- ナノ -


(4)濃厚なベイクドチーズケーキ、でも病院やホラーは苦手-2


 六月の初め頃。ダンデさんとチーズケーキを食べに行く約束の日。
 前回から日が大分経って月が変わってしまっているのは、ダンデさんが多忙を極めているせいだ。リーグの委員長に就任してから初めてのジムチャレンジはとっくに始まっているのだが、そんな中でもスイーツめぐりは続けるというのだから、憩いの時間でも欲しいのだろうと思う。

「イーブイそろそろ行くよー?」

 玄関から声を掛けるも、いつもの可愛い返事がない。

「イーブイ?」

 戻ってみると、ソファの上で丸まるイーブイは、まるで拗ねていますと言わんばかりに口を尖らせている。一体何事かと首を傾げつつ、ソファの前でしゃがんで目を合わせようとするが、そっぽを向かれてしまった。
 ぴしゃーん!と雷に打たれたようだった。いつでも私を心配して世話を焼こうとしてくれるイーブイが、拗ねて、あろうことかそっぽを向いて、言うことをきいてくれない。ここまであからさまなのは忘れっぽくなってから確か初めてのことで、情けないことこの上ないくらいに大狼狽えである。

「い、イーブイ……?イーブイさん?どうしたの?」
「……」
「無言はやだなぁ!」

 動揺しまくりである。それでもイーブイは、曲げたへそを戻してはくれない。
 本当に、一体全体どうしてしまったのだろうか。確かにここの所様子がおかしかったのはおかしかったが、こんなに目にハッキリわかる程剥き出しではなかったのに。

「この前からどうしちゃったのさぁ……」

 六月に入る前からだろうか、イーブイがどことなくおかしくなったのは。多分それよりも前からそんな傾向が見られていた気がするが、ポンコツ頭ではあんまりよく覚えていないのが正直なところ。

「もう出ないと待ち合わせに遅れちゃうよぉ。イーブイがいてくれないと不安だなぁ。イーブイがいてくれないと私外歩くの不安だなぁ」

 イーブイの意志とは関係なく抱っこはできるし、ボールに戻してしまえば簡単なことなのだが、こんな様子のイーブイを戻してしまえば後が怖い。これ以上機嫌を損ねるのは得策でないし、大事なイーブイに素気無い扱いはしたくない。
 実際本当にもう出ないと遅刻になりそうで、仕方なく媚びるような声を出すと、ぴくりと微かに垂れている長い耳が揺れた。もう少しだなとその後もゴリゴリに下手に出ると、ようやく億劫そうにだが小さな体が起き上がった。ただし、目は嫌そう。
 出たくないわけではないのだろう、これは。ただ、私に対して何やら思っていることがあるのだ。それに見当がつかない辺りトレーナー失格かもしれないが、何せ原因がわからない頭なので目を瞑って欲しい。
 それ以上は自分から動かないイーブイに声を掛けてから抱っこして、玄関まで向かう。腕の中のイーブイは大人しくしてくれているが、不服そうなのがくっきりと透けている。

「ありがとうイーブイ。いつも助かっております。イーブイがいてくれるから私は生きていけています」
「…………ブイっ」
「今晩はイーブイが大好きなポケモンフーズにしよう。今日はカロリーは無視します」
「!」

 途端に顔を上げて目をキラキラとさせた。栄養満点ただし高カロリーなのでめったに食べさせないフーズは魅力的すぎるのか、若干機嫌が直ったようで安心した。
 まったく、何をそんなに怒っていたのだろう、この子は。


  ◇◇


 今日はエンジンシティなので、一度ナックルシティに出てから列車を使う。降り立ったエンジンシティは今日もかしましい。人も多く、待ち合わせ場所に出向くと同じように待ち合わせをしているだろう人達が多くいた。
 空いているスペースに突っ立っていながら、イーブイの顔色ばかり窺っていた。
 ずっと抱っこしているイーブイの機嫌は低速ながらも上向きにはなってきているが、やはりどことなく不満そうだった。きっと、機嫌を損ねるようなことを私がしたのだろう。だけど、理由が思い当たらない。
 もしかしたら一時的に忘れている記憶の中にそれはあるのかもしれないが、いかんせんすぐには思い出せない。そもそも何がイーブイの中で引っ掛かっているのかがわからないのだから、いくら思い出してもキリがないのだが。
 悶々としている間にダンデさんはやってきた。見慣れない私服なので一瞬わからなかったが、近付いてくるにつれてもしやと気付きだし、目の前までやって来たことでようやくダンデさんだとわかったのだった。
 こんにちは、と出くわす前から何やら言いたそうにしている顔に声を掛けようとして、口を開けた瞬間。

