メビウスの指輪・6 5





その建物が瞳の中で、ゆっくりと大きくなっていく。
その大きさに比例しているかのように、蒼衣の心の奥にじわじわと広がる、何か。
「蒼衣?」
近付くにつれて重くなる足に、ついに蒼衣は立ち止まってしまった。
…………何だろう。
何故だか分からない。だけど私は、これ以上進むなと言っている。
「疲れたのかい?」
不安そうに覗き込んだココの瞳に、蒼衣は心配させまいと、そうみたい、と小さく笑った。
どくん。どくん。どくん。
鼓動が別の生き物のように体を駆け巡り、蒼衣の喉がごくりと鳴った。
ココはそんな蒼衣を、そっと抱きかかえた。
「ココさん?!…え?!」
突然ふわりと持ち上げられた蒼衣は、自身の状況が分かると同時に赤面した。
「お、降ろして?!ちゃんと歩けるから!」
「何故?遠慮なんか要らないよ?」
それまで傍観していたサニーが、ちらとココの右足を見て尋ねた。
「足は平気なのか?ココ?」
「蒼衣がもう少し密着してくれればふらつかないよ」
ココの言葉に、足をばたつかせていた蒼衣は慌ててココの首に縋り付いた。そんな蒼衣に満足そうに目を細めるココ。
「ね、せっかくだから、帰りもこうして帰ろうね?」
そう微笑みかけて、返答に支えた蒼衣を抱えたまま建物へと進んだ。
蒼衣は暫く周囲の景色に目を泳がせていたが、ココの嬉しそうな口元が目に映り、観念した。頬に額を寄せ、目を伏せる。
心の中からは未だに『行ってはいけない』と言う声が消えない。だが、蒼衣は無理にそれを封じ込めた。不自由な足で歩いてきたココに向かって、目的地を目前として今更戻りたいとは言えなかった。
…大丈夫。だって、ココさんが一緒だから。
額に触れるココの存在。蒼衣はそのぬくもりと自身の言葉を胸の内で何度も何度も繰り返し確かめた。


建物に入ってまず出迎えたのは助手の男一人だった。サニーの電話で急遽用意したであろうアイスコーヒー。それが一番手前のテーブルの中央にまとめて置かれていた。
「いつも蒼衣がお世話になっています」
ココは助手に丁寧に頭を下げた。蒼衣もココの隣でペコリと頭を下げる。助手はそんな二人と無言でコーヒーを飲み始めたサニーに動揺しつつ、たどたどしく挨拶を返した。
入り口に到着した時、流石に恥ずかしいと蒼衣はココに訴え、降ろしてもらっていた。
ココの後に続くように足を踏み入れた蒼衣は、まず室内をぐるりと見回した。
特に異様さを感じられない、どこにでもあるような空間。今朝検査を受けた場所も似たような造りだった。
自身から沸き起こる感情に戸惑っていた蒼衣は、ココと助手の会話をぼんやりと受け流していた。
どうして私はここに来てはいけないと思うのだろう?私の中には今も、ここから早く出たいと思う自分がいる。私の治療をしてくれている人達、体調を気にかけてくれる人達がいる場所なのに。
どうかしてる、と自嘲気味にくすっと笑った蒼衣は、奥から出てきた人物の顔を見た瞬間、凍りついた。
「お久しぶりですね、ココ様。お元気そうで何よりです」
小さく薄いノートパソコンを片手に現れたのは、βだ。ココはβの顔を無言で見詰め、一拍置いた後、口を開いた。
「……貴方も元気そうで何よりです」
「最後に会った時は…そう、前任者のサポートをしていました」
βはそう言って目を細めた。
「今は彼の後任として、全てを任されております」
「頼もしい限りですね。ところで、それは?」
ココは、βが持っている物に視線を向けた。βはあぁ、と持ち上げて見せた。
「せっかくですからチェッカーの検証データでもご覧になってはいかがかと、これに移して来たのですよ」
「それは楽しみだ」
「レも見る。見せてもらう。ダメか?」
サニーが口を挟んだ。
「勿論、見て頂いて結構ですよ」
βはそう答えると、サニーの待つテーブルに向かった。


