ナックルシティにあるかかりつけの大きな総合病院で定期的に診てもらう先生は、カウンセリングを専売にしている人らしく、物腰がゆったりとした女の先生だ。優しそうな顔で、優しく問いかけてくれる。
脳の状態は前回の定期健診で診てもらってから変わりなし。まだ綺麗にならない線路の状態も変わらず。膿んでもいないし、開いてもいない。痛むことを伝えると、気温や天気の影響だろうと言われる。
あるいは、精神的な。
病院は苦手だ。薬品っぽい匂いが特に。あと、なんとなくという理由だけで。
はっきりとした理由もないのに、漠然とした気持ちで苦手意識があるから、病院はあまり来たくない。ゴーストタイプのポケモンも、なんとなく。当然のようにホラー映画も得意ではない。
会計を待つために待合室でイーブイを抱えたまま俯く。イーブイは大袈裟なくらい心配そうに私を見つめていて、近くなった鼻の天辺をファンデーションが塗ってあるにも関わらずぺろりと遠慮がちに舐めた。
チーズケーキをダンデさんと食べた帰り、しずしずと私の元へ戻ってきたイーブイは、今度はしおらしくなってしまった。列車の中でも、ラテラルタウンへ向かう道中も、反抗するようにダンデさんにべったりだったのが嘘のように。
イーブイは、長年のパートナーだ。途中でリタイアしたジムチャレンジ中共に戦った他の手持ちだった子はみんなボックスに預けている。何せ、数体もの子達の世話をまともにみれるとは思えなかったから。
自分の事で手一杯なのに、イーブイに助けてもらわないとままならない日常なのに、みんなには悪いけれど、自信が無かった。
「あれ、アリシアじゃん」
病院にいることに対する心細さのせいか、前向きを忘れて久しぶりの自己嫌悪に浸っていると、突然名前を呼ばれてハッと意識が現実に戻された。
顔を上げて辺りを見渡してみると、頭上に影が降ってくる。えっ、と思い顔を上へ持ち上げて仰ぐと、天井の明かりのせいで影を帯びた顔が割かし近い距離で広がった。
「わっ、びっくりした」
「よー、どうしたこんなとこで。ていうか俺のこと今度はちゃんと覚えてる?」
「…………」
「がんばれ、がんばれ」
「………図書館」
「もうちょい」
「………助けてくれた、キバナさん」
満足そうに、キバナさんは笑った。
ジムで模擬試合を行っていた最中、運悪く相手のポケモンの技にあたって体が吹っ飛んだらしいのが、キバナさんが病院にいた理由だった。
「なんともないんだけどさぁ、みんなして大袈裟でよ。特に模擬試合やってたジムトレーナーの奴がそれはもう罪悪感が凄まじくて、安心させるためにもこうやって病院まできたわけ。検査結果も異常なし、オレ様いたって健康」
「それは良かったですね」
「よくあることだから気にしなくてもいいのによぉ」
「慕われてるんですね」
「まぁね」
最後の砦たるナックルジムは未だに挑戦者が現れないらしく、ルーチンさえやってしまえばあとは時間を持てるとのことで、こうして病院にジムリーダーが来ていても問題ないようだった。
「アンタは?どっか悪いの?」
「私もいたって健康なんですが、まぁ色々あって」
「……ふぅん」
興味があるのかないのか、微妙なラインだった、キバナさんの反応は。
それにしても、キバナさん、随分とフランクだ。まるでいくらか時間を共にした友人を相手にしているかのよう。
たったの一度図書館で本当にほんの一瞬の時間を共有しただけで、共有とは言ってもそう表してもいいのかすら疑わしい程の間に、数言かわしただけの私を覚えていて、あまつさえ声なんか掛けて隣で同じように会計を待つため座っているのだから。コミュニケーション能力が馬鹿高いのだろうが、それにしたって距離感が近い。
バトルシーンを除いたメディアなどでは穏やかな態度が散見できたが、人懐っこそうなそれは元々の気性なのだろう。
「ぶいっ、ぶいっ!」
「お〜イーブイ、悪い悪い」
そして何より絶句なのが、またしてもイーブイだった。キバナさんの男の人にしては細長くて形のいい指が、催促を受けておでこを撫でる。
キバナさんの顔を見た瞬間、ピンと耳も尻尾も立てて、イーブイはキバナさんへと飛び込んでいった。当然ながら、目の前で起こった事態に追いつけずに呆ける私がそこには出来上がった。
既視感。またもや、見覚えがある。
「キバナさんもポケモンに好かれやすい性質で……?」
「ん?どうだろなぁ……。ドラゴンタイプのポケモンとは意志疎通得意だけど」
ダンデさんと同じなんだ、と気付いたので訊いてみたのだが、曖昧な言い分。同じ要因ではないのか。
「イーブイ、臆病なんです。人見知りして初対面の人には絶対自分から近寄らないのに」
「……そうなんだ」
「あれかな、この前ボールの中からキバナさんのこと見てたのかな。助けてくれた人ってわかってるのかもしれません」
「そうかもな」
そこで会話が一度途切れ、ちょうど私が会計で呼ばれたのでイーブイを返してもらい支払いを済ませると、同じ席にキバナさんは座ったままだったので、一応挨拶だけして帰ろうと彼の元へ戻る。
「それじゃあ、失礼します。お大事になさってください」
「なぁ、この後時間ある?」
「はぁ?」
どういうことか問う前に、今度はキバナさんが会計で呼ばれてしまい、擦れ違いざまに「待ってて」と言われてしまったものだから、その場から動けなくなってしまった。
イーブイと顔を合わせると、嬉しそうに笑っていた。
