「おい、ラズ!」
パシ、と後ろから頭を叩かれてラズワードはびっくりして振り向いた。見れば少し怒った様子のグラエムが立っている。
「おまえ、今日ちょっとぼーっとしすぎじゃねぇ? なんかあったわけ? っていうかちゃんとメシ食っています? 顔色悪くね?」
「……食事は、そんなにとってないけど……別に、なにかあったってわけじゃ……」
「嘘つけ! 明らかにさっきの狩りのとき死ににいってただろ!」
グラエムが怒るのも無理はない。今朝挨拶してみれば気のない返事しか返ってこない。話すときも視線は合わせているように見えるが、どう見てもその目にグラエムを映していない。そして極めつけには、今日の狩りのときに魔獣の攻撃を躱そうとも防ごうともしなかったのだ。そのときはグラエムが守ったため助かったが。
「まあ……昨日はあんまり寝れなかったから……。ごめん、迷惑かけて」
「……ふーん」
こりゃ絶対に言う気はないな、とそう思ったグラエムはそれ以上追求するのを止めた。隣に座って、自分の分のパンを差し出す。
「ほら、食ってねぇんだろ。どうせオマエのことだし食費まで切り詰めてんだろーが。狩人がそんなことしてたらぶっ倒れるぞ」
「……ありがとう」
ぼんやりと虚ろげな目をして、ラズワードはパンを食べている。時々そんな表情をするラズワードは、なんとも危なげで、目が離せない。
「……グラエム」
「なんだよ」
「なんで、兄さんは俺のこと嫌いなのに、俺のためにあんなに危ない仕事をしているんだと思う?」
ラズワードと交流をもつ面々は、ある程度ラズワードの家庭の事情は知っていた。ラズワードが免除金を払うことによって奴隷に堕ちないでいられていること。兄がハンターという職につき、日々無茶をやっていること。流石に、レイが夜な夜なラズワードの体を求めてくることなどは知らないが。
「オマエのこと愛しているからだろ」
「……愛?」
「家族だろ? 何があろうと弟を愛するのは当然のことだろ。オレも弟いるからわかるぜ。すんげーいたずらするわ金ないっつってんのに我が儘言ってくるわ、正直腹立つけどなんかすっげー可愛いんだ」
抱きしめられたのも、キスをされたのも昨日が初めてだった。いつもただ乱暴に抱かれるだけだった。だから、こんなにもラズワードは戸惑っているのだ。
あの時、腕を彼の背に回すべきだったのか。目を閉じるべきだったのか。
それがもし、レイの示す愛だというのなら。それに応える「べき」ではなかったのか、と。
「……」
「おい、ラズ?」
そもそも、なぜレイの欲望を受け入れようとしているのか。アレは、嫌で嫌で堪らないのに。そうだ、彼への償い。感謝の気持ち。それを示しているんだ。
彼のおかげで自由を手に入れている。だから、彼には逆らっては「いけない」。もしも彼に見放されたら……
いや、なにを考えているのだろう。これじゃあ、まるで。
「――おい、ラズワード! いるか!?」
「……!」
ドタバタと大きな足音を立てながら現れたのは、ラズワードの上司、レックス。青ざめた表情をして、レックスはラズワードに駆け寄る。
「ラズワード……今すぐここから逃げるんだ!」
「……は?」
「なるべく遠くへ! 奴隷商の目の届かないところに!」
ラズワードの肩を掴んで、レックスは叫ぶ。状況が飲み込めず唖然としているラズワードの代わりに、グラエムが問う。
「ちょっとレックスさん、いきなりどうしたんっすか? 逃げるって……奴隷商ってどういうことです?」
「……」
レックスは横から入ったグラエムの問いに黙り込んでしまった。見上げるラズワードの視線から目を逸らそうとしたが、レックスは唾を飲んで告げる。
「……ラズワード、落ち着いて聞け」
「……はい」
「……レイさんが……君のお兄さんが亡くなった」
「え……」
告げられた兄の死。あまりに突然のそれは、現実味がなさすぎた。ラズワードは表情も変えずにポカンとしている。
「今日の悪魔狩りの途中で、亡くなったんだ。話によれば、本来載らないはずのレベル5が上のミスでリストに載っていたらしくてな、もちろん高額の賞金だったからレイはそれを狩りにいったんだが……」
「……逃げるって……」
