- ナノ -


さくさく生地のアップルパイに夏摘みのダージリン、色なら水色-2


 後日。ダンデさんとアップルパイを食べるためにターフタウンでおち合う日。
 期待を裏切らないダンデさんは会わなかった間もお変わりないようで、遅刻だ。大遅刻と遅刻、ダンデさんはその都度違う。難儀な人だ。
また暇潰し……と考え、しかし決して都会的とは言えないターフタウンにおいて暇を潰せるような施設が乏しいため、うーむと悩み続けている。
 別に、自然いっぱいのどかな光景は目に保養的なのでいいのだが、いつダンデさんが到着できるのかわからないのだ。目処も立たない途方のない時間を突っ立ったまま待ちぼうけるには足腰が辛い。

 さて、どうしようか。ベンチに座って読書してもいいのだが、いかんせん季節はとっくに真夏に突入している。今日も今日とて太陽がギラギラと輝いていて、薄いカーディガンの布地をすり抜ける紫外線を浴び続けてはすぐ真っ黒になってしまうだろう。UVカットの日傘は、さすがに読書中はさすことが難しい。何より、頭の後ろの線路が久しぶりに痛んでいた。
 馴染みがないターフタウンを日差しが容赦ない炎天下、休憩どころを探すために歩き回るのもまた無謀。大人しくポケモンセンターの中で待つ方が賢明だろう。
 ポケモンセンターに入り運よく空いていたテーブルを確保する。連絡が入った際すぐわかるようテーブルの上にスマホを置いて、鞄から読みかけの本を取り出す。ベストセラーの文庫本だ。
 読書に集中していれば時間が過ぎるのもあっという間で、突然スマホが震えたから反射でそれを見ると、待ち侘びているダンデさんからの着信だった。

「もしもし」
『すまないもう着く』
「ポケモンセンターの前に立ってますので、慌てず、ゆっくり、慎重にどうぞ」
『俺は子供じゃないぞ!』
「ご自覚がおありなら私の言葉を忘れないでくださいね」

 中で待ったままだと下手をすれば目前まで迫るポケモンセンターを素通りしそうだと思ったので、移動することにした。
 外で待っていると、程なくしてそれらしい人影が近付いてきた。汗だくで、でも私の顔を見つけた瞬間大輪の向日葵みたいに笑顔が咲いた。頭上の太陽に負けない、眩しい笑顔だった。今日は泥ついてないみたい。

「待たせてすまない!暑かっただろう!」
「中で涼んでたので大丈夫ですよ。それより汗だくですね、ハンカチは?」
「ないな!」
「だと思ってましたぁ」

 水色生地の花柄のハンカチを鞄から取り出して差し出すと、ダンデさんはそれをわからなさげに首を傾げて数秒見つめた後、ハッとして身を勢いよく引いた。

「汚れる!」
「今日はまだ未使用のハンドタオルがもう一つあるので、大丈夫ですよ」
「男の汗なんて気持ち悪いだろ!」
「じゃああげます」

 貸します、とは言わなかった。言ってはいけないのだ。

「……洗って、返すから」
「いいえ、本当にあげますよ。それよりほら、さっさと汗拭いて行きましょう」

 突き出すハンカチを恐る恐る手に取って、まだ何か言いたげにしつつ躊躇う素振りを残しながらもダンデさんは汗を拭ってくれた。
 少しだけ、安堵していた。あまり良くなかったように思う直近の空気などてんで忘れたように、ダンデさんが笑っているから。確実に、気を遣っている。不器用なくせにそんな所だけなんというか。
 もう、そんな心配する必要もないのだけれど。


  ◇◇


 アップルパイが目的のそのお店は、老夫婦がこじんまりと経営する個人店だった。木や畑に囲まれた、時間の進むスピードがここだけ違うと思わせるような場所である。
 あまり広くはない店内で二人向かい合ってさっそく注文し、テーブルにやって来るまでの手持無沙汰な時間になるとダンデさんが不思議そうに口を開いた。

