれば怒るような態度を見せた。だから、キバナさんとの距離が縮まろうという折には、何度もダンデさんに肩入れするような素振りを見せた。
最初から、イーブイは教えてくれていたのに。
「ごめんねっ、ごめんね……イーブイっ」
みっともなく、情けない謝罪の声だった。どうしようもない自分に苛立ち、俯いてしまえばじわじわと溢れ出てきた熱い涙がボタボタと落ちて、点々とシーツに染みを作っていく。イーブイはもう一度小さく鳴いた後に膝の上にぽんと軽快にも乗ってくると、下から目元やら口元をぺろぺろと舐めだした。まるであやしてくれているみたい。
食いしばった口から生まれる鈍い痛みに心地良さすら感じているから、まったくどうして本当にどうしようもない。もう、後ろ向きで誰かに自信を与えてもらう弱い人間には戻りたくないのに。痛みに責められて、安心感をつつかれてはいけないのに。
酷い有様の家の中を片付ける気も起きず、そのままベッドの上でぐだぐだとし続けて、はたしてどれ程の時間が過ぎただろう。思えば夕飯も食べていないが、空腹など一向に襲ってこない。
瞼を閉じることもあまりに辛かった。全てを思い出してしまった今、当然、瞼の裏に浮かび上がるのは、たった一人だけ。
「……」
本当に、たったの一日で、再び世界が変貌してしまった。
結局一睡もできずに迎えてしまった翌日。湿った枕から頭は動かせず、どうしても起き上がれなくて仕事を休んでしまった。店長に連絡するのは、正直恐ろしかった。当日の朝に連絡することへの罪悪感よりも、店長もまた、私に口を噤んだ一人だからだ。スマホの通話口に具合が悪いと言う嘘なのか本当なのか自分でもはっきりと言い切れない理由を告げれば、朗らかに承諾して「お大事にね」といつも通り、優しい声で言ってくれて。
通話の切れたスマホを前にして思い出すのは、ダンデさんが職場にやって来た日のことだ。知り合いなの?と尋ねてきたこと。あの後ダンデさんと店長を二人きりにした。一体いつからと考えたが、もしかすれば、その時なのかもしれない。
口を閉ざしたのは、もちろんダンデさんにそう請われたからでもあり、私の為であるというのも大きいのだろうとは思える。私が困惑しないように、傷付かないように。そうやって、二度目の“初めまして”をした私達を、どんな気持ちでもって見ていたのだろう。
「ブイ……」
「……ごめん、ご飯あげてなかったね」
そういうつもりで鳴いたわけではないかもしれないけれど、自分は食べられそうになくてもイーブイはその限りではない。重たい体でどうにか起き上がるとイーブイがベッドからぴょんと飛び降り、私の隣をついてくる。キッチンに向かう途中、目に付く昨日荒したままの家具の可哀想な光景。面倒だけど、後で片付けなければ。
普段と変わらないフーズをイーブイ専用の皿に出してイーブイの前に置く。シャワーも浴びてないしだるいがさすがに一度綺麗にしておこうかともたつく思考回路で考えていると、ようやくおかしなことに気が付いた。
「イーブイ?」
フーズを前に座ったイーブイは、全くそれに口をつけていないのだ。いつもなら待っていたといわんばかりに尻尾を振ってさっさと飛びつくのに、匂いを嗅ぐことすらしていない。
「どうしたのイーブイ?昨夜あげてなかったし、お腹空いてるでしょ?」
私を見上げるイーブイは、黙ったまま首を横に振る。ますます心配になってしまうのは致し方ないだろう。
本格的に心配になり、しゃがみ込んでなるべく目線を近くした。
「やだ、どうしたの?具合悪い?病院行く?……あ、病院行かなきゃ」
一見すれば外傷もないがこんなことは初めてなので動揺してしまい、ポケモンドクターの常駐する病院を考えた所で、今病院に行くべきは自分だと、今更思い至った。言わずもがな、かかりつけの、ナックルの病院に、である。
