- ナノ -


(12)君の幸せだけを願っている-1


 失くした一年の中に、私の人生において最も大切なものがたくさんあった。間違いなく、かけがえない、大切だった。
 セピアからカラフルに。静止から流動に。知っている筈なのに知らないことになってしまった、眠ったままの私を運んで逸れてしまった線路を、傷跡を、ようやっと封じ込められる。
 些細なことに一喜一憂して、時には怒り、時には悲しみ、それでも確かに愛したもの。

 ――なのに。

「みんな、みんなして……なんで……っ!」

 失くした約一年に関わった人達全員が、等しく私に口を噤んだ。それはきっと、記憶を失くしたことにすらも自覚が持てない、事の始まりの頃の私を慮ってのことだとは想像つくけれど、でも、だとしても。
 だとしても、みんなして、どうして。
 それに何故、今更、こうして私をしまいこむように強く抱き締めているの、貴方は。

「……俺が、頼んだ」
「離してよ……」
「なかったことにして、全部初めての振りをしてくれって」
「離してよぉ……!」

 理由なんかきいていない。理由も確かに重大で必要なものだが、もっともっと、私にとって、一番胸に引っ掛かって強烈な痛みを絶え間なく訴えているのは。
 あの日。あの、アップルパイを向かい合って二人で食べたまだあまり遠くはない日。私がまだ何にもならなかった二人におしまいを告げる為の日。
 ――だったらなんであの日、全部聞き分けよく受け入れて、手を伸ばしもせず引っ込めて、私を見送ったの。

「今は混乱しているだろう。アリシアが落ち着いてから、ちゃんと話すから」
「いい……、いいっ、もういい!離して!」
「全部話すから。だから、」
「知らない……!はなして、帰るからっ」
「嫌だ」

 きつい腕の中から逃れたくてじたばたと計画なく手足を動かしたところで、この人の力にはおよそ勝てるわけがない。かつて大きな体躯にぶつけられて吹っ飛びそうにもなったのだ。比べようもない呆れるくらいの体格差と、頑なな意志の強さ。その心内の強さに比例するように力は込められ、より一層きつく抱きすくめられて。

「帰さない」

 こんな場面で、今頃それを言うなんて。


  ◇◇


 この場に滞在し、時間を掛けたところでぐるぐると回転し続ける頭の整理が追い付くことは当然ながらなかったが、ベッドの上で優しくブランケットにくるんでもらって、温かい紅茶を飲ませてもらえば、ずっと激しく躍動していた心臓は少しずつ間隔を落ち着かせていった。無意識か意図的か、以前私にくれた、ボックスの中に丁寧に畳んでしまっていたブランケットでくるんでくる辺り何とも言えない。
 あのボックスの中見のほとんどは、かつて私の物だった。正確には、失くした日々の間にプレゼントしてもらった物。ブランケット、数着のワンピース。小ぶりのアクセサリーに本。ほとんどが怒涛のプレゼントラッシュの頃に貰ったものばかり。言葉で伝えていないのにも関わらずきっと見抜いていた、ままならない二人だけの時間に寂しいとは簡単に言えない心に生まれた隙間を埋め込んでいくような、形有るダンデさんなりの誠意と後ろめたさ。唯一私物でないのは受け取るのを拒否したハンカチやら腕時計やら、イーブイのキーホルダーがついた鍵などだが、それは今いい。
 それが全て、この家の中の、あのボックスの中に今の今までしまわれていて。

「少しは落ち着いたか?」

 ベッドの上に膝を立てて座る私の横に、椅子を持ってきて腰かけたダンデさんが情けない顔のままに口を開いた。未だ反抗心やら猜疑心やらが残ったままいるために、素直に返事をすることに抵抗を覚えて代わりにカップに口を付ける。そして馬鹿だが、今になって気が付いた。このカップ、私がこの家に訪れた際に使っていた、私専用。

「……本当に、戻ったのか?」

 何を、と具体的なことも避けるのに手探りするような問い方だった。見るからにそうであろう私の動転具合なのに、そんな恐る恐る確認するような声。俄かには信じ難いのだろうことはわかる。これまで何度も顔を合わせて話をしたのに思い出す兆候もなく、平然と希薄な関係のまま共にいたのだ。それが突然、こんな状態になって。
 けれどやはり返事の為に行動するのには躊躇いを覚え、その縋るような、だけど戸惑いを語るような瞳を見つけてしまったから、ますます返事に窮した。