「イーブイはどうした?」
「今日は大人しくボールの中です」
「暑いからな」
「そうですね」

 本当は違うけれど、ありがたい勘違いに乗っかった。
 いつまで経っても機嫌が以前のように治らないイーブイは、今日は出かける際に渋らなかったが、憂い顔だった。そして、自ら進んでボールに入ったのである。
 まるで、自分一人で歩いて行けと、言われているようだった。
 お陰で迷子になりかけ、ダンデさんに文句が言えないくらい大遅刻をしかけたが、まぁどうにかなったので忘れていい。

「土産を買っていくといい。ポケモン用のものをここは見繕ってくれる」
「確信的な言い方ですね。来たことあるんですか?」
「……ネットの紹介記事に書いてあったさ」

 ふぅん、と間抜けな相槌を打っていると、間もなくアップルパイが運ばれてきた。
 スイーツ男子が目をつけたアップルパイなだけあり、かなりの美味だった。艶があり、バターが香ばしいさくさくの生地に甘い林檎のコンポート。ミルキーなのに胃にずしんとこない甘さのカスタード。好みのドンピシャである。
 何よりアップルパイに組合わせたダージリンセカンドフラッシュが最高だった。シャキシャキ感の残る林檎のフルーティーさと夏摘みのダージリンの爽やかさが絶妙で、ダージリンなら夏摘みが一番好きなこともあるが、口に含んでいる間何もかもがどうでもよくなるような至福の時間に浸ることができたのだった。

「甘いものは人を幸せにする」
「うまいな!」
「味わっているのかわからないようながっつき方でも、良しとしましょう」

 いつも思うが喉に詰まらないのだろうか、こんな食べ方をして。香りを楽しむ紅茶も水を飲むように飲み干してしまうので、食に興味がないのは以前うちの店を訪れた際に見知ったことだが、それにしたってもう少し味わえばいいのに。

「あ、そうだ」

 つい呆れ眼でアップルパイをほとんど一気に平らげてしまったダンデさんを見ていると、彼がおもむろに鞄の中を漁りだしたと思えば、次いで小さな箱を私に差し出してきた。淡い水色の箱である。

「なんです?」
「開けてみてくれ」

 突然の事態に気持ちに変なブレーキがきき、半目でダンデさんを見つめるとかち合った金色の瞳が「早く早く」と訴えてきていた。幻影でなければ目の中に細かな光があって、あの日見たイーブイのキラキラとした星宿る瞳が薄く重なっている。
 白昼夢のようなとんだエフェクトにおっかなびっくりしつつ、このまま見つめ合ったところでどうしようもないなと静々とそれを受け取り、楽しげな視線を注がれながらリボンを解いて中を確認することにした。

「え、これ」
「ふと見かけて、君に似合うと思って。その……詫びのつもりでもある」

 キバナさんと初デートした日、パンケーキを食べた後のショッピングの最中、雑貨店で見つけて欲しいと思ったけれど手持ちが足らなくて諦めた、腕時計。
 数字の文字盤に細身の皮のベルトのシンプルさ。文字盤の3の部分には小さな水色のストーンが埋め込まれている。華美なものはあまり得意でない私は、生活する上で使い勝手のいいものが好きだった。

「使ってくれ」
「ちょ、え?」

 使ってくれって、プレゼント?しかも詫びって、何度もきちんと言葉で貰ったのに。
 まさかよりによって、このタイミングで。

「……」

 何の罪もないその腕時計を見つめて、ギリッと奥歯を大した力ではないが噛み締めた。この時ばかりは、陳列されるそれを見かけた時のような腕に付けたいという欲求とは縁遠い。

「アリシア?……すまない、好みじゃなかったか」
「そうじゃない、です。むしろ、凄く、好きなデザイン」

 この人は、本当に。
 砂糖をかき混ぜる紅茶の液面のようにぐるぐるとする頭の中はあの日とは違い、現金にもやわく細められる優しいまなじりのターコイズブルーがちらついていた。