建物の入り口を出たところで、蒼衣は大きく息を吐いた。
建物入り口の段差に腰掛け、蒼衣は両の手のひらで顔をゆるゆると撫でた。
βの姿を見た蒼衣の心臓が、壊れてしまいそうな速さで打った。全身に冷や汗をかき、呼吸が乱れるのを必死で取り繕って、蒼衣はココに言った。ちょっと寒い、と。
「…そう言われれば、この中随分涼しいね」
そう言って心配するココと何か羽織る物でもと言いかけたサニーの言葉を遮って、蒼衣は外でのんびり陽に当たっている、と言って一人建物から出て来た。
暫く意識的に深い呼吸を繰り返した蒼衣。建物から出たばかりの指先は小刻みに震えていたが、今はそれも収まった。血の気を失った顔にも、僅かな頬の赤みと安堵の表情が戻っている。
良かった。と蒼衣は思った。
全身から得体の知れない恐怖を感じた。βという人物に。
この場所に来たくなかったのではなく、その人物に会う事を拒否していたのだ、と蒼衣は思った。
だがその理由が、蒼衣には全く分からなかった。だってβさんは、私の欠陥を研究してくれている人。感謝こそすれ、恐怖や嫌悪を抱く理由など無い。
恐怖……?
そういえば、と蒼衣は昨日の事を思い出した。
何か、夢を見たような気がする。どんな夢だったろう?とても恐ろしかったような……
暫く思案していたが、その先が蒼衣にはどうしても思い出せなかった。本来、夢とはそう言う物だから仕方ない、と顔を上げた蒼衣の眼に、草原に混じる白い物が映った。
(あれは……?)
蒼衣は立ち上がった。


「ちょっと失礼」
ココはそう言うと、ディスプレイから目を離した。
「何か、質問でも?」
βの言葉に、ココはいや、と断った。
「喉が渇く頃かと思ってね」
そう言って手をつけていないアイスコーヒーを片手に立ち上がるココ。
ストロー取ってくれないか、と照れた面持ちで頼むココをサニーは冷ややかに一瞥した。
「んとにマメだし。つか行ってこい」
ディスプレイの中のグラフや数字の羅列。その説明を受けていて一時間ほど経っただろうか。
蒼衣の事だ。気を遣ってずっと外で待っているのかもしれない。だとしたら悪かったな。
そんな事を考えつつ、ココが出て行った扉を眺めていたサニーの目に、血相を変えたココの姿が飛び込んで来た。
「蒼衣がいない」
「は?」
サニーは立ち上がった。
「帰ったのか?」
「断りも無く帰るような子じゃない」
「じゃ、どこに?」
ココは首を横に振ると、蒼衣を探すと言って扉の外に消えた。
「悪ぃ。レも行く。…邪魔したし」
「見つかると良いですが……本物が」
「ジョークにもなんねーぞ」
サニーはβを睨みつけた。
「お帰り前に、最新の情報を貴方に」
βはパソコンの操作をしつつ話し出した。
「最新のデータの分析結果です。つい先ほどの数値です。同じ物を検知しました」
「同じ?」
「昨日、容態が急変した時の数値と」
サニーは目を見開いた。
「……悪い夢でも見たと言ったよな」
βは静かに頷いた。
「はい。異常値から推定して、恐らくは『恐怖』が起因です」
「この場所で、何に恐怖した?!」
「分かりません。これから調べます。…次の個体のためにも」
サニーは無言で頷き、入り口に向かった。
その背後から、そしてもう一つ、とβは声を掛けた。
「トリコ様がご不在なので」
「いたら怖くて話せないのかよ?」
振り向きもせず鼻で笑ったサニーに、感情の無い目でβは答えた。
「日記です」
「日記?」
「『さようなら』と一言」
サニーの肩がピクリと震えた。βはそんなサニーに向かって小さな声で言った。
「何が『さようなら』なのか、ご存知ですか?」
サニーはβの顔を見なかった。
「物語に合わない言葉。…代わりに捨てました」
「……リコには言うな」
サニーは低い声で吐き捨てると、そのまま振り向かずにココを追って研究所を後にした。





to be Continued.







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