「今日の狩りの分でギリギリ今月分の免除金が払えたんだろう? レイが今回の狩りに失敗したってことは、免除金が払えないってことだ。……奴隷商がくるのは何時だ? あいつらが来る前に、ラズワード、早く逃げるんだ」
魔獣と聖獣は、5段階にレベル分けされている。ハンターに狩ることが許されているのは、レベル4までの魔獣であった。最高ランク、レベル5はハンターの安全性を考慮して狩ることを許されていない。
ハンターは、レベル4までの魔獣、または悪魔がのったリストを見て自分で狩る獲物を決める。それぞれに設定された賞金を、報酬としてその場で受け取ることができるのだ。もちろんレベルが高いほうが賞金は高く、レイはそのときリストに載っているもののなかで最も高額のものを選んでいた。
すべてはラズワードのために。毎晩毎晩、凄まじい怪我をしながら家に帰ってくる。
「……奴隷商がくるのは……7時です」
「……な、もうすぐじゃないか! はやく逃げるんだ! 施設にぶち込まれるぞ!」
ラズワードがこの時思ったのは、レイが死んでしまったら、自分が奴隷施設に入れられてしまうということ。……そう、兄の死を悲しいんだのではなく、自分の身を心配したのだ。自分のために、兄が死んだというのに。
「……」
「おい、ラズ!」
それに気づいたとき。いや、今までは気づかぬフリをしてきただけだ。
「……無理です」
「なに言っているんだよ!」
「……奴隷商から逃げることなんてできません。……そもそも俺に生きている価値なんてない」
「はあ!?」
他人よりも自分を優先する。こんな醜い人間。
どうしてレイはこんなくだらない人間のために命を賭けることができたのだろう。その答えが、ラズワードには全くわからななかった。
「……奴隷商に捕まるくらいなら、ここで死にます」
ラズワードは腰の鞘からダガーを抜いた。
きっと俺はレイのようなことは一生できない。自分のことしか考えられないのだから。俺とレイの違いはなんだろう。
『愛しているからだろ?』
もしかしたら、レイは俺のこと、愛していたのかもしれない。それが家族愛なのか性的なものなのかなんてどうでもいいけど。
そうか、俺はこんなに自分のこと愛してくれた人のことを、ただの奴隷商から逃げるための盾というくらいにしか考えていなかったのか。なんて最低な人間なんだろう。
「バカ、やめろ!」
刃で首を掻っ切ろうと、ダガーを首に添えた。慌てて止めようとするグラエム達を無視して、ラズワードは手に力を込めた。
「っう……!?」
しかし、それは叶わなかった。強い衝撃と共に、ダガーが吹っ飛ばされたのだ。
グラエムたちが止めたのかと彼らを見たが、彼らも驚いたような顔をしている。何が起こったのかと、そうラズワードたちが呆然としていると。
「困るな、そんな勝手をされては」
その声がした方を見れば。最も恐れていた者たちが、そこにいた。
二人の黒いスーツを着た男。そして、その二人の後ろに立つ、銃をもった黒いローブを着た仮面の人。
「……奴隷商……!!」
グラエムは初めて直に見る奴隷商に、ただ震えるばかりであった。
奴隷商はこの世界で最も力をもつ神族で形成される組織である。つまり、何びとたりとも逆らうことのできない権力と力をもつ。
「……しかも、アレって……」
3人の中でも異彩を放っているのは、仮面の男。その姿を見れば、誰でもその正体はわかってしまう。施設のトップを担う二人のうちの一人――ノワール。
「なんで、ノワールなんてヤツがこんなところに……!?」
「ラズワード、君の体は我々にとっても価値の高いものなんだ。そう安安とキズモノにされては困る」
仮面の男・ノワールは淡々とラズワードに言った。ダガーを弾き飛ばしたと思われる銃をしまうと、静かにラズワードに近づいていく。
ラズワードたちは、思わず後ずさった。無理もない。
ノワールは施設の中でも極めて高い地位につく男である。普段こうして人前に現れることは少なく、こうした奴隷を捕らえる仕事は下っ端が行うものであった。それを、なぜか今回はノワール本人がでてきたのだ。
「さて、ラズワード。今月分の免除金を徴収しに来た。渡してもらえるか?」
「……っ」
押し黙るラズワードを捉えようと、二人のスーツ姿の男がこちらへ向かってきた。
「……っ」
ラズワードは背負っていたライフルを手に取る。そして銃口を一人の神族の男に向けた。