「どの道、説明が必要だよな」

 意を決するように、自分に言い聞かせるように、ダンデさんが膝の上に作った拳を握り直した。心臓が再び逸っていく。聞きたくないと思う自分がいることは誤魔化しようもない本当で、でも知りたいと願ってしまう自分もいる。怖いのに、話して欲しい。矛盾を孕む胸の内がどうしようもなく痛いまま、内側で掻きむしる音をがなり立てている。

「念の為に確認させてほしい。……俺のこと、わかるか?」

 ――だというのに、何もかもすっ飛ばして、泣きそうになった。
 ダンデさんのか細い声音の問いかけが、単純に目の前にいる人の名前だとか、素性だとか、そういう限定的なことを問うているのではないと瞬時に理解してしまうと、もう駄目だった。
 急激にせり上がってくるもので喉が詰まり、うっく、と口が小さく苦しさを吐き出した後、目の奥が瞬く間に熱くなる。堪えられるわけもなく、そこからじわじわと涙が滲み出てくる。

「……っかり、わかり、ます」

 あんなに拒んでいた返事が、喉を突っ返させながらも出てきた。
 わかる。貴方が誰なのか、わかる。貴方がどういう人なのか、わかる。

 貴方が私にとってどういう人だったのか、もう、全部わかる。

「っ」

 息を殺す気配がした。多分、色々なことを堪えて、そのまま外に噴出しないよう懸命に抑え込んでいるのだ。この期に及んでカップの中見に視線を落としたまま、はたして顔を見てもいいのだろうかと少々迷った。でも今ダンデさんの顔を見てしまえば、二人揃って同じになるに違いないとも。
 予期していなかった今日というたったの一日の出来事のせいで、混乱したままの頭では決断力が普段よりも鈍り、そうして結局迷ったまま唇を噛み締めていると、カップを持つ手に熱い何かが触れた。視界に突然入り込んできたそれは私とは違う色をしていて、ちょっと汗ばんでいて、微かに震えを持っていた。そのまま不自由そうな手つきでカップが攫われていき、その様子を目だけで追っていると、その手は次にこちらの頬に触れてきた。両頬を湿った震える手が挟み、輪郭をなぞるように優しく撫でる。その何とも言えない手の感触に、とうとう自分一人だけでは堪えられなくなり目線を上げようとすれば、それよりも早く顔を持ち上げようという仕草が見られたので、応じることに決めた。招かれるがまま上げた顔の先、思いの外迫っていたダンデさんの顔が、そこにはあった。
 透明な膜が張って、潤んで、揺らめいて、今にも零れ落ちそうな、綺麗な二つの金色。
 本当に、朝焼けの光を受ける美しい湖面のようだった。

「アリシア」

 掠れる低い声が、確かに私の名前を呼んだ。

「アリシア」

 頬を滑っていた手が頭の後ろに回った。線路を閉じ込めるように、そっと掌が乗る。

「アリシア……っ」

 予告なく大きな体に包まれ、自身に引き寄せるように線路を押され、再び頭も体もダンデさんの腕の中にしまいこまれてしまった。でも、そこから抜け出したいと、今度は思わなかった。私よりも随分と大きい体の、服を介しても熱い体温が、じんわりとこちらの肌に伝わってくる。心臓の近くに顔を押さえられたせいで、早鐘を打つ鼓動が鮮明に聴こえた。

「すまないもうこんなことすべきではないと自分でわかっているのに……、ずっとこうしたかったっ……ずっと後悔して、ずっと忘れられなくてっ……、もうアリシアの前には現れないと決めていたのに、身勝手だとわかっていても、あの日、ナックルシティで迷っている君を見つけて、声を掛けられずにはいられなかった」
「なんで謝ってるの……?」