◇◇
病院を出て、こっち、と示されるがまま着いて行くと、路地の奥まった場所にある小さなカフェだった。ナックルシティの街並みに溶け込む、レトロな外観である。
「ここ、気に入ってる場所。静かでいい感じだろ?」
「はぁ」
「何食う?奢るから何でも頼んでいいよ」
「え、いいですよそんなの」
「無理矢理ついてこさせたんだから気にするな」
「……じゃあ、アールグレイのミルクティーを。ホットで」
「そんだけ?遠慮しないでいいよ」
「お腹空いてないので」
「オーケー、いいよ、わかった」
荷物を椅子に置いて颯爽と会計に向かうキバナさんの背中を見つめ、またイーブイと顔を合わせる。嬉しそう。尻尾揺れてる。
それにしてもキバナさん、こんな所で油売っていてもいいのだろうか。彼の話を聞く限り業務時間中に抜けて病院に来ていたわけだから、診察も済んだ今、戻らなくてもいいのだろうか。
すぐに飲み物を二つ持ってきたキバナさんに尋ねてみると、大事をとるため直帰していいとのことらしい。尚更、こんな所で油売る必要はないと思うのだが。
「心配してくれてんの?」
器用に片目だけを細めてキバナさんは笑う。これは子供が真似できない顔だ。
「そうです。頭は打ってないですか?」
「ん〜……若干?」
「頭はね、大事にしないといけないんですよ。何かあったら困るのはキバナさんだけではないので、さっさと帰って安静にするべきだと思います」
「……頭が大事、ね」
かろうじて聞き取れた、囁くような、体に似つかわしくない小さな声でキバナさんは呟いた後、私が頼んだものと同じ中身のカップを傾けた。
カップを丁寧にテーブルに戻したキバナさんは、そのままテーブル上で指を組んだ。そして、真っ直ぐに私を見据えた。何かを口にする前振りとして、男らしい喉仏が微かに動く。
キバナさんの起こす音のない所作にいきなり本題か、と座り直す。いくらなんでもほぼ初対面の人間をこうしてお茶に誘うのだから、何かしらあるのだろうとは思っていた。
「……なぁ」
「はい」
「俺のこと、知ってる?」
「……?はい?」
「思いつく限り、言ってみて」
唐突な内容によく理解できずに口を開けられないままいると、ほら、と口先で促されてしまう。
疑問は尽きないが、仕方ないから指折り数えて奇妙な要望に応えることにした。
「……ナックルジムリーダーで、ダンデさんの長年のライバルで、よくテレビとか雑誌とかにも出てて、炎上して」
「炎上は余計だなぁ」
「図書館で見ず知らずの私を助けてくれた、いいひと?」
折って数えていた指から顔をキバナさんに戻すと、彼は頬杖をついて、眉をほんのり下げて、私を見ていた。
その瞬間、あ、と息が詰まる。
嘘だ、と目が伝える認識を頭が拒否する。
どうしてキバナさんが、そんな顔をしているのだ。
窓際でもないこの席に外からの光は当たらないのに。
――あの、秘密めいた、美術館の奥の、こっそり照らされる、絵画。
「……俺さぁ」
口火を切る唇は、厳かな雰囲気を持っていた。
今から暴露するからというよりも、どことない遠慮のような、それでいて一世一代の告白のような緊迫感。
知らず、イーブイを抱く手に力が入る。
「お前のこと、知ってるよ」
心臓がバクバクとする。ダンデさんの時と胸の内の在り方が違うのは、彼がはっきりと断定的な言い方をしたからなのだろう。
「ずっと前から、知ってる。お前が知らなくても、知ってる」
「まって、」
「お前が忘れたお前のこと、知ってる」
「まって!」
強く止めても、組んだ指を解いたキバナさんは頬杖をついて言葉の硬質さとは裏腹にゆったりとした態度のままで、狼狽えている私の制止など何も響いていないことが嫌でもわかった。
やめてほしい、今すぐ黙ってくれ。
空いた穴は埋める必要がない。埋められるようなものがなかったと聞いているから。だから今までそこを気にしてこなかったし、平気でいられたし、特筆すべきような出来事は何もなく、ただ代わり映えない平凡な生活を送っていた筈で。
なのに、キバナさんの言い方だと、それはまるで。
「……しょうこ、証拠、見せてください」
「証拠?」
「そうです。貴方と、私に、何らかの関係があるならば、見せてください」
絶対に外せないことだ。証拠がない話には付き合えない。騙されるわけにはいかない。みんながみんな、善人ではないと知っているから。
「わかった」
なのに。
淀みない返事に、冷静になろうとする頭とは関係なく心臓が逸った。
キバナさんはスマホを鞄から出して電源ボタンを押してから、一つだけ操作する。
「はい」
身構えるよりも早く、さっさと、キバナさんのスマホの画面が私に向けられた。電源ボタンを押して一つ進んだだけだから、多分、ホーム画面。
「……」
瞬き一つすら、忘れてしまった。差し出されたものに釘付けとなって動かせない眼球は、そこに映るそれ以外の情報を全て拒むようにシャットアウトした。
そこに照らされている画面を見た瞬間、また線路が進行方向を変えてしまったように思えた。
線路が、責めるように痛み始める。今日は天気がいいのに。
キバナさんが見せた、これは、まるで。
――これじゃあ、まるで。
「俺とお前、付き合ってた」
そこにあるのは、親しげな様子で寄り添って写る、私と、キバナさん。
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