「まて、ラズ!! 神族に逆らったら死罪だぞ!」
「奴隷になるよりマシだ!!」
ラズワードはグラエムの制止を聞かず、引き金に指をかけた。あ、とグラエムとレックスが言った時にはもう遅かった。
男はにやにやと笑っている。
「んん!? 神族に逆らうのか? 水の天使!! おまえらが使う魔術なんかが俺に通用するとでも……!!」
ダン! と激しい音が響いた。グラエムとレックスは青ざめた顔で男を見る。
やっちまった。神族に攻撃を――
「ぐ、あああああああああ!!!!????」
「!?」
激しく響く悲鳴。それは紛れもなく神族の男の声であった。
「な……」
撃たれた男は、片腕が破壊されていた。ラズワードの魔術の全身破壊の効果は、男の使った何らかの魔術により大きく威力は下がってはいるが、着弾した右腕は完全に破壊したらしい。どばどばと吹き出す血に、男はパニックになっているようだった。
もう一人の男はそんな様子を眺めながら、ノワールにそっと耳打ちをする。
「ノワールさん……あいつ、なんなんですか。神族の相殺魔術を破るとか、相当な量の魔力持ってますよね」
「だから俺がついてきたんだ」
「ちょっと、それどういうことですか。俺じゃああいつを捉えられないとでも!?」
「そういうことじゃない。ソレから手を離せ、アベル」
アベルと呼ばれた神族の男は、ノワールの言葉に従い、腰の剣から手を離す。金の短髪の、若い彼は、不機嫌そうに撃たれて倒れている男へ寄っていく。
「みっともない姿晒してんなよ、ジェイク。さっさと治癒魔術をかけろ。死にたいのか」
アベルよりもずっと年上だろう、ジェイクは地面にうずくまっている。アベルは溜息をついてジェイクの横腹に軽く蹴りをいれ、とん、と先のちぎれた右肩に手を触れた。そうすれば、またたく間に右腕が再生していく。
「治癒魔術……」
グラエムはいとも簡単に再生されたジェイクの腕を呆然と見ていた。天使と悪魔は使える魔術が限られている。体内に流れる魔力が風ならば、風魔術というように。治癒魔術は水魔術の部類のため、水の魔力をもっていなければ使うことはできない。
しかし、神族にはそのような制限はなかった。神族のもつ魔力は、無属性のもの。魔術の知識さえあれば、どんな魔術でも使うことができるのである。
アベルという青年がつかった治癒魔術は、相当高度なもののようだ。明らかに、ジェイクよりも魔術の腕は上だ。
それを悟ったラズワードの胸のなかには、逃げる自信がなくなっていく。ジェイクでさえ、全身を破壊するつもりで放った魔術が腕にしか効かなかったのだ。アベルとノワールには恐らく全く通用しない。
「なるほど、ラズワード」
どうしようかと、悩んだラズワードに、ノワールが言った。その声は、神族に逆らったことによる怒りも何も含まれていない。何の感情も感じさせない、静かな声であった。
「君は、剣を扱えるか?」
「……は?」
ぽかんとするラズワードに、ノワールが何かを投げてきた。慌ててそれを受け取ってみれば、それは剣であった。
「君がいつも使っているのは最低ランクのプロフェットだな。今、俺がきみに渡したのは聖堊剣というプロフェットの中でも最も位の高い剣だ」
「……え、なぜ、それを俺に?」
「その剣をつかって俺に斬りかかってこい。もし、俺にカスリ傷の一つでもつけることができたら見逃してやる」
「……!?」
淡々と言い放ったその言葉に、その場にいた誰もが驚いた。ラズワードたちはもちろん、神族の二人もである。
「ちょっと、なに言ってるんですか、ノワールさん! 腕を見たいってだけでしたよね!? なに余計な条件つけているんですか!」
「そうでも言わないと本気でかかってこないだろう」
「だからって……! もしこれで本当に見逃したりしたら……」
慌てるアベルに、ノワールは静かに手で制止をかける。そうすればアベルはむすっと黙って腕を組んだ。
「さあ、ラズワード。くるといい」
「……っ」
ノワールの放つ雰囲気というか、圧力というか。恐怖に近い感情が、ラズワードの足に制止をかける。しかし、やらなければ、この状況は脱却できない。ラズワードは意を決して地を蹴った。
「……!?」
