嵐の前の静けさ
どんよりと重たい雲が、夏の青空を覆い隠していた。
少しずつ近付く微かな雨の匂いに、いつ降ってもおかしくない空を見上げた。
戸惑う事も多いけれどやってみようと思えば案外なんとかなるらしくここの暮らしにもなれた。苦労を重ねた手のひらはすっかり傷だらけだけど、ここまで頑張ってきた勲章の様に見えて少し誇らしく思えた。
洗い終わった器を片手に川から戻り、家の戸口を開けると膝を立てた姿で壁に寄り掛かksり座る藤次郎が見えた。今日は朝から物思いに耽っているらしく隠されていない片目は閉じられている。
棚に器を戻すと邪魔にならない程度に少し離れた位置に腰を下ろして息をつく。今日は山に行くのはやめようかな…そんな事を考えていると口を閉ざしていた藤次郎の声が耳に届く。
「名前」
「何?」
「明日、ここを出ていく」
その言葉に一瞬周りの雑音を消えた。そして胸の中にストンと落ちる。
何気無しに動かしていた手が思わず止まっていて、慌てて取り繕う様に手を払う真似をする。そうか、もう傷も癒えた藤次郎が此処にいる必要は無い。張り付きそうな喉からグッと力を込めてゆっくりと口を開く。
「うん、わかった」
前の生活に戻るだけだし、いずれは来る日だと分かっていた。
ただほんの少し…ほんの少しだけ、変わらないんじゃないかと錯覚してただけだ。
「…オレに言いてぇのはそれだけか?」
不遜な物言いになんだとよと睨むつもりで顔を向けるが、いつもの揶揄する笑顔ではなく思いの他真剣な表情で俺を見つめる藤次郎がいて。
「…別に、俺は何も…ないよ」
拙い言葉で一言返すのが精一杯で、俺は真っ直ぐな視線の強さから逃げる様に顔を逸らす。あのまま見ていると俺の口は余計な事まで言ってしまいそうで怖くなった。
少しの沈黙の後、俺が何も言わない事に諦めたらしい藤次郎は視線を外し、素直じゃねぇな…とどこか呆れた口調でもらす。どういう意味だと返しかけた言葉を飲み込み反論はせずに立ち上がる。
「…藤次郎の兜、汚れたままになってたの思い出した。帰る前に綺麗にしておくよ」
今日は山には行かないから暇だったんだと付け足しながら部屋の隅に置かれていた兜を掴むと、後ろで藤次郎が俺を引き留める声も無視して、顔も見ずに家を飛び出していた。
逃げ出すように駆けた足は家が見えなくなる所までくると徐々に落ち着きを取り戻しゆっくりとした足取りに変わる。さすがにわざとらしかったなと己の幼稚な行動に少しばかり後悔したが仕方ない。
そのまま川下の方へ歩いて行き手頃な場所を見つけ、落ち着く為に石の上に腰を降ろした。持ち出した立派な兜を傍らに置くと心に比例する様に重い溜め息が口から溢れた
少しばかり気持ちが沈むのも、藤次郎に情が移ってしまっただけだ。
前と変わらない気ままに暮らしていればこんな気持ちも無くなって忘れられる。
そう、藤次郎も時間が経てば俺の事も忘れるんだろうな。
強気で自信家で人をからかってムカッとする時もあるけれど何故か俺の名前を呼ぶ時はいつも優しい。
俺には前にもあんな風に俺を呼んでくれる人がいた気がする…。
…なさ…い
布を掴む手が止まった。
聞き間違いかと辺りを見渡しても誰もいない。
…れ…の……だっ…
降って湧いたノイズを含んだ声は何度も残響みたいに頭の中に、それは聞こえた。
不可解なそれを思い出そうとした途端、続くようにして頭がズキリと痛みだす。
何度も何度も繰り返される痛みに堪えようと、じわりと額に油汗が滲み両腕に抱える兜を抱きしめる。
いつもなら考えをやめると退く痛みが鼓動と呼応するように増していく。
痛い、痛い痛い痛い…
呼吸がばらつきくらりと意識が霞みかけて唇を噛み締めた。
誰か…!!
縋る言葉は馬の駆ける音と嘶きに消され、頭上から覆うようにして現れた影に遮られた。
「…此処で何をしている」
嵐の前の静けさ