重厚な雰囲気を持つ空間。独特の匂いと静寂。
天界の中心都市にあるコンサートホールに、ハルは来ていた。父が知り合いからオペラのチケットをもらったということで、行ってこいと言われたのである。父も兄も忙しいからハルに回ってきたのだが、正直ハルだって暇じゃない。それでも、つかの間の休息ということにして来ているのだ。
ラズワードを連れてきてもよかったが、彼は容姿やら瞳の色で無駄に目立ってしまうため、今回は一人できたのである。
ハルはチケットに記載された席につき、ぐたりと背もたれに身を預けた。ここ最近は疲れが溜まっている。
新しく舞い込んできた仕事。それからラズワードのこと。
なんだろう。最近は胸がざわつくことが多い。何も考えたくないのに。ラズワードのことを考えるたびに、イライラと不愉快な感情が心に疼くのだ。……ただ、それでもラズワードを嫌いというわけではない。むしろずっと見ていたいとか、傍に居て欲しいとか思う。でもそう思うと同時に、やはりざわざわと、心が騒ぐ。
ああ、嫌だ。ごちゃごちゃと、心を侵食されていく。こういうのは、嫌なんだ。
「……はぁー」
「……あれ、お久しぶりですね。お隣いいですか?」
「……はい?」
ふと降り注いだ声。見上げれば、いつぶりだったか見覚えのある人が立っていた。
「……く、黒さん……?」
「ハルさん。どうも。3ヶ月ぶりくらいでしたっけ? こうして顔を合わせるのは」
柔らかな笑みを浮かべて話しかけてきたのは、黒(仮称)。ラズワードを買うきっかけとなったチケットのようなものをハルに渡し、自称「奴隷施設の関係者」らしいがそのような雰囲気を感じさせない不思議な男だ。
相変わらずの上品な空気感と、穏やかな振る舞い。ハルは思わずぽかんと口を開けて彼を見つめてしまった。
「あ……なんか、すごくオシャレなジャケットですね」
「ああ、これですか? オーダーメイドです。あまりお洒落には興味ないんですけど、身なりはちゃんとしないとですから」
「へー、興味ないっていうわりにはセンスいいと思うけど」
黙ってしまうのも気まずいと思い、適当な話題を降ってみればにこやかに黒は答えてくれた。物腰柔らかな人だ。椅子に座る動作すらもどこか優雅な黒は、やはり施設の関係者なんて思えない。
「あのー、黒さん」
「なんですか?」
ふと彼の雰囲気と施設の関係者であるという事実の違和感を改めて覚え、そこからあることをハルは思い出す。
「あの黒さんがくれたチケットってなんだったんですか? なんか見せたらすごい反応されたんですけど」
黒がハルに渡したチケット。気だるげにハルに応対していた販売員がそれを見た瞬間に、顔色を変えたのである。更にはあのノワールまででてきたのだ。
どう考えても、普通の代物ではないはずである。
「ああ、あれですか……。あれは紹介状ですかねー。ハルさんがレッドフォードの者であるってことと、私の親しい人だから特別のを売ってくれって書いたやつです。……うーん、すごい反応されたんですか。ハルさんがレッドフォードってわかってびっくりしたんじゃないですか?」
「……黒さんってそんなに高い地位にいるんですか? そんな紹介状書けるくらいって……」
「いやいや、地位は関係ありませんよ。ハルさんが買った奴隷は、ハルさん用に育成されたものですから。その販売員の方にそれをお伝えすればいいだけのことです」
「へえー、そんなもんなんですか」
あの施設は異次元である。たぶん、これ以上聞いてもよくわからないだろう、ハルはそんなことを思ってこれ以上追求しないことにした。
黒はのんびりとパンフレットを眺めている。ハルはぼんやりとその様子を眺めていた。ハルもパンフレットはもらっていたが、特に興味はなかったので流し見で終わってしまった。
「……今日の演目は『Lucifer』ですね。ハルさんはもう散々この物語は聞いているんじゃないですか?」
「ああ、そりゃあもう。レッドフォードのアレですから。ミカエル様の?悲願、ですからね。ルシファーへの復讐は」
「……明けの明星よ、貴方は天から落ちてしまった」
「……へ?」
「どうでしょうか。本当にミカエル様は、ルシファーへの復讐を望んだんですかねえ」
静かに黒が言う。そしてふふ、と笑ってパンフレットを閉じた。
「『この物語は、聖なる物語。すべての始まり。子孫たちよ、お聞きなさい』」
ああ、このフレーズなんだっけ。そうだ、『Lucifer』の第一文目。耳にタコができるくらい聞かされたなあ……
ハルは懐かしい記憶に揺られながら、黒の語りに耳をかたむけた。
*・。*・。*・。*・。*
かつて、羽の色は白しかありませんでした。空を飛び交う美しい人は、天使、それだけだったのです。
ある日、「ミカエル」の名を襲名した若者は、「ガブリエル」に恋をしました。「ガブリエル」は「ミカエル」がその名を受け継ぐ前からの幼馴染でした。二人は立場の問題もあり結ばれることはありませんでしたが、非常に仲睦まじく、いつも一緒にいました。
