Hell of scenery

 タクシーで、家まで帰った。まだ、松葉杖は、使わないといけないから、結構めんどくさい。タクシーを降りるとき、その人は、俺を支えながら隣を、歩いていた。シャンプーの、匂いがした。



「……ごめんね、また、私……すぐお仕事いかなきゃ」



 その人は、部屋に入るなり着替えを始めた。俺は、ぼんやりと、その背中を見つめていた。白いシャツを脱げば、その下は、下着。体に、いくつかの、痣。長袖のシャツで隠れていた、手首の切り傷。カーテンから漏れてくる、炎のような紅い光が、その人を、照らす。薄暗く、汚い部屋の中で、紅く照らされた、その人だけが、眩しい。

 その人の体を再び覆ったのは、露出の激しい服。その上に、トレンチコートを着たその人は、まさに夜の装い。ああ、また、体を売ってくるんだ、当たり前のようにそれを察した。



「……ねえ」

「えっ……?」



 でも、そうやって、体を売っているのは。俺のためだと……あの時、男は言っていた。俺は、それを、信じきれなかった。



「……なんで、そこまでして俺を育ているんだよ」

「な、なんでって……涙は、私のこどもだもの」

「……なんで産んだの?」

「え、な、なんでって……」



 彼女は、戸惑う。ああ、質問を間違えたかもしれない。俺は、別に彼女の口から、「男にレイプされて捨てられたから、仕方なく産んだ」と聞きたいわけじゃなくて。



「……堕ろせばよかったじゃん。俺が産まれて、誰が幸せになったの?」



 これを、聞きたかった。

 こんなになってまで、お金を稼いで。俺とも、ほとんど顔を合わせないで。この人にとって、俺を育てることのメリットはなんだろう。

 思ったことを、そのまま聞いてみれば。彼女は、愕然と、目を見開いた。そして、その瞳から、ぼろぼろと大粒の涙を流しだす。



「……私は……涙が、大きくなってくれるのが、嬉しくて……」

「……?」

「涙が、幸せになってくれるなら、私は嬉しかった……けど、……」

「俺、幸せなんかじゃないけど」

「……ごめんね……ごめんね、涙に、そんなことを言わせて……ごめん……」



 知らないんだろう。俺が、自分のせいでいじめられていたことなんて。だから、俺に幸せになってほしいなんてぬけぬけと彼女が言ったことに、苛立ちを覚えたけれど、それを言うつもりもなかった。彼女が、本心から、それを言っていたから。結果として本末転倒にはなっているけれど、俺のために働いているらしいから。

 彼女の想いを知れば知るほどに、混乱してゆく。彼女を恨むのか、それとも。人生を狂わせられたのだから、そう簡単には彼女を認められないけれど、それでも……「嫌い」と言い切ることができなくなってきた。



「……べつに。俺にお金をかけようがかけまいが、変わらないよ。大学だって行きたいって特別思ってないし。なんなら高校やめてもいいし。そんなに、必死に働かなくてもいいよ」

「そ、それはだめよ……! 涙は……私みたいなのから産まれるなんて奇跡ってくらいに、頭がいいの……だから……大学にいって、ちゃんとしたところに就職して……そうすれば……私と縁をきれるでしょ?」

「……縁を?」

「……きっちゃいなさい、こんな母親と、縁なんて。嫌だよね、風俗なんてしている母親なんて。私と一緒にいて、なにもいいことなんてないから」



 泣きながら、そう言った彼女は、震える自らの手を、握りしめた。薬も、やってるって聞いた。不自然な震えは、そのせいなのだろうか。あんな、まともじゃない人達に目をつけられて、薬までやって、きっと借金なんて一生返せない。この人は、どこまで、堕ちていってしまうのだろう。そのなかで……俺だけでも、解放させようと、しているのだろうか。



「……俺が家をでていったら、どうするの」

「……私も、どこかに行きたいな」

「どこか?」

「海のあるところに行きたいの」

「なんで?」

「……昔、一度だけ連れて行ってもらった海が忘れられなくて」



 海、か。あんまり似合わないな、なんて思ったのは黙っておく。都会の闇に押し潰されそうになっている、風俗嬢の彼女が、海に焦がれているなんて、誰がわかるのだろう。海、なんて、そんなに焦がれるものでもないと思うけれど。



『俺と一緒に海に行こう』



 ふと、藤堂の言葉を、思い出す。藤堂と一緒になら、綺麗だと思えるかもしれないと、そう思った海。

 みんな、海に希望を抱いている。馬鹿らしいと、今なら、思う。この人も、海に行きたいと、そう願いながら……ずっと、地獄のなかで、生き続けるのだろうか。



「いいよ……そんなに、俺のために働かなくたって。大学なら、奨学金とか使うし……それに大学行くって拘りは俺自身はないし」

「じゃあ涙は将来何をしたいの?」

「……別にしたいことなんてないけど」



 俺は、希望もなにも持っていないから。この人の人生の邪魔をわざわざするつもりがないから、大学に行かないって言っているのに、じゃあ将来の夢は、なんて返されても困る。面倒になってきて、俺は黙り込んでしまった。

……だって、将来の夢もなにも。俺は、死んでしまいたいって思っている。できれば楽に、痛くない死に方で。このまま生きていても、辛いだけだから。



「……夢をもって生きてなんて、言わない。でも、下を見ないで欲しい」

「……ふうん」



 簡単に、彼女は言う。でも、そんなこと俺には無理だ。前を向けば、真っ暗な闇しかみえなくて、怖いんだから。後ろから、足を掴まれるのだから。

 わかっていない。やっぱりこの人はわかっていない。俺が、どんなに生きることに苦しんでいるのか、わかっていない。でも、そんなこと、彼女に言ったところでどうにかなるというわけでも、ない。どうでもいいし。



「……涙、ごめんね……もっと、裕福でいいお母さんのもとに産まれられたらよかったのにね」

「……」



 彼女は、涙を拭ってコートのボタンをしめた。そして、無理やり笑って、部屋を出て行く。ああ、彼女はこれから、夜の街にでる。また……男たちに、身体を売ってくる。

 何を言っても、彼女はそうやって俺のために働き続けるのだろう。俺が、あなたを疎んでいるのを知らないままに。



「……俺のことなんて、捨てればいいのに」



 嫌いで嫌いで仕方なかった、あの人。嫌い、憎い、罪悪感――それから、よくわからない感情。様々なあの人への想いの糸が、ぐるぐるとぐちゃぐちゃと心臓に巻き付いて、気持ち悪い。

 ただただ、自分の存在を否定することでしか、平静を保てなかった。




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