ラブホのライター

※雰囲気暗め
※軽度浮気描写有

すすきのに20時。地上の星がちかちかと光る。
 席で煙草を吸えるその店は、ヘビースモーカーである霧崎の学生時代からのお気に入りだった。
 活気の溢れる人々の声をくぐり抜けて奥の席へ行くと、霧崎はすでにそこにいた。右手にはキャメル、左手には冷えたビールのジョッキ。ビールはすでに、半分ほどなくなっていた。

「久しぶり」
「おう、先に飲んでたよ」
「うん」

 向かい合わせに席に着き、ビールと枝豆を注文する。煙草は吸わない。昔は霧崎に付き合って何本か吸ったことがあったが、旨いと感じたことは一度もなかった。きっとこれからもないと思う。

「なんか頼んだ?」
「さっき手羽先とキャベツ頼んだ」
「そっか」

 時間が生んだのだろうぎこちなさに、少し居心地が悪くなった。妙な緊張感を飲み込むようにビールを煽る。

 五年前のあのとき、別れを切り出したのは霧崎のほうだった。遠距離になりたくないからとお互い地元の北海道で就職を決めた、その矢先のことだった。

浮気をしたから別れて欲しい。寂しかった。もっと大切にされたかった。

自分勝手な霧崎の言葉に心底失望して、俺は別れ話をすぐに了承した。霧崎は、俺から逃げるように内定を蹴り、母親の地元である宮城で就職した。そのときは、もう霧崎とは二度と会わないだろうと思っていた。
けれど、こうして霧崎は北海道に戻ってきて、そして、俺はそんな霧崎の誘いに乗ってここまで来ていた。

「どうして帰ってきたの?」

 優しく尋ねようとしたが、どうしてか棘のある言い方になってしまった。俺にはまだあのときの感情が残っているのだと思って、少し恐ろしかった。

「別に、単なる帰省だよ。すぐ戻る」

 単なる帰省であるというのが真実であったとして、どうして『元カレ』の俺に会おうと思ったのか尋ねようとしたが、なんだか怖くなって、やめた。
霧崎は、俺の顔を一度も見ることなく、新しい煙草にライターで火をつけた。真っ黒なそのライターには、ファンシーなフォントで、『Hotel cream pie』という白い文字が刻まれていた。

「ライター」
「ん?」
「ラブホの?」

 何となくざわつく胸を抑えながら、呟くように尋ねる。霧崎は、ライターを自分の目の前で軽く振り、納得したように頷いてから、

「なんか悪いの?」

 と、少し不機嫌そうに言った。

「別に悪くはないけど、気になっただけ。相手がいるの?」
「相手がいなきゃ、こんなとこ行ったりしねえよ」
「決まった相手?」
「どうだっていいだろ」

 霧崎は、突き放すようにそう返した。
 確かに、俺にとってそれは、どうだっていいことなのかもしれない。もう、あの頃には戻れないのだ。霧崎の青い車の中で星を見ながらキスをしたことも、初めて裸を見せ合ってぎこちなく体を重ねたことも、すべては思い出の中の話でしかない。あるいは、霧崎はそんなことを覚えていないかもしれない。
 机の上に放り出された、黒いライターをじっと見る。霧崎の髪に鼻を近づけたときの、あの薫りの幻が鼻を擽る。

あのとき俺が霧崎を許していたら、どうなっていたのだろうか?

そんな気持ちが、勝手に胸を泳ぐ。
裸のままソファに座り、だらしなく煙草を吸う霧崎の姿が、煙草くさいキスの味が、温かい皮膚の感触が、まだ記憶として残っている。
時間は何も解決してくれなかった。
それどころか、俺にとって不都合な感情はずっと胸の中で、いじけたように蹲っていた。



 22時。オレンジ色の薄暗い光だけが、ベッドを優しく照らしている。
学生時代はかけていなかった眼鏡をベッドヘッドに預けて、俺は浅い呼吸を繰り返す霧崎を抱き締めていた。
 こうなるつもりではなかった。けれど、こうなってしまったのは事実だった。自分勝手な衝動だ。愛がいつも尊いものであるとは限らない。

「霧崎」

 霧崎は、あの頃よりも太っていた。五年の重みを少し感じた。俺も、そして霧崎も、その間にお互いの知らない誰かを抱いて、重ならない過去を作った。
けれど、その空白の間も俺は、忘れられなかったのだ。自分勝手なわがままだけれど、霧崎もそうであって欲しいと思った。
背中から腕を這わせて、霧崎の黒い髪を手のひらで撫でる。愛おしい気持ちが、こんなにも苦しいとは思わなかった。

「……雄馬、もうやめて」

 掠れたような声で、霧崎は俺の体を拒んだ。

「どうして」
「だって」
「なに?」
「また好きになっちゃうよ」

都合のいい解釈しかできない。

「好きになってもいいよ」
「ずるいこと言うなよ」
「俺、霧崎のこと、まだ好きだよ」

視線の端にライターが映る。クリアなピンク色のそのライターには、黒い蝶々がプリントされていた。霧崎の過去を、ライターで炙ってしまいたくなった。引き起こしたくなかった感情が、俺の胸をじっくりと、丁寧に引き裂いていた。

「俺以外の誰ともセックスして欲しくない」

 俺が言うと、霧崎は泣きそうな顔で俺を見つめた。自分がどれだけ勝手なことを言っているのかは分かっていた。

「そういうのさ、する前に言って欲しかった」
「ごめん」
「酒、入れる前に言って欲しかった」
「ごめん」
「あのとき、言って欲しかった……」

肩を震わせながら、弱々しく霧崎は言った。
誰が悪いとかずるいとか間違っているとか、そういうものはもうどうでもよかった。二十七歳になったというのに俺たちは、あの頃からずっと変わらない、未熟で弱くて不器用な子供のままだった。

「俺も、ずっと好きだった。雄馬のこと忘れられなかった」

 霧崎を苦しめた怪物を、俺は愛おしく思った。自分勝手な感情だった。

「顔を見たら諦められると思ったのに、ダメだった」
「うん」
「もう浮気なんてしないから、もういちどやり直したい……」

 そう言って、霧崎は俺の肩に顔を埋めた。激しく高鳴る霧崎の鼓動に、緊張もしたし、安心もした。

「俺も同じ気持ちだよ」

 霧崎の髪に鼻を寄せる。
懐かしい煙草の匂いがした。




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