ノワールから渡された剣に魔力を込めた瞬間、ラズワードはその動きを鈍らせた。あまりにも軽いその剣にいつものように魔力を流すと、刀身が光りだし、小さくプラズマを放ち始めたのである。今までそんなことはなかったため、ラズワードは驚いてしまったのだ。
「今までは、そうなることはなかったか?」
「……え?」
「聖堊剣は、魔力投影率ほぼ100%。君の使っていた武器は10%。その剣はきみの武器とは異なり、君のもつ魔力をそのまま力として扱うことができる。その光は、君の魔力そのものだ」
魔力投影率という聞きなれない言葉に、ラズワードは戸惑ったが、要するに今までの武器は自分の魔力にリミッターとして働いてしまっていたのだろうと理解した。つまり、今はリミッターなしの魔力。今までよりもその威力は段違いに跳ね上がるということだ。
「……」
今までの武器でも、人体破壊は可能だった。では、この聖堊剣で人を切りつけたらどうなる?
ラズワードは自分の頭に浮かんだ映像を、首をふってかき消した。それは、あまりにもおぞましいものであったから。
剣へ流す魔力をいつもより減らしてみる。しかし、減らしすぎてはノワールへきっと届かない。それはわかっているのだが、いつもと感覚が違いすぎて、調整が上手くできない。
「遠慮しなくてもいい。自由になりたいのなら、俺を殺す気でこないといけないよ」
「……わかってる……!」
剣を握る手に力を込め、ラズワードはノワールを睨みつける。そして、大きく深呼吸して、足を踏みこんだ。
ダガーよりも当たり前だがサイズが大きい聖堊剣は、それでも軽く、扱いやすかった。あまり剣は使い慣れていないが、上手く間合いを取りながら、斬りかかる。
しかしノワールはただひょいひょいとラズワードの攻撃を躱していた。手に武器も持たず、攻撃を仕掛けてくる様子もなく、ただ躱すのみである。
「……っ」
まったく攻撃の当たらない様子に、ラズワードは焦れた。降っても降っても、掠る気配もなく、剣はただ虚空を切り裂くだけである。ただ、焦れているのはノワールも同様だったらしい。
「ラズワード、本気をだしたらどうだ」
「……だしている……!」
「いいや、だしていない。君はまだ、自分の魔力の強大さに怯えて、俺に攻撃を当てるのを心のどこかで躊躇している。君の攻撃には、迷いしか感じない」
「……っ」
全くの図星であった。はっきりと言い当てられて、どきりとしてしまう。それと同時に真正面から剣を振り落とすと、鋭い金属音と共にそれは阻まれた。
見れば、ノワールが短剣でラズワードの剣を受け止めていた。
「……そういえば、ラズワード。君に謝らなければいけないことがある」
「……謝る……? 今ですか……?」
ラズワードは静かに言葉を投げてきたノワールから、一歩引いて、立ち止まる。ノワールは短剣をおろし、話し始めた。
「きみの、お兄さんのことだ。彼の死因は聞いているか?」
「……え、ああ、はい」
「彼は、私が誤ってリストに流した魔獣を退治しようとして亡くなった。その魔獣はレベル5の魔獣で、本来ならばハンターには狩ることが禁止されているはずのものだった。危険だからね。……ところでラズワード」
僅かに優しげな色を含んでいたノワールの声が、低くなる。
「君のお兄さんは……たしか、レイといったか。君の免除金を払うために、随分と無理をしていたそうだな。そのときリストに載っている獲物の中で最もランクの高いものを選んで狩っていたんだろう?」
「……ええ、まあ」
「今回もそうだったな。俺が手違いでリストに載せた魔獣ゲヴァルトはレベル5。確実にリストのなかでの最高ランクとなる魔獣だ。国の半分をも滅ぼしたという恐ろしい魔獣だという。……ただ、彼はレベル5がどれほど恐ろしいものだかわかっていなかったみたいだな。残念なことに亡くなってしまった」
「……」
淡々と話すノワールの言葉に、ラズワードは違和感を覚えた。なにが、とははっきりしていない。しかしそれは、次のノワールの言葉により、徐々に輪郭をあらわにする。
「そう、レイは神族が『誤って』載せた『最高ランク』の魔獣を狩るのに失敗して亡くなったんだ。本当に申し訳ないと思っている」
「……まさか」
なぜ、レイが免除金を払うために最高ランクの獲物を狩るだなんてことを知っている?なぜ、ミスをしておきながらそのゲヴァルトについてそんなにも情報を知っている?
