小説 | ナノ

 桜の頃、町で彼を見かけたことがある。舞う花弁と似た色の髪の毛が綺麗だなぁと、ぼんやり彼の前髪を見つめていた。
 何かの拍子にこちらを振り向いたときの、あの整った容貌と物憂げな目線に、公子は一瞬で心を囚われた。
 だがそれは一目惚れだなんて甘いものじゃない。恋なんて酸っぱいものでもない。一番近い言葉が何か探れば、頭の中に湧いて出たのは信仰だった。
 美しい偶像の前で熱心に祈りを捧げるような、熱くも叶わない幻のような感情。彼にまた会いたい、名前を彼の口から聞きたい。本当に、それだけだった。
 だが信仰と違うのは、そんなささやかな願いが叶ってしまったところだ。
「花京院典明です。よろしくお願いします」
 目と口を思い切り開いたままの表情で固まっている公子の横を通り過ぎ、花京院は後ろの席に着いた。ここで自分の隣に……なんて都合のいいことは起きず、それでも同じクラスに転入してきたという奇跡に感謝して、公子は高校二年生の生活を送ることになった。

「じゃっ、花京院くんの歓迎会も兼ねて二年四組でぱーっと遊びに行こうか!」
 新しいクラスには活発的な性格の子が数人いるようで、何かあれば皆で騒ごうとイベントを企画していってくれるそうだ。幹事向きの性格ではない公子はそういったことを率先して行ってくれる人間に感謝するし、場を盛り下げないために極力参加していくようにしようと思った。
 が、本当の目的はもちろん花京院だ。どうやら今日はカラオケに行くらしいが、一緒の部屋に当たればいいなとは思いつつ隣に座りたいとまでは思わない。むしろ向かいの方が顔をよく見れていいのではないか。
 そう、公子は花京院に恋をしているわけではない。憧れているだけだ。だから、彼を知りたいとは思っても自分を知ってほしいなんて考えは一ミリも持ち合わせていなかった。そんな消極的態度では。彼に本当に恋をした他の少女たちから大きく後れを取ることになるとは分かっている。しかしそれでもいい。いい人が出来るのならば祝福すればいいだけなのだから。
「ねぇ花京院くん。前の学校の方が授業進んでたんでしょ。ちょっと分からないところ教えてほしいの」
「昨日家族とお菓子作りしてたんだけど、よかったら一つどう?甘いもの平気?」
「ねー、花京院ってばどういう女の子がタイプ?積極的なのはキライ?ねぇ……」
(うわぁ、皆すごいなぁ)
 公子は休み時間ごとに人だかりをつくっている花京院の席を、遠くからぼんやりと見るだけだった。他の女子のスカートの間にちらりと見える花京院の横顔。誰にでも優しく、分け隔てなく接するその姿に、公子が抱く感情はやはり憧憬だった。決して恋慕ではない。

 皆花京院と親しくなりたいと彼に近づくので、唯一図書室だけが花京院が一人になれる場所だった。なにせここは私語厳禁。黙って本を読むだけなので親睦を深めるには不向きな場所なのだ。
 前々から本が好きで図書委員でもある公子がここに入り浸っていても不自然ではない。しかし花京院が来るようになって、滞在時間がやや長くなったような気がする。
 今日は花京院はまだ来ていないようで、一人テーブルの上の枯れた花を新しいものと交換していた。
「綺麗な色だね」
 すべてのテーブルの掃除を終えたところで背後から声をかけられ、肩を跳ね上げて慌てて振り向いた。
 この声を公子が聞き間違えるハズなどない。他の同級生より低めの、しかし威圧感を感じない落ち着いた声色。花京院典明だ。
「公子ちゃんが持ってきてくれてるの?」
「ううん。園芸部の人が育てたやつ」
「なるほど。温室が近くにあったよね。公子ちゃん、花好きなの?」
「うーん、好きは好きだけど全然詳しくないというか。これも何の花なのかよくわかってないし」
 花瓶の中で咲く花は幾重にも花弁を重ねた薔薇のような形状で、色は黄色や白やピンクといった明るい様々な色をしている。
「これはラナンキュラス。花言葉は『とても魅力的』だね」
「詳しいんだね。自分の名前に花が入ってるからとか?」
 口に出して少し後悔した。なんだかオッサンが言うようなつまらないことを言ってしまったのではないかと思ったからだ。
「そうそう。それにやっぱりきれいなものが嫌いな人なんていないしね」
 だがそんな心配も吹き飛ばすように明るく返事をしてくれる。花びらに触れる仕草に高貴さすら感じる。やはり花京院は、高嶺の『花』。自分ごときが隣に並んでいい人物ではないのだ。
 近づけば近づくほど遠くに感じる。それでも彼を思わずにいられない。しかしこれは、恋ではない。


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