「ブイ!」

 腕の中にいたイーブイが、ぴょんと跳んで行った。

「……」

 呆気に取られて何も反応できず、動揺のあまり口を半開きにしたまま固まってしまった。

「……そ、そんなに怒ってたの?」

 困惑するダンデさんなど露知らぬという顔で、イーブイは逞しい腕の中で厚そうな胸板にすりすりと甘えるように頬ずりをしている。イーブイのこの様子は見覚えがある。確か、ダンデさんに初めて声を掛けられた時だったか。
 それにしても、そんなにすりすりと。貴方オスなのに、私よりも男であるダンデさんの胸の方がいいのか。複雑。

「どうしたんだイーブイ」
「なんか機嫌がよくなくて……」
「ぶいっ、ブイぃ」
「最近そんなでろでろに甘えたな声聞いていないなぁ……」

 こんなに嬉しそうなイーブイ久しく見ていない気がする。懐き度が最高値を叩き出しているのだろうかと思えるほどに、ダンデさんにべたべたしていた。

「ほ、ほらイーブイ、戻っておいで。それで早くチーズケーキのお店に行こう」
「ぶい」
「………」

 しかしイーブイ、素っ気無く鳴いたきり動こうとしない。試しにダンデさんがこちらへ手渡そうとしてくれるものの、シャツの胸元を掴んで一向に放そうとはしなかった。
 ショックを受けて再び石像よろしく固まってしまうが、イーブイはそれでもダンデさんから絶対に離れようとしなかった。

「……ポケモンに懐かれる男、恐ろしいですね」
「……いや……、まぁ」
「しょうがない。埒開かないからこのまま行きましょう」
「えっ」
「イーブイはダンデさんの方がいいんだもんねー?私よりダンデさんの抱っこの方がいいんだもんねー?」
「ぶいっ」

 わざとそんなことを言っても、こうである。それにはさすがにムッとしてしまうのも致し方ないじゃなかろうか。
 これは、ポケモンフーズお預けかな。


  ◇◇


 ベイクドチーズケーキは、それはもう美味しかった。ヨーグルトが入っているようで、濃厚なのに爽やかな味でくどくない、好きな味。食べる前に納めた写真もいい感じに撮れて満足。
 そう、満足の筈なのに。

「カスがついてるぞ」
「ぶい〜」
「……」

 目の前で繰り広げられている光景に目がじとりとしてしまう。彼女が他の男に取られた気分だった。あの子はオスなのだが、そんな馬鹿なことばかり思いついてしまう。
 席に着いてからも相も変わらずダンデさんに抱っこしてもらって、膝の上で楽しげにポケモン用のケーキを彼の手ずから食べさせてもらっているイーブイ。満更でもなさそうに世話を見てくれるダンデさん。
 何故、どうしてだ。

「……いい加減、戻ってきてほしいな、イーブイ」
「……」
「無言……」

 許されるならばフォークをがじがじと噛んでしまいたい。

「イーブイに何かしたのか?」
「特に思い当たる節はないんですが……まぁ、忘れてるだけかもしれませんけど」

 鞄にしまう手帳を読み返しても、特に目を引くようなことは書いていなかった。読んで思い出したここ最近の出来事や様子の中にも、イーブイにこんな態度を取らせてしまうと思えるようなことはなかったように思う。
 いつからだっただろうか、イーブイがおかしくなったのは。最近の筈なのに、上手に思い出して、繋げられない。ここ数日の話ではなくてもう少し遡った時点からおかしいと思っていたような気もするが。
 こんな場面でも線路が痛くて、溜息をつい漏らしてしまった。線路がずきずきだとかじくじくだとか、日によるがとにかく痛むことも頻繁になってきていて、どうにも体がだるい。
 定期健診まではまだ日があるが、一度病院で診てもらった方がいいかもしれない。あんまり、行きたくないけれど。


 イーブイがこんな様子なので、早く帰って休ませてあげて機嫌を取ったほうがいいだろうということになり、次の予定も立てずに食べ終わってそう間を開けずに店を出た。それでもやはりというか、イーブイは私の腕の中へ戻って来ない。
 ダンデさんは駅まで送ってくれるそうで、まだ陽も明るい内で人通りも多い街中を並んで歩くも、私の注意はずっとイーブイに向いたままだった。

