小説 | ナノ

 目の周りに出来ていた斑点が、まともな食事を取ると消えた。どうやらそれは栄養失調のサインだったようだ。公子は鏡の前で念入りに顔をチェックし、あらためてすっぴんの顔を見ると小さくため息をついて家を出た。
(マツエクしてりゃよかったな)
 家を出るとすぐにゴミ袋を持った兄が追いかけてきた。
「公子、これ休み時間にでも食べて」
「……ありがと」
 結局兄とは話す時間を作れなかった。花京院のことについても弁明したかったが、今はそれどころではない。
(兄さんも、家を出たほうがいいんじゃないかな)
 しかしそれは兄が決めることだ。それにもしかしたら、自分が家を出れば負い目のない兄も自由にこれからを選択できるかもしれない。
(学校辞めようかな。学費ってどうなってんだろ)
「おーい公子。どうした、顔。彼氏がすっぴんカワイイっつってたからメイクやめたんか?」
「親にコスメ全部捨てられた」
「マジかよ、すげぇなお前んトコ!」
「てか彼氏って……」
「花京院」
「ちげー。断ったし」
「マジか!」
「マジだ!」
 こんなことは友人には相談できない。
(そもそも家を出てどうすんだ?住み込みのバイトなんて見つかるの?生活はしていけるの?そのままずるずると非正規の仕事を続けるの?)
 進路については、漠然と三流大学に通って青春を貪ることくらいしか考えていなかったが、このままでは大学の進学費用どころか高校の学費すら払ってくれるのか怪しいものだ。

 教室内に入るとクラスメイトがこちらを一斉に見た後、一斉に目を逸らした。
(分かりやすっ)
 一部女子からは怨念の篭った眼で見られていたがあまり気にせず教科書を机の中にしまった。その教科書の間には、無料求人情報誌が挟まっている。今朝コンビニに立ち寄ってもらってきたのだ。もちろん授業中に読む。
(時給っつわれてもよくわかんないな。大体生活費って月にどのくらいいるんだろ)
 まず家賃の相場がよく分からない。そして食費、光熱費、通信費以外に必要なものというのが何なのかも見当が付かない。
(時給千円で暮らしていけるのかな)
 赤ペンで気になる求人に丸をつける姿を、花京院が横目に見つめていた。

 昼休みのチャイムに憂鬱にならないのは久しぶりだ。何せ今日は兄から貰った昼食がある。ただし、
「一緒にご飯食べよっか」
花京院からのこの誘いがなければ。
「えーと……」
「いってきなよぉ、公子ー」
(こいつら……)
「見て、主人さん」
 花京院の手には弁当箱が二つ。周囲は不思議そうにソレを見ていたが、公子にはその意味が腹が痛むくらいに分かった。
(しかしこれでは私は本当に犬になってしまうっ。完全に餌付けされているっ。い、いや、しかし……)
 しかしこの小さなジャムパン一つで、しかも次の配給がいつになるかも分からない状態で、断ることなど出来なかったのである。
「あそこで食べようか」
「あそこ?」
「昨日の」
「……教室でいいじゃん」
「いいの?」
 このパターンは何だかまずい気がする。何を話すつもりか知らないが、今度はついていけと本能が指示する。花京院の言葉に反発していて今までロクな目にあっていないのだ。それに教室で食事するのも針のむしろなことに変わりはない。
 公子は素直に図書室横倉庫へ向かった。