ラズワードの中に、一つ、その答えが浮かびあがる。
「まさか……わざと、リストにレベル5を載せたのか……?」
声が震えた。汚い。あまりにも卑怯だ、と思ったからだ。
直接手を下したのでは、施設の威厳に傷が生じてしまう。しかしこの方法ならば、そうはならない。事実を知らない者からすれば、施設のミスはあくまで間接的原因にすぎないのだ。
「……俺を施設に連れて行くために、兄さんが必ず最高ランクの魔獣を狩ると知っておきながら……!」
「だからはじめに言ったはずだ。きみに謝らなければいけないことがある、と」
「……っ!!」
「きたねェぞ!」
ラズワードが言葉を発する前に叫んだのは、グラエムだった。レックスが真っ青な顔をしてグラエムの腕を掴み制止をかけたが、グラエムはそれに応じるつもりはない。
「テメェら、そこまでしてラズのこと連れていきてぇって言うのか!」
「……おそらく君は知らないだろうが、そこにいるラズワードという青年は、我々にとって非常に価値のある存在だ。なんとしてでも手に入れる必要がある。いつまでも彼の兄が粘るものだから、消えてもらった、それだけのことだ」
「な……おまえ、ラズのことをなんだと思って……おまえらの都合のために、どうしてラズがこんな目にあわなければいけないんだよ……!」
「きみは奴隷をなんだと思っている。奴隷というのは人権を持たない、資源のことだ。物質として定義される彼に、何をしようが構わない。そうだろう?」
金属が擦れる音がした。グラエムがダガーを抜いたのだ。
まて、とラズワードが叫んだときには、もうグラエムはダガーを振り抜いていた。
グラエムの魔術が、風巻き起こす。巨大な刃のような風はノワールへ向かっていった。
しかし、それはノワールへ当たったかと思った瞬間、消えてしまう。
「ちょっとノワールさん、いくらなんでも煽り過ぎじゃないですか?」
風の刃が消えたところには、ノワールを庇うようにアベルが立っていた。ラズワードと年齢がほぼ変わらないと思われるその青年は、ヘラヘラと笑いながらノワールに軽口を叩いている。その手には、武器もなにも持っていない。それでいながら、グラエムの魔術を無にかえしたのである。
呆然とするグラエムを、アベルはチラリと見て笑う。
「でもちょーっと足りない見たいですね。俺が仕上げしてあげますよ」
にこ、と微笑むと、アベルは自らの胸元に手を差し入れる。ぞ、と寒気を感じたときには遅かった。目が潰れるほどの閃光と重い衝撃が、グラエムを襲った。
「――グラエムッ!!」
ラズワードとレックスが叫ぶと同時に、グラエムは膝からがくりと崩れおちる。その腹には、大きな風穴が空いていた。
「――っ!!」
血の気が引くのと同時に、ラズワードは駆け出した。グラエムは大量の血を口から吐き出し、体を震わせながら息を吐いている。
(今すぐ、治療を……!)