 資料館に寄った後、途方に暮れていた時。私の真似っこをして、初対面の振りをして、声を掛けてきた日。あれは私と同じで、偶然から始まったらしかった。

「……わざと、なぞったんですか?私達がしてきたこと」
「もしかすればと、思って。もしも思い出してくれたなら、と」
「最初から言えば良かったのに……証拠だって、持ってたんだから」

 証拠がない話には付き合えない。人の不幸に漬け込もうとする輩と判別するために絶対に必要なこと。しかしダンデさんはこうして証拠をいくらでも残していたし、スマホの画像といういつでもその場で私に突きつけられる、大きな証拠が手元にあったのに。
 なのに、証拠も出さず、オレンジみたいな夕陽の下、彼は自分からその話を終わらせてしまった。

「……言えなかった。どうしても、言えなくて」
「どうして?」

 その瞬間、せっかく滞留していた空気がようやく正常な流れを思い出したようだったのに、そこに小さくはない余波が生まれたようだった。ぐっ、と線路を閉じ込めていた掌に圧が加わる。
 心臓の鼓動が速まっている。頭の上のダンデさんが、波にもがくように口を幾度か開閉して、やがて腹を決めたのか、その唇を開く。

「俺は……君を、選ばなかった」
「……?」

 ダンデさんの腕の中から見上げても、彼の瞳とどうしても合わさらない。どこを見て、喋っているのだろう。

「俺は、君よりも、チャンピオンを選んだ」
「……もしかして」

 いつだとか何に対して、とは口にしていないが、おおよそのあたりはつけられた。ひゅっ、と息を呑む。
 それは、私が階段から落下した日のことを指しているのだ。

「……アリシアのことはすぐにキバナから知らされた。なにせ、ナックルでの出来事だ。試合前の、控室だった。君から返信が来ないかと、待っていた時。血相変えたキバナがノックもなしに飛び込んできたから最初は腹立たしささえ覚えた。だけど、あまりにも様子がおかしくて。しかも、開口一番が、アリシアのことで」

 見上げる金色が大きく揺れていた。湖面が風に揺れて波立つが如く、荒々しくはないのに、それは平穏とも呼べず。

「キバナも相当混乱していたと思う。俺も、同じく。駆け付けるべきだと言われた。今すぐ、アリシアの所に行けと。……だけど、俺は、行かなかった」

 どこを見ているかなんて、察するのも無粋極まりない。わかっていてわからない振りをするのも愚作の極みである。
 どこかなんて、考えなくても、今ならわかるじゃないか。

「アリシアより、目前のバトルを選んだ。チャンピオンとしての責務を、選んだ」

 思い出したのは、何度も何度も目の当たりにしてきた、美術館の奥でこっそりと飾られて照らされる絵画。いつだって貴方は、私を通してアリシアを見ていたんだ。

 自分に自信が持ちきれなくて、でも自分からそれを変えようという気概もない、上を向けずに現状をのうのうと生きてきた人間。
 でも、思いがけないきっかけで貴方に出会って、貴方に言葉を貰って、少しずつ上を向こうと思えるようになれた。バトルを教えてもらって、トレーナーとしての誇りを持たせてもらって、隣にいることを許してもらった。だけどずっと、迷惑を掛けたくないと心の中身を最後まで曝け出せなかったアリシア。我儘な女じゃないなどと自分から不格好な予防線を張り、聞き分けのよいフリをして、我慢して、それをしょうがないって肯定するのに諦めていた女。
 息が詰まる。肺が楽になることを求めて止まない。圧縮される空気の中にいるようだった。

「行こうと思えば行けたのに、俺はそうしなかった。開始時間を遅らせるとか、延期にするとか。でも俺は、チャンピオンとして決められた予定通りバトルすることを選んだ。そうして、終わった後になって会いに行って、俺と過ごしてくれたアリシアを、失くした」
「……そんなの、そんなの、」
「俺を忘れてしまった君を前に、もう何も出来なかった。謝ることも出来なくて。……らしくもなく、怖くなって」

 こちらの言葉を遮るように、否、下手をすれば耳に届いてもいないのかもしれない。言葉を繋げることを良しとしない雰囲気のせいでせっかく開いた口を閉じざるを得なくなり、同じように苦しげに自分の唇を動かすダンデさんを見つめるしか出来なくなった。