「……ごめんなさい、受け取れないです」

 蓋をそっと閉じて、リボンを不格好ながら巻き直して、テーブルの真ん中にことりと置く。
 顔は、上げられなかった。

「……すまない、迷惑だったな」
「違うんです、ごめんなさい」

 それだけは首を振って即座に否定した。
 迷惑でなんかなかった。ただ、タイミングだけが問題だった。タイミングが違えば最初は断りつつも最終的に受け取っていただろう。

「今日は、お話があるんです」
「話?」
「はい。……結論から言うと、もうダンデさんのスイーツめぐりには付き合えなくなりました」

 私の言葉を最後まで聞き届けた直後、向かいに戸惑う気配があった。顔は上げられずとも、それだけは痛いくらい空気を伝って身にもたらされる。

「理由を、聞いても?……いや、十中八九俺に原因があるな。俺は気遣いとは無縁でへたくそだとよく言われるんだ。不快な思いをさせていただろうか。いや、実際何度もさせていたな」
「そういうことではないんです。その、えっと。前に、記憶のこと、話したとき。失くした一年のことはどうでもいい的なこと言っておいてなんですが……」

 罰が悪すぎて嫌な汗が滲んでくる。ますます顔が上げられずどんどん俯いていく。身勝手でも、きちんと言わなくては。

「先に一つだけ確認したいんですが、ダンデさん、本当に以前私と面識がなかったんですよね?あのナックルシティで声を掛けてくれた日が、はじめまして、ですよね?」

 思い出されるのは初めて記憶の話をした日。責任転嫁ではないが、あの日を境にせっかく均衡を保っていた色々なことが崩れてしまったような気がする。
 恋人だったと言ったらどうするなどと悲しい冗談を口にされ、心に寂しい隙間風を吹かせたオレンジみたいな夕陽の下。痛んだ心は、しつこく記憶している。
 それにシフォンケーキを食べに行った日も、その後も。不思議な動作だと馬鹿みたいな感想を向けていた、浮いた右手の不可解さと行き場のなさ。
 思い当たるような理由は、キバナさんの言動を踏まえて考えれば、無謀にも一つしか弾きだせなかった。

 どうして、私にそれを伸ばそうしたの。

「……そうだ」

 やがて煙を吐くように返された肯定に、こちらは細く息を吐き出した。それに伴い強張っていた肩から力がゆっくり抜けていく。
 ならば、やはり、私が選んだ答えは、正解だったのだ。今日この日が私の未来を決める分水嶺となる。

「……実は、いたみたいなんです、本当に。付き合ってた人が」

 ガシャン!と甲高い音が鳴ってビクッとせっかく力が抜けていた肩が跳ねた。反射的に顔を勢いよく上げると、ダンデさんの前にあるカップが倒れていた。そのすぐ脇には手があるからぶつかったのだろう。
 音を聞きつけすぐにここを経営している夫人が「お召し物にかかっていないですか?」と駆け寄ってきてくれたが、少量しか残っていなかった中身はテーブルから零れてはいないし、一拭きすれば綺麗になるだろう。見た所カップも割れていないし、弁償案件は発生しなさそうである。
 丁寧に謝罪を入れて夫人が離れた後私に向き直ったダンデさんは、顔を白くしたり青くしたりと、感情の変動が何やら忙しそうだった。

「記憶が戻ったのか!?」

 前のめりにそう訊かれる。先程よりも大きくなった声にあまり多くはない年配が主の客がこちらをチラチラと見ていたが、それを気にしている余裕もなかった。

「戻ってはいないんですが……。その、四人目が、現れまして。しかも、きちんと証拠付きで」
「…………え?」

 たっぷりと空白を開けた後意識せずといった感じで落とされた「え」の一文字は、基本的に自信に溢れているダンデさんにしてはとても小さく、虚しい響きだった。
 信じられないと言わんばかりの顔に、私もそうだったと苦笑した。

「私とその人が仲良く写ってる写真。ご丁寧にスマホの待ち受けに設定してた。どうして私から離れたのかとか、その人の存在をこれまで一切気付けなかった理由とか、色々話してくれました。色々話してくれて、聞いて、受け入れました」