だって、失くした日々を、全部思い出したのだから。
『記憶が戻ったからこそ、言わなければ、いけないんだ』
思い出して、しまったのだから。
「……行きたく、ないなぁ」
ぽろっと、零れた。そうすれば渦巻いて出口のない感情が零れ落ちるように、枯らす程に流した筈の涙が、飽きもせずボタボタと溢れて来るものだから。
病院に行って、素直に事の次第を話せる自信など、ほんの一欠片も持っていない。経緯など、どのようにして話せるというのだ。
「わかんない……全然、なんにも、わかんない」
詰まるところ、それしかなかった。絡まりきったたくさんの想いや言葉が、自分では解くことも切り離すこともできないままに、頭の中で処理が困難を極めている。真っ白になったり真っ暗になったり忙しなく、混乱して情緒不安定を引き起こし、胸がプレスされるように痛くて、苦しくて。
だけど、素直に聞き分けられるわけもなくて。
「……ブイ」
自然と折った膝に埋めてしまった顔のすぐ近くで、イーブイの声が微かに聴こえた。次いでとたとた、軽い足音。大好きなご飯を放り出して一体どこに行くのかと思うも、やはり鉛が詰められたように重たい頭が持ち上げられない。ほんと嫌だ、自分のことばっかり。
だけど、ガサガサと音が続いたのだから、不思議に思って少しずつ、なんとか頭を上げていく。
そこには、冷蔵庫に首を突っ込むイーブイがいた。一人暮らし用のコンパクト冷蔵庫だが、それでも小さな体のイーブイでは中を覗くのは大変なのに。
ガサガサと、中を漁る音がする。そして、ぽと、ぽと、と中身が床に落とされていく。
ビターの板チョコレート。フルーツゼリー。生クリームの層が乗っかるプリン。ヨーグルト。
冷蔵庫を開けたまま、チョコレートを咥えたイーブイが、私の前へと戻ってくる。
「ブ」
口をつき出して、まるで受け取れと言わん様子に、「あ」と口が落とした。
「食べろ、ってこと?」
「ブ、ぶぃ」
喋りづらいからか頷きながら、早く早くと大きな瞳が訴えている。恐る恐るそれを受け取り、痺れているような指先で包装を一列分だけ剥く。冷蔵庫に入れていたからひんやりと冷たくて、固いチョコレート。
固めの触感が好きで一年中冷蔵庫に入れているそれは、以前驚かれたこともあったな。その状態が好きなの、と笑ったからなのだろう。あの人が私の為だけではなく、自分の家の冷蔵庫にチョコレートをしまう癖がついてしまったのは。
じわ、と再び目の奥が染みる。黒いそれを見つめて、割りもせずにそのまま噛んで口に入れる。パキッと、小気味良い音が一瞬だけ響く。甘さが控えめでも、何も入れていなかった体は喜んでいるのか、とても甘くて美味しく感じられた。
もちゃもちゃと緩慢な動きながら噛んで飲み込むまでをしっかりと見届けたイーブイは、一度尻尾を左右に揺らした後に冷蔵庫へと戻っていく。そのまま数回往復して、床に落とした物を一つずつ私の前へと運んだ。そこまですると自分でも満足できたのか、ようやく放置していた自分のフーズへと口をつけた。
今度流した涙は、悲しみと痛みのせいだけではなかった。冷蔵庫が開けっ放しだとか、そんなことはもうどうだっていい。
「……ありがと、イーブイ」
今までごめんね、ありがとう、大事な子。
◇◇
イーブイが与えてくれたものを全て受け取った後に、ぐしゃぐしゃの顔と体をどうにかしようと自然に思えたので、浴室に向かった。鏡に映した顔は、化粧だって落としていなかったから乾燥も酷いし瞼も腫れて重たそうで、悲惨なこと甚だしい具合だったが、ぬるいお湯で洗い落とせばこんな精神状態でも幾分気分は変わる。