しかし、そんな幸せは長くは続きませんでした。
「ミカエル」には、兄のルシフェルがいました。彼は天使として許されない行為を幾度も繰り返していました。堕天に最も近い天使でした。
そんな彼、ルシフェルは、「ガブリエル」に一目惚れをしました。ルシフェルは「ミカエル」が見ていない隙に「ガブリエル」に接近し、自分のものにしてしまったのです。
やがて、ルシフェルは堕天しルシファーと名乗るようになりました。そこで初めて黒い羽の天使、「悪魔」が誕生しました。ルシファーは「ガブリエル」と共に悪魔の数を増やしていき、いつしか天使と敵対するようになりました。
愛した「ガブリエル」を堕天させ、悪魔を作り出し、自分を裏切ったルシファーを、「ミカエル」は恨みました。しかしルシファー達悪魔の力は凄まじく、彼らを抑えることはできませんでした。
かつて、世界は白い羽が舞っていました。しかし、今は黒い羽が、地を這っています。
*・。*・。*・。*・。*
「『……終わりの時は、いつか来ると信じなさい』」
ハルは何度も何度も聞いて聞き飽きた『Lucifer』を真剣に聞いていた。おそらく黒の口から語られたからかもしれない。
ハルは改めて『Lucifer』の物語を頭に巡らせた。天界の裏切り者「ガブリエル」の同族、水の魔族が疎まれるようになった理由。ミカエルの無念を晴らすというレッドフォードの教え。その様々な要因がこの物語には入っている。
しかし、ハルはあまり興味がもてなかった。
現在「ミカエル」の名を受け継いだ人はたしかもう10代目くらい。『Lucifer』のミカエルは二代目だと聞いている。それはもう神話として語られるくらい昔の話なのだ。ミカエルに仕えるレッドフォードがその二代目ミカエルの悲願を叶えることを家訓としているとは言っていても、ハルにとってみればイマイチ現実味がないのである。
「……黒さんってこういうの好きなんですか?」
「そうですね、知識として覚えているくらいでしょうか。……でも、この物語を違う視点から描いた本はなかなか面白かったですね」
「へえー。違う視点っていうと?」
「「ガブリエル」視点です。彼女もたしか二代目でしたね。初代のガブリエル本人に憧れを抱き続け、その名を受け継ぐことができるとなったときはとても喜んだという可愛らしい少女だったそうですよ」
「ふうん、裏切り者とか言われているからとんでもない悪女なんだと思ってた」
あまり文学に興味のないハルは、そこまで『Lucifer』を深く読んだことはない。ハルは初めて聞く話に、僅か興味が湧いてきた。
「普通の少女だったらしいです。「ミカエル」に恋心を抱いていたものの、危なっかしいルシフェルにも心惹かれ……堕天寸前の彼を止めなければという思いは、いつしか燃えるような愛へと変わっていった……。しかし、結局彼は堕天してしまう。「ガブリエル」は本気で愛した彼と共に堕ちることを選びました。かつて共に過ごした人たちを裏切ることになっても……」
「……なんだかアレですね。絶対その本の著者、女でしょ」
「はは、よくわかりましたね。初めてその本見たときは正直笑いましたよ。……でも面白いとも感じました。角度を変えれば、人は違って見えるんだなって」
「あー、なんか黒さんすごいな。俺ならまずそんな本読もうとも思わないですよ」
「……まあ、その本発禁処分受けた上に著者は死刑になったんですけどね。ガブリエルと、特にルシファーの肩を持つようなことはタブーですからね。そんな本がなぜか家の書庫に眠っていたんで掘り出して読んでみたらちょっと面白かったんです」
表情は穏やかなままに、しかし楽しそうに黒は話していた。
華奢な体つきと色白の肌。読書している様子がサマになりそうな容姿だ。ハンターの知り合いが多く、性格も見た目も攻撃的な知り合いばかりのハルにとって、こういうタイプは新鮮であった。容姿だけならばラズワードもそれに近いが、彼はまた別である。
黒は例えるならば、日溜まりのような。淡い暖かさと優しさを感じる、そんな風に思った。
そう、だからこそ思う。この人は何物なのだろうと。あの施設で一体なにをしているのだろうと。
「……ねえ、黒さん」
「なんでしょう」
「……あなたは、あの施設で何をしているんですか?」
「何って……特に特別なことはしていないですよ? 貴方が施設に抱いているイメージのとおりのことをしています」
ハルが問えば、黒はふふ、と笑った。たぶん、この質問をしたところで彼のことなどわからないだろう。表面的なことを答えられるだけで、彼の中身などわかりはしない。
だから、質問を変えてみようとハルは思い立った。
「……じゃあ、ノワールについてどう思いますか」
「……はあ、「ノワール」ですか」
黒の反応を見て、ハルははっとした。たぶん、この質問は選んで正解だ。その反応が、今までとは明らかに違っていたのだ。
即答を、できない。