「うっ……!?」
しかしグラエムに治癒魔術をかけるべく近寄ろうとノワールに背を向けた瞬間、鋭い痛みが左肩を貫いた。振り向いて見れば、ノワールが銃を持っている。それで撃ち抜かれたようだ。
「まだ終わっていないぞ」
「……おまえ……!!」
いずれにせよノワールをどうにかしないことにはグラエムの治療はできない。それを悟ったラズワードは剣を握り締める。そして撃たれた肩を治療すると、ノワールを睨みつけた。
姑息な手段で兄を殺したこと。グラエムを傷つけたこと。
そのことに血が昇ったのか、ラズワードの中で魔力のリミッターが外れた。
「……!」
ラズワードのもつ剣には、先程までとは比較にならないほどの光が迸っていた。膨大な量の魔力に、刀身が震えている。
「な、なんだあの魔力量は……!?」
「ふうん、結構すごいね」
ジェイクは目を白黒させ、心底驚いているようであった。その横で、アベルは唇に手をあて、じっとその光を見つめている。
その場にいる誰もが驚きを示す中、ラズワードは神族への怒りの感情そのままに、ノワールへ斬りかかった。
「そうだ、それを見せてほしい」
「っざけんな!!」
ノワールは全く動じる様子もなく、剣を受け止める。
「……っ!!」
両手で振りかぶった剣は、いとも簡単にノワールが片手で持った短剣に阻まれてしまう。
(また……!)
刃と刃がぶつかりあった瞬間に空気を裂くような音と光が走ったことよりも、ラズワードはノワールの体術に驚いた。いくらラズワードが体の弱い種族であるからといって、両手で振り抜いた剣が片手で阻まれるなんてことがあるものか。
潜ってきた死線の数が違いすぎる。
それに気づいた瞬間、ラズワードは負けを悟ってしまった。
「!」
ギ、と刃が擦れる音がした。退くのが遅れた、と思った時には遅かった。ノワールは刃の向きを変え、ラズワードの剣を受け流したのだ。渾身の力を込めていたものだから、ラズワードは体のバランスを崩してしまう。
「あっ――」
左肩から腹のところまで、一気に切り裂かれた。強烈な痛みと共に、次でヤられると確信したが、一向に次の一撃はこない。見ればノワールは一歩引き、ただ短剣を構えているだけであった。
「……っ」
ここでトドメをささない。完全に、手を抜いている。
「おまえ……なにが目的だ……」
治癒魔術を使いながら、ラズワードは問う。そうすれば、ノワールは短剣を構えたまま答えた。
「きみの戦闘能力を見極めたいんだ」
「なんのために!」
「きみを優秀な剣奴として育成するためだ」
「……剣奴?」
聞きなれない言葉に、ラズワードは眉をひそめた。
施設に連れて行かれた者は、「性奴隷」として調教されるのではなかったか。そんなものになりたくないからこそ、今こうして必死に抵抗している。
「……最高の戦闘スキルを有し、尚且つ主人に絶対服従の奴隷……高い身体能力と魔力を持った水の天使だけがなれる奴隷だ。非常に高価な値段で売れる」
「……俺が、その剣奴になれって……? なったところでその高い戦闘スキルをもっているっていうなら、主人の首を掻っ切って逃走するかもしれないぞ」
挑発的にラズワードがいえば、ノワールが僅かに笑った。
「その心配ならいらない。……剣奴は、性奴隷の役割も兼ねるんだ。そのための調教を、通常よりも一層厳しくやらせてもらう。きみのもつその強情も破壊させてもらうよ」
「……!」
ノワールの言葉に微か身を震わせた。施設の調教は恐ろしいものだと聞いている。それのさらに厳しいもの?
そんなことをされたらどうなってしまう?
