「言い忘れていました」 トリコが記憶の話に移ろうとした時、βはそう切り出すと、二人に向かって深々と頭を下げた。 「先日の出資、感謝しております」 だが、垂れた頭についている目は、言葉ほど感謝をしていない光を湛えていた。 「その言葉は、足りていると取って良いのかよ?」 サニーが聞いた。 βは、臆面もなく首を横に振った。 トリコはそんな男の様子には触れなかった。正直、早く用件を済ませ、この男との会話を終わらせたかった。 「なら、金額に見合った回答を聞こうか」 新たに助手が持って来た資料を見つつ、トリコは言い放った。 「正直オレには、精度が上がっているとは思えない」 「今回は特にだし」 サニーが付け足した。 「まずココの事を思い出せなかった」 βは、ふぅ、と溜め息をついた。 「申し訳ございません」 淡々とした口調で飾ったように謝罪するβを、トリコは黙って一瞥した。 「原因は、既に分かっているのですが」 思わぬβの言葉に、二人は顔を上げた。どちらともなく、ごくり、と喉が鳴る。 「何だ」 「問題は、記憶の『抽出』でも『転送』でもない。転送先の個体へかけている負荷が大きな原因です」 「どういうことだ?」 「最大のネックは。つまり、個体の成長速度です」 βは二人に、提示したファイルを見るように促した。 「今の個体は、ギリギリまでポッドの速度を上げて急成長させたものを、通常の時間軸に戻して覚醒させている、と言う事はご存知ですね?」 二人は黙って頷いた。 「急成長の期間には、生まれた時からの記憶と、自我や人間としての生活に必要な知識等がハイスピードで『転送』されています。 そこから、成長を通常の時間軸に戻して行く過程。その間、『転送』も同じように速度を下げています。 記憶が曖昧になっている部分は、常にごく最近の記憶…つまり、通常の時間軸まで、速度を下げながら『転送』した部分です」 「意味が分かんねーし」 サニーが呟いた。 「早いのが大丈夫で、何故遅くなった方が上手くいかないんだし?普通逆だし?!」 「それは素人の考えです」 サニーの言葉に、βはクックッと笑った。 「仮に100の力で今まで受け止めていた物を、急に1しか受け止めなくて良くなったら?」 「……軽いと思うな」 βの問いに、トリコが答えた。 「そうです。つまり、余裕が生じるんです。この場合は身体ではない。『脳』に、です」 βは自分の頭を指でつついた。 「今までの詰め込みが急にゆっくりになった事で、脳が考える余裕を持つのです。『考える』とは、即ち『疑う』です」 「疑う……」 「ええ」 男は、二人に淡々と話した。 「脳が『真実か』と疑問に思ってしまったら。我々にはどうする事も出来ません。それが『曖昧』または『抜け落ちる』記憶になっています」 βの出した回答に、二人は言葉を失った。 沈黙が訪れた。 「そういえば」 トリコが沈黙を破った。 「消すのはあっという間に完成してなかったか?」 「しかも完璧、って聞いたし」 二人の問いに、βは眉を上げ、あぁ、と頷いた。 「『消去』は意外に簡単なんです。人は忘れたい事が多いですからね」 βは肩をすくめてみせた。 「それに、そっちに関しては資金も足りていましてね」 「……どういう意味だ?」 βはニヤリと笑った。 「つまりは。実用化の要望は以前にも在ったと言う事です」 トリコとサニーは顔を合わせた。 「他に出資者がいるのか?!」 「それは黙秘とでも言いましょうか」 「まさか、何か別の研究も抱えているのか?」 「ですから、それも黙秘です」 二人の問いに対する男の言葉は、暗に肯定を指していた。 「言い方を変えよう。『抽出』と『転送』には足りていないんだな?」 「残念な事に、こちらは公の研究にすらされていませんから」 βは、絡みつくような視線でトリコを見た。トリコはその目と発せられた言葉に胸を撫で下ろした。 「なら話は簡単だ。資金は増やそう」 トリコの言葉に、サニーも頷いた。βの目が大きく開かれる。 「その代わりオレ達の研究に専念しろ。そして」 トリコは言い淀んだ。 「絶対に外部には漏らすな」 「随分簡単に言いますね」 「それだけの金額は出すつもりだ」 トリコは手元の資料を裏返して、流暢な筆使いでそれに数字を書いた。 「リコ。それじゃ報酬が入ってないし」 トリコの書いた文字を見てそう言ったサニーは、トリコの指からペンを抜くと、その下に更に付け足した。 そして男に向かってその紙を差し出した。 「さっきリコが言った事、もう一度言った方が良いか?」 「……分かりました」 βはその数字を見て、満足げな表情で頭を下げた。 to be Continued. ← |