「俺と過ごした時間を全て失くした君に、どうすればいいのかと、情けなく途方に暮れた。負い目は、それはもう海よりも広くあった。散々我慢させて、いつも窮屈な思いをさせて。それを気にするなといつも気丈に振舞うアリシアに、ずっと申し訳なく思っていた。大事に、思っていたのに。何より、あの時俺は、君を選ばなかった」

 最後の言葉が一番大きいのだろう、ダンデさんの中では。繰り返し紡がれるそれは、確かに己の後悔が多分に含まれていることが聞き取れる。エキシビションとはいえ大きな試合を前に私を切り捨てたことを未だに引きずって、それを枷にしたまま、今まで私から離れた場所で生きてきたのか。
 私と過ごした全部を、一人だけ覚えたままに。

「ダンデさんに繋がるもの、失くした約一年に関係あるもの、貴方が自分であそこにしまったんですね」
「離れなくてはと、思ったから。……あの本が見つからなかったから気掛かりだったけど、合鍵を使うのはそれで最後と決めていたから、あれ以上は探す手立てがなかった。俺の連絡先も、履歴も、やり取りも全部、君が入院中、寝ている間に」

 ――やはり、と色々と腑に落ちた。言いたいことはたくさんあれど、こればかりは私とダンデさんだけでは答えを出せないから、今は黙っておく。

「……でも、声を掛けてしまった。久々に目にしたアリシアに、どうしても、居ても立っても居られなくなった。強烈な衝動が体の隅から隅まで駆け巡って、手を伸ばせば触れられる所に君がいるのに、簡単に伸ばせない手がもどかしかった。何も知らない君に声を掛けるのは酷く勇気がいったよ。でも、どんなに頑張っても、どんなに逡巡しても、自分を殺せなかった」

 そうやって“初めまして”をもう一度して、二人で舌鼓を打ったあのキルクスのお店でシフォンケーキを食べて。その後も二人で美味しいと笑い合った場所に赴き、だけど私が何も思い出すこともなく、そして、ターフタウンでアップルパイを食べた日に、私の言葉を飲み込んでまた離れていったの。

「どうか思い出してくれと願ってしまった。勝手なことをしている自覚はあった。でも、思い出してもらえないと、伝えたい言葉が永遠に伝えられなかったから」
「伝えたい、こと?」

 今度こそは耳に届いたらしい。ああ、とか細い返事があって、するりと線路を髪の上から撫でてから、優しく丁寧に、頬へと掌が移動してくる。壊れることもないのにそう扱う手つきで触れ、肩に両手が置かれた。軽く後ろに押されたのでもたれかかっていた胸から上体を起こす。そうすればようやく、遠い場所に着地していたその瞳の先と、合わさる。
 もう一度、何かを決心したような、改まった色をしていた。

「ずっと、ずっと考えた。アリシアが俺を忘れてから、もう何度も悩んだことだ。呆れるくらい自問自答した。もう一度君と出会ってからも、夜をなかなか越せないくらい考えた。でも、やっぱり、それが一番の得策なのだと、結論づいた。記憶が戻ったからこそ、言わなければ、いけないんだ」

 僅かな揺れは残っていたが、あまりに真摯な眼差しだった。酔いなどとうに吹き飛ばし、正常そのものの口振りで、好きだと先程零して許可もなく触れ合わせた唇で、ダンデさんが言葉を私に向ける。柔らかく、耳に馴染んだとても優しい声音で。

 ――それを、言葉の刃と言い表すのは、これまで自覚なくこの人を数えきれないくらいに切りつけてきた私には、おこがましいことだろうか。
 圧縮どころの話ではない。真空の宇宙に、真っ暗で自分一人の力では足掻くことすら困難な所に放り込まれ、息も目も耳も、何もかもの機能を一瞬で奪われたような。
 記憶など永劫に戻らなくて良かったのだと泣いてしまいたい私は、それこそ身勝手であろうか。

 嗚呼、さっきの謝罪は、これのことだったのか。


「俺じゃ、アリシアを幸せに出来ない。俺じゃあ、君の幸せになれない。だからどうか……キバナと、幸せになってくれ」

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