 キバナさんの、あの途方のない後悔、悲憤、絶望。そして、言葉では言い表せない真っ黒い、懺悔。しっかりと覚えている。あれはポンコツ頭でも簡単に忘れられそうにない。

「もう一度やり直したいって、言ってくれました。思い出す努力をしたいと、言いました」

 真摯な瞳も覚えている。好きになる努力をしたいと、ついこの前思えた。
 手を繋ぐことにすら許可を求めてくる、会いたいからという理由で顔を出して一々嬉しそうに笑う、私の頭のメモリーが少ないキバナさん。
 ダンデさんは、未だに目を見開いて、驚愕に顔を染めた、信じられないという顔をしたままだ。

「だ、誰だ、誰がそんなこと」

 唇も言葉もはっきりと分かるほどに震えていた。何がダンデさんをここまで慄然とさせているのかはわからない。
 視界に入ったテーブルの真ん中に置いたままの水色の箱を見つめて、口を開いた。
 そういえば、昔から水色が好きだったな、私。

「キバナさんです」

 ダンデさんはすっかりと血の気の失せた顔をしていた。だが、段々と顔に赤みが戻ってくる。テーブルの上で握られた拳がブルブルと震えている。相変わらず感情の起伏が忙しそうだった。

「……ほんとう、に、キバナが君に恋人だったと言ったんだな?」
「はい。一応、ダンデさんの名前は出してないけどこうやって出掛けてもいいのか訊きました。自分は今ただの友達だから構わないと言ってくれたけれど、やっぱり、これからも続けるのは悪いなと、思うんです。いくら関係がリセットされても、きっちり二人の意志でお別れしたのではないのだから」

 キバナさんはきっと、別の男の人と出掛けることを言葉では許してくれるだろう。だけど抱える心はきっとそうともいかない。頭と理性って別々の生き物なのだ。
 それに二人は世間も認めるライバル関係にある。いくらダンデさんがチャンピオンでなくなっていても、それは今も続き周知の事実となっていること。そんな二人の人間の周りをうろちょろするのは褒められる行いではない。
 それに、私も決めたのだ。キバナさんを好きになる努力を、するのだと。

「だから、ダンデさんとスイーツめぐりするのは、これで最後にさせてください」

 私とは付き合いが誰よりも浅く、ダンデさんにとっては結果的にスイーツめぐりするために必要な人手だっただけの人間だ。恋人だった人とどちらかを切れと言われれば、言葉にするまでもない。

「……けっこう、楽しかったです。ダンデさんとスイーツめぐりするの。初めて助けてくれた日も含め、たくさん、ありがとうございました」

 大遅刻することにも慣れたし、暇を潰すのもそれ程苦ではなかった。何より、あの日、大遅刻があったお陰で図書館に行けて、キバナさんが声を掛けてくれた。
 会話は調子がいい時と悪い時があったけれど、弾む時は弾んだし、それなりにまぁ、楽しかったかな。
 イーブイが懐きまくっているからここのところ嫉妬したが、今後はその憂いも減っていくだろう。
 何より、付き添いなのに偶然か私の好みど真ん中のスイーツを何度も食べられたのは、純粋に満足だった。
 しばし、沈黙。伝えたいことは全て伝え終えたので、こちらがこれ以上口を開くのは全て蛇足にしかなり得ない。大人しく、ダンデさんの回答を待った。

 彼は、とても寂しい顔をしていた。
 あの、美術館の奥の秘密の、絵画。

「君は……、それで、幸せになれるか?」

 心なしかやるせなさそうに、消沈したようにすら目に映っていたダンデさんは、やがてそう問いかけてきた。なんだろう、何の含みもなさそうな声音なのに、すかすかな言葉として耳は拾って認識していた。

「……はい」

 意味わからない苦さに襲われたが、精一杯笑った。ダンデさんも、薄く笑ってくれた。
 中身がないと思っていた穴に未だ残る細かな隙間を埋めるためにも、キバナさんの真摯さに応えるためにも、私は選択する。

「だから、ハンカチはあげます。困ったら、お手数ですが処分してください」


prev next