恐怖に、剣を握る手が震えた。
「さて、ラズワード。だいたいきみの戦い方は見せてもらったよ。きみの使っている魔術は、治癒魔術の応用系のものだね。攻撃を当てることで、相手の細胞分裂を暴走させ、異常再生をさせることで身体を破壊する。そんなところかな」
「……っ」
「治癒は水魔術の最も基本的なもの。魔術をあまり学ばない者でも扱えるから、水の魔力をもっていれば誰でも使用できる。水魔術はそれしかできないから弱い魔術と思われがちだが、そんなことはない」
「……?」
「世界は水に溢れている。俺は水魔術は知識さえあればなんでもできる最も使い勝手のいい魔術だと思うよ。……ラズワード、その体でもって覚えるといい。そして君は最高の剣奴になるんだ」
ノワールが短剣をひと振りした。ラズワードは何か来る、と身構えたがそれは全く意味をなさなかった。いきなり視界がゆがみ始めたのだ。何事だと慌てたが、その歪んだ視界のなかで、輝く何かがこちらに向かってくるのを察知して、跳ね返そうとしたがそれは叶わない。
「……これは……!」
その輝く物質は、地面から生えた氷の柱であった。ノワールからラズワードに向かって、次々と生えている。躱せなかったラズワードの脚はその氷に巻き込まれて身動きがとれなくなってしまった。どうするべきかと迷っている間に、ノワールの刃が迫ってくる。
「これらの魔術はきみでもつかうことができる。これから直に俺が教えてあげるよ」
「……施設で、か……! そんなの……」
「きみは俺に結局傷を負わせることができなかった。そろそろ終わりにさせてもらう」
一撃目をなんとか剣で防いだが、その攻撃は重く、受けた右手に激しい痺れが襲う。怯んではいられないとすぐに剣を振ったが、もう遅かった。間合いに入り込まれ、そのまま剣をもつ右手を刺されてしまう。
「……うっ」
ノワールはラズワードが落とした剣を、地面につく前に左手でつかみ、そしてそのままラズワードの首に突きつけた。
「……ついてきてもらおう、ラズワード」
「な……」
視界が一気に狭まる。強烈な目眩に耐えられずラズワードは倒れこみ、そのまま意識を失ってしまった。ラズワードの体が地面に叩きつけられる前にノワールは腕でその体を抱き寄せ、アベルを呼び寄せる。
「持ってろ」
「錠つけといていいっすか?」
「ああ」
アベルはラズワードを受け取ると、その手に手錠をつける。その脇でノワールが武器をしまっていると、小さな呻き声のようなものが聞こえてくる。
「……ま、て……よ」
「……!」
アベルはその声のした方をみて、小さく舌打ちをした。そこには、地にひれ伏し、大量の血を流しながらも神族を睨みつけるグラエムと、そんな彼を必死で止血してるレックスがいた。
「ラズ、は連れて……いかせねぇ……! そいつは、俺たちの……ごほ、……仲間、だ!」
「あれ、まだ生きてたの? 仕方ないなあ。楽にしてあげるよ、喜んでね」
アベルはにっこりと微笑んで、銃を取り出すとその銃口をグラエムに向けた。レックスが慌ててグラエムの前にでて彼を庇おうとしているのを見て、アベルは鼻で笑う。
「んなことしたって、あんたもの体なんて貫通しちゃうって。ま、二人しておさらばってことで。神族に逆らったら死刑。知ってるでしょ?」
「……まて、アベル」
「はぁ?」
今にも引き金をひこうとしたアベルを、ノワールが制した。
ノワールはグラエムとレックスのもとへ歩み寄る。グラエムは荒く息を吐きながら、目前まで迫ってきたノワールを睨み上げた。
「ラズを……返せ……」
「グラエム、まて……!」
レックスが静かにグラエムを制し、地に手をついた。そして、頭を地面に擦りつけ、叫んだ。
「ノワール様……どうか、この者の無礼をお許しください……! 命だけは……!」
「どけ」
「……っ!」
冷たく頭に降り注いだ声に、レックスは全身の血が凍るような寒気を感じた。見上げれば、表情のない仮面が見下ろしている。
「ノワール様……!!」
「聞こえなかったのか、そこをどけろ」
僅かに凄みを増した声に、レックスは腰が抜けてしまった。そんながくがくと震えるレックスの横を、ノワールは横切っていく。
「……ぐっ」