「今度は何を要求するつもり……?」
「やだなぁ、そう構えないでよ。僕の持って来たお弁当を君が食べてたら皆がまた騒がしいだろ」
「ああ」
 そういうことか。下手に勘ぐりすぎた自分が何だか少し恥ずかしく思えた。
「お茶も自由に飲んでね」
「ありがとう……本当に。お母さんにもお礼言っておいて」
 炊き込みご飯のおにぎり、長ネギとジャガイモと鶏肉のこっくり煮、たまねぎのマリネ、飾り切りされたウィンナー……どれもこれもから、家庭の食卓というのが浮かび上がった。
 まだ公子の分の食事が出ていたときでも、公子は家庭の食卓を家で感じることはなかった。確かに出てくる料理は美味かったが、それは全てデパ地下の惣菜であるからだ。プロが作ったそこそこのお値段の料理が不味いわけはない。だが、どれもこれもおふくろの味ではない、シェフの味だった。こういったいかにも手作りといったものを食べたのは、いつぶりだろうか。
「美味しい」
「ありがとう。よかったら今度ウチに食べにおいで」
「それはさすがに恥ずかしい」
「なんでさ」
「あのさぁ……私って完全に乞食だよね」
「合ってるかもしれないけどその言い方はダメだよ。僕達まだ学生だよ、親からお金が出てこなかったらどうしようもないのは当然だよ」
「いや、それを他人の家に出してもらうってのがね、もうね」
「それはつまり、僕たちが家族になれば解決ってこと?」
「全然違う」
「フラグ折るの早すぎ」
「いやな予感しかしない」
「いや、本当に。僕が十八になったら結婚しようか」
「昨日振られた相手に何故言う」
 二つの弁当箱は空になり、花京院は大きめのサイズの水筒からお茶を注いだ。蓋がカップになっているタイプで、公子の分は小さめの紙コップが用意されている。
「お手、じゃなくて、今日は、指!」
「指?」
「両手の人差し指、机の上に乗せてみて」
 弁当を貰った手前断るわけには行かず、何のつもりかは知らないが言われたとおりにする。まぁ、指を出すくらいなら別に構わない。
 花京院はそこになみなみお茶を注いだカップを乗せる。もしも今公子がしゃっくりをしたらひっくり返ってしまうのではないかという危ういバランスだ。
「何これ」
「こぼさないようにしないとね?」
 コースターにでもなれというのだろうかと思ったが、花京院が欲しいのが指ではないことにスグに気づいた。そう、今公子は微動だに出来ない状態だ。手はもちろん、足をばたつかせてもお茶がこぼれてしまう。
 この状況でキスをしようとする花京院を避ける術などなかった。指の上のカップは、自力でどかすことは絶対に出来ない。
 くちくちと唾液が立てる音がうるさい。卑猥にも聞こえるその音に思わず身震いしそうになるのを懸命にこらえる。震えては、お茶がこぼれる。
(そう、お茶が……こぼれちゃうから……我慢しなきゃ)
 それが言い訳であることは、すぐに思い知る。キスをしながら花京院がカップを机の上にどかした。これでもう、両手は自由だ。突き飛ばすもよし、平手をくらわせるもよし。
 だが、どちらも出来なかった。キスのせいで力が抜けきっているし、なによりも、昨日の花京院の言葉通りに公子は優しいキスが物足りないと感じ始めているのだ。
「抵抗しないの?」
 それを見透かした上でクスっと笑う。意地の悪い、けれども優しい笑み。公子は呼吸を荒げ、無言で目をとろりと溶かす表情で返事をした。
「……ん」
「じゃあ今度は、薬指出して。もちろん、左手の」
 言われるがままに、差し出す。まるで献上するように。
「予約」
 今は指輪を買えるような収入はないけれど。八方塞がりなこの状況を打開できる策もないけれど。何より、結婚できる年齢ではないけれど。でも、
「必ず君を幸せにする。大学に入ったら狭いかもしれないけど部屋を借りて、僕はバイトをしながら勉強する。君がその間部屋を掃除して、食事を用意して、少しだけ働いて、卒業したらLDKがつくような部屋に引っ越すんだ」
「……私みたいなグズなんか相手にしなきゃ、バイトなんてせずに好きなこと勉強できるよ。部屋だって一人で使ったほうが広いよ。あんな狂った家で育った私がマトモな家庭なんて築けるはずないよ。あんな美味しいお弁当作れないよ。私達、住む世界が違うよ、決定的に」
「そんなもの、いくらでも越えるよ。世界地図にどれだけ国境があっても、鳥は軽々と越えていくだろう。君は、自由なんだから。それでも君の言う“普通”の世界に来ることが怖いなら、僕がそっちに行く」
「地獄へ通じる階段でも?」
「下ってみせるよ」
 本当に、この男ならば地獄のそこまで降りてくるのだろう。地獄ではないが、学校の底辺である公子のところにやってくるために、耳に傷をつけるように。その程度のことは、花京院には苦労でも苦痛でもないのだから。

*END*


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