頭も体も全部さっぱりとさせて、それでもふとした瞬間にどん底まで気持ちが行ってしまうのはどうあっても止められない。バスタブにお湯も張れば良かったかもしれない。だけどあの窮屈な空間に一度丸まってしまえば、気が済むまでそこから這い出ることも難しかっただろう。
今成すべきは、身綺麗になること。そのプロセスだけを懸命に脳内に占めて、けれど普段より格段にのろまにもシャワーを終えた。
ルーティーンのスキンケアまで終えて髪を乾かしていると、イーブイがとことこと洗面所へと入って来たので目をやれば、瞳が何やら訴えかけていた。
不思議に思いドライヤーを置いて後を着いて行くと、鞄をてしてしと右手で叩くではないか。そこでようやく「もしや」と思い至る。恐らくスマホを示しているのだ。ぽんこつ頭になってからはスマホを鞄から出すことも忘れることも少なくはなく、鞄から振動を聴き留めたイーブイがこうしてよく教えてくれた。
「……」
変に、意識してしまうのは、なんて悲しい。そもそも、誰から連絡が入ったのかもまだ見ていないというに。
妙に心臓を震わせつつスマホを取り出せば、使い慣れたメッセージアプリの受信アイコン。送信元を見て、期待が自分の真上を俊足で通り過ぎていくのが嫌でもわかった。
相手は、キバナさん。
今しがたまでとはまた別種の早鐘を鼓動が打つ。このタイミングでその名前を目にするのは最早毒にしかならないが、遅かれ早かれ、向き合わねばならない問題。
『店寄ったら、店長から体調悪くて今日休んだって聞いた。具合はどうだ?薬は?必要なものがあれば持っていくから言って』
恐る恐る開いたメッセージにはそう書かれていた。昨日までであれば、本当に気の利くよくできた人間なんだ、と素直に受け取ることができたのに。
あんなに、キバナさんのあからさまな言動に振り回されて、困惑して、それでも寄り添おうなんて、考えていたのに。
偽りなく、途轍もなく恐ろしかった。キバナさんを相手取る器量など私にはないと端からわかっている。それでも、今無視したところで、いつかは必ず回ってくる。
『キバナと、幸せになってくれ』
深呼吸して、隣でじっと私を見上げていたイーブイになるたけ気を搾って笑い掛けた。見なくても気力もあまりない情けない笑みだっただろうが、イーブイは応えるように愛らしく笑ってくれた。
休憩中だろうか、仕事中ではなかろうか。いつもなら気遣ってからメッセージを送るが、今やそんな余裕もなく。
キバナさんの電話番号を呼び出し、震える指を叱咤してコールする。スマホを耳に当て、向こうに繋がるまで耳朶を叩く呼び出し音が、どうか死地へ向かう自分の足音になってしまわぬようにと願った。
『もしもし?どうした具合は?なんか要る?』
開口一番のそれは、胸が痛い程に優しくて、心配げだった。そうだ。この人がそういう人であることなんて、もうとっくに知っていたこと。飽きもせずに、散々話を聞いてくれた人。
「……キバナさん」
『ん?』
だからこそ、真意を知りたい。
「うちのソファ、何色かわかりますか」
『……、……』
テンポ良く会話を弾ませる技術を持っているキバナさんから、沈黙が返ってきている。まだ結論は早いぞと自分に言い聞かせるが、バクバクと心臓が暴れ回っていて、手足の末端まで緊張が走っていた。そのせいで体が委縮し、呼吸もいささか乱れている。気を抜けば正常とは言い難い呼気の音がキバナさんにも聞こえてしまうに違いなかった。
やがて、口を開く気配がした。
『……そっか、思い出しちまったんだな』
唇を噛み締めたところで、一筋涙が頬を滑るのを抑えきれなかった。
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