今まで黒はにこやかに笑いながらどんな問いにもサラッと答えていた。たぶん、なにも考えないで彼は答えていた。しかし、今の彼はそれができていない。穏やかな雰囲気こそ変わりないが、何かを考えるように、目線をハルから外したのである。
「……では、お先にハルさんからどうぞ。「彼」のイメージを教えてもらえますか? 大丈夫、告げ口したりなんてしませんから」
「……俺の、ですか」
黒がチラリとハルを見る。
自分の答えをだすための時間稼ぎというわけではなさそうで、本心からハルの答えを聞きたがっているような気がする。
「……俺は、少し前にソイツに会いました」
「……はい。何かそれ以前のイメージと異なっていた点はありましたか?」
「……その質問に答えるなら、先にその以前のイメージから言わないとですかね。……俺は、ノワールは冷徹で非道な、あの組織の頂点にふさわしい男だと思っていました。ええ、それとイメージが異なっていたかって? ……ああ、そりゃあもう、全っ然違いましたね!」
ハルはラズワードを買ったときのことを思い出す。ラズワードのことをまるでモノのように扱う彼。あんな環境であくまでただの商人として平然と振舞っていることのできる彼。
「……あいつは、人の心なんて持ち合わせていない……! 冷徹も非道もあったもんじゃない! もうあんなことをすることに抵抗がない……だからこそあんなふうに飄々としていられるんだ……根っからあいつは腐りきっている……!」
声を抑えながらも、ハルはあの時の怒りを再び爆発させた。あんな奴にラズワードは好き勝手されていたのかと思うと胃が引きちぎれそうになるくらいに苛々する。
そんなハルを、黒は黙ってみていた。そして、す、と目を細める。
「……そう、それが一般的な視点ですね。では視点を変えてみましょう。……「ガブリエル」のように。視点を変えれば人は違って見えてきますからね」
「……? 違うっていうんですか? ノワールは……」
「ええ、まったくもって違いますね。貴方よりずっとずっと「彼」に近い俺から見れば」
黒がふ、と笑った。その笑い方は、今までとは微かに違う。笑っているというよりは、嗤っているといったほうがいい。
黒い瞳の闇が深まる。
それに、ハルはデジャヴを感じた。そう、黒は一度、この表情を見せている。
「「ノワール」はちゃんと人の心を持っている。自分の行いが悪であることも知っている。決して抵抗がないわけではない」
「……はあ、だったらどうしてあんな……」
「……「彼」は悪そのものだからですよ。自分の行いが悪であってもそれを正しいと思っている。なぜなら、自分自身が悪だから。人が悪行を経て悪人になっているのであればその人は罪人であると断罪の対象になり得るかもしれません。しかし悪が悪行をするのにどこに間違いが生じるのか。息を吸うことと同じです。「彼」の存在は悪であること、そうであるしか定義することはできないのです」
「……」
ハルは黒の話が終わるまでポカンとその闇の瞳を見つめていた。息苦しくなってきて、呼吸を忘れていたのだと気付いた。
……わけが、わからない。
ハルは自分の理解を超えた話にただ、混乱していた。
「……っていうのが、私の「ノワール」についての考えです」
「……」
「何を言いたいのかって言うと、まあ、「彼」が憐れで愚かな人ってことですかね。自分の闇に嵌って抜けられなくなっちゃたんです」
再び黒はにっこりと穏やかに笑った。ハルはそんな笑顔に少しだけ、違和感を覚える。
「……よく他人のことをそんなところまで見れますねー……まるで、自分のことを言っているみたいです」
「……そう聞こえましたか?」
「だって、いくらあなたがノワールの近くにいるっていっても……アイツについて知ることができるのはやっぱり表面的なこと……そこまで深くを見ることなんてできやしないでしょ? 例え友人や恋人であったとしても」
ハルは単純に思ったのである。黒はノワールについて他人の評価というにはあまりにも深いところまでを述べている、と。どんなに傍にいたとしても、所詮は他人。ハルだって、家族のことですらそこまで深くを知ってはいない。
「……そんなに難しいことではないでしょう? 本を読むこととなんら変わりはありません。あの紙の上で語られる登場人物に、私たち読者は自分を投影するかのように心を同化させ、登場人物の全てを知る。彼らは他人、しかしそれでも私たちは彼らを知っている……同じです。情報さえあれば、他人のことなどいくらでも知ることができる」
「……いや、いくらなんでも架空の人と現実の人じゃあ……」
「そうですか? 貴方が違うというならそれを否定はしません。ただ、私は「ノワール」をそう評価する、それだけわかっていただければ」
黒が前を見据える。それと同時に、ブザーが鳴り響いた。
「……ああ、始まりますね」
真紅の幕が上がっていく。ハルも、黒につられてそれを眺めていた。
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