ノワールはしゃがみこむと、グラエムの髪を掴み、上を向かせる。その苦しさに息を詰まらせながらも、グラエムはノワールをにらみ続けた。
「おまえは、俺たちを憎むか?」
「……な、あたり、まえだろ!」
「たとえ、俺たちを憎む存在が、おまえただ一人になったとしても?」
「……?」
わけのわからない質問に、グラエムはもちろん、その場にいる者がみな頭にはてなを浮かべた。どう答えたらいいのかわからず目を瞬かせるだけのグラエムに、ノワールは言葉をつなげる。
「おまえが今見たように、俺たちの行いはとても清いものなんかではない。ではなぜ暴動が起きないんだろうね。逆らうものがいてもいいと思わないか?」
「……それ、は」
「簡単だ。俺たちの力が圧倒的すぎて、皆恐れ従っている。そしてそうして反逆心を押し殺しているうちに、いつしかその俺たちへの憎しみが消えていってしまう」
「……」
「おまえは今、直に俺たちの力を知った。そして周りの人々は今俺が言ったように憎悪を忘れてしまっている。周りの者は君に賛同しない。おまえの心のなかにも憎悪には止めをかける恐怖が存在する……それでも、おまえは俺たちを憎み続けられるか? 偽りの忠誠心にのまれないでいられるか?」
その場にいた誰もが、ノワールの言葉に耳を傾けていた。心に違和感を覚えながら。
その言葉は正しい言葉でありながら、なぜか違和感しか覚えない。
おそらくは、ノワールが言っているからである。この言葉は、その憎悪の対象の頂点に立つ者が言う言葉ではない。そのはずだからだ。
グラエムの頭の中にぐるぐるとノワールの言葉がめぐる。
今目の前で腰を抜かしているレックス。神族に怯える人々。
神族がこうして権力をはびこらせている中で、力を持たない自分だけが反抗したところで……
「……ノワール様」
グラエムは血に濡れた唇を噛み締めた。言葉を待つノワールを真っ直ぐに見つめる。
「オレは……」
ふと、頭に浮かんだ。淡く微笑んだ、ラズワードが。
目の前で、連れ去られようとしている彼。どんなに手を伸ばそうとも、きっともう彼には届きやしない。
じゃり、と地面の砂を握り閉めた。
「――オレは、貴方たちを絶対に許しません」
グラエムの言葉に、辺は静まり返った。空気が凍りついたともいえる。
神族の二人は今にもグラエムを殺してやろうかという殺気を放ち、レックスは口をパクパクさせている。しかし、仮面をつけているノワールの表情は全くわからない。それでも誰もが、その仮面の下の顔を想像できた。――グラエムは、殺される。
皆、そう思った。
「……そうか」
しかし、仮面の下から溢れた声は、皆の予想に反した優しいものだった。まるで、安堵でもしたかのような。グラエムも死を覚悟して言ったものだったから、ぽかんとしてしまう。
「……え」
そしてさらに、次の瞬間の出来事にグラエムは唖然とした。腹の激痛が一気に消えたのである。
ノワールが治癒魔術をかけたのだ。
あまりの驚きに何も言えないグラエムをおいて、ノワールは立ち上がる。そしてそのまま背を向け、二人の神族のもとへ行ってしまった。
残されたグラエムとレックスは、ただ、うなだれるしかなかった。レックスは放心状態と言ってもいいかもしれない。神族に逆らってこうして無事でいられる、そのことで夢心地となっているのだ。
一方グラエムは、助かったことを喜ぶよりも、ノワールの発した意味深な発言について思案するよりも、何よりラズワードを救えなかったことを悔やんでいた。目の前で大切な仲間をさらわれたことは、あまりにもショックが大きかった。
放った一撃は、まるで赤子のパンチのように、いやそんな例えでは大きすぎるほどに、効果がなかった。あのような力の差を見せつけられては、助けようという気力すら湧いてこない。それでも、もう一度ラズワードの笑顔を見たいという、心の矛盾。
グラエムは、強く地面を殴った。
行き場のない、悔しさ、惨めさ。全てをこめて、血がでても殴り続けた。
「くそっ……くそおおおおおぉぉぉぉ!!!!!!」
そこには悲鳴に似た叫びが、ただ虚しく響いていた。
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