「ダンデさん、なんか、すいません」
「俺はかまわないよ」
「どうしちゃったんだろうイーブイ。なんだか、ここの所あんまり機嫌がよくなくて……」

 最近あった大きな出来事はない。いつも通り古書店で働いて、家でゆっくりごろごろして、先月はダンデさんとフルーツタルトを食べた。遠出したこともないし、変わったことは何一つないのに。

「……もしかして、この間の、ことだろうか」
「この間?」
「……君を、怒らせただろう」
「怒った?私が?」

 いつの間にか駅の付近までやって来ていた。パスケースを準備しようと鞄を漁っていると、突然隣のダンデさんが立ち止まってしまい、二歩ほど距離を開けた所で私も立ち止まる。彼は、神妙そうな顔をしていた。

「本当に、忘れてしまったのか」
「何かありましたっけ?」
「メッセージでも、同じ返しだったな」
「……?あっ、記憶の話でしたっけ。そういえば教えたんでしたね」
「本当は今日会って一番にもう一度きちんと謝ろうと思っていたんだが、イーブイのこともあって機会を逃したままだった。本当に、すまなかった」
「別に気にしてないですよ」

 本当にそう思っているので伝えても、ダンデさんの曇った顔は晴れてくれなかった。
 仕方ないなと内心思いつつ、静かに口を開く。言い聞かせるように、子供でもない彼に向けて。

「……ダンデさんって、例えば去年の事、どれくらいはっきりと覚えていますか?去年だけじゃなくて、もっと前の事も」
「どういう、ことだ?」
「記憶力がいい人なら色々と覚えているんだろうけど、そうでないならば、昔のことなんてほとんど忘れちゃうものなんですよ。一年前のこと、正確に覚えたままの人が、一体どれくらいいるんでしょうか。一日一日の、どれくらいを。二年前は?三年前。四年前。遡るにつれて、健常者でも忘れてしまう。大きな出来事なら別です。旅行に行った。有名人に会った。何かのイベントに参加した。結婚した。何か大きな出来事や転機がない、いつもと変わらない日常だけ過ごしていれば、特に覚えていることもない筈です」

 友人たちだって、そこまで正確に私がなくした一年のことを覚えていたわけではない。常に一緒にいたわけではないし、その人それぞれに記憶に残っている会話や出来事はあったけれど、意識しなければ既に終わっている変わらない日常の些細な出来事を覚えられる人は、あまりいない。
 忘れてしまったことを申し訳ないとは感じていた。覚えていないと言うと、友人たちは一様に悲しそうにした。だけど、口にはしなかったが、それは私の事を大袈裟に見ているからだ。
 意識していなければ、日常の会話など忘れてしまうことも多い。私が階段から落っこちて記憶に穴を空けなければ、なんで忘れてんのさ、と本来ならば笑い話で済んだ筈で。

「だから、抜けた記憶のことは、そんなに気にしていないです。問題なのは忘れっぽくなった方。確かに詐欺の被害に遭いそうにはなったけれど、今はもう落ち着いています。ダンデさんが何を思ってあの時あんなこと言ったのかはわかりませんが、そんなものなんですよ、私」

 何度も言うが、記憶が抜けたことが問題なのではない。薄くなった記憶力が問題なのだ。それも、階段から落ちて頭を打って記憶が抜けた影響である、という認識を持たれているから。だから皆がそういう目で見て、そういう考えを持ち、たださえ調子が噛み合わなければ少なからず鬱陶しさを感じるし疲れてしまうのに、前提として私の事を病人のように思っているから、余計に疲れていったのだ。
 私は別に、自分を病人とは思っていないのに。
 もちろん仕事に関してポンコツ頭のせいで支障をきたすこともあるが、今は話が別なので横に置いておこう。

「だから、気にしないでください。それよりほら、イーブイ、帰ろう」

 結局曇ったままのダンデさんから目を外してイーブイを見ると、一変、何やら悲しそうにしていた。
 どうしてイーブイ、そんな顔をするの。貴方、それ、今日だけじゃないでしょう。確か昨日も、一昨日も、そんな顔していた。もっと前にも同じだったかもしれないが、そこは忘れてしまった。

 もしかしてと、なんとなくそうかもしれないと、たった今唐突に浮かんだ理由があった。イーブイが大抵こういう顔をするようになった、様子がおかしくなった、発端。私の変わらなかった毎日に起きている、些細な変化。
 でも、馬鹿らしいとも思う。それはどうせ私の思い過ごしで、自意識過剰だ。

 だって本人が、あの時、すまないと言ったのだから。

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