廻る




脳みそぐらぐら。カクテルみたいに脳みそはぐちゃぐちゃに上から下へ、下から上にかき混ぜられる。一緒に世界もまわる。
 ぐらぐら、
 ぐるぐる、
 ぐらりぐらり。
 目が追い付かなくてただ残像だけを追う。
 でもなんだか懐かしい匂いがした気がして私はその残像に噛み付いた。
 その残像は私によく似ていた。



 目を開けたはずなのに、本当に目を開けられたのか分からなかった。瞼の裏と同等にも思える暗闇。激しい頭痛で脳の奥が白く弾ける。暫く頭を動かせないだろうと覚悟をしつつ、状態の確認だけしようと手を伸ばす。少しごわついた柔らかい布だ。頭に包帯が巻かれていることはすぐに分かった。
 手足も拘束されていない。しかし、痛みに逆らって動くことは出来ない。
 傑は一体どこにいるのだろう。
 とにもかくにも呼吸を繰り返していると、少しずつ目が慣れていく。数分掛けて、やっと周囲を見回せた。
 ここは畳の上で、そして私の三メートルほど前には襖がある。今はきっちりと閉じられているため、襖の向こうがどうなっているのかは分からない。襖から目線を右手に移すと黒い塊。塊は微動だにしないが、崩れたお団子のお陰で傑だと分かった。部屋に私と傑以外おらず、また物もない。
 キャリーケースはどこだ。
 そしてここはどこなのか。
 頭の傷に気を付けて寝返りを打つと、ぱさりと布が落ちる。どうやらタオルケットのような物が掛けられていたようだ。視線を上に移す。どうやら窓があることに気が付いた。
 窓には黒い遮光カーテンが掛けられており、この暗さの手助けをしている。
 部屋はあまり埃臭くはない。普通の家の匂いがする。恐らく、ここは祖父母の家ではないだろう。なんだか落ち着く匂いがする。
 すぐる、と声を出しても空気は震えない。
 声が出ていないのか。口を動かすだけで声が出ないのだ。緊張感のせいなのか、いや、頭が痛いからというだけの気もする。
 仕方ない。傑が目を覚ますまで私も大人しくしているのが吉だろう。
 傑の肩はゆっくりと上下していて、その反復行動は驚くほどに私の気持ちを落ち着かせた。
 誰がこんなことをしたのかは分からないが、しかし私のせいで傑が巻き込まれたということだけは紛れもない事実だ。申し訳ない気持ちと共に、ここまで一緒に傷付いてくれることに感謝と愛しさもある。
 知らない存在に一緒に害されてくれる好きな人。私がたとえ親殺しの殺人犯でも、きっとそれだけは変わらないのだと思うとやっぱりそれは嬉しくて。だからこそ私は先程キスを断ったのを少し後悔していた。
 どうせならしておけばよかった。
 そうすれば死んでも悔いはない。
 あわよくばもっとセックスをしたかったし、彼と普通の旅行もしてみたかったが、今更そんな我儘も通らないだろう。

 殺人犯が殺されて終わり、か。
 なんともよく出来た終わりだ。

 ゆっくり呼吸を繰り返していると視界の端で、僅かに揺れた。
 音が鳴ると鳴らないとの間くらいの僅かな揺れだが確かに揺れた。次いで、床が軋む音がする。

 ───犯人が来る。

 壁を使いながら、なんとか身体を起こして襖を睨んだ。視界が白く弾けるような刺激がこめかみに走るのを我慢する。近くで鐘が鳴るような痛み。その向こうで風が息巻いている。
 睨んでどうする。
 分からない。
 でもまだ傑が起きていないのだから、私が犯人を確認しないと。
 さっき死ぬ覚悟をした筈なのにあっさりと自分が生きようとしているのに自嘲する。傑と出会ってから、私は意地汚くなった気がする。でも藻掻く姿を傑は馬鹿になんてしないだろう。

 今度は襖が大きく揺れた。今度こそガタッと音がした。そしてゆっくり襖が開く。
 思わず口内に溜まった唾液をごくりと飲み込んだ。ひりつくように喉が渇く。

 ゆっくり開かれた襖。途端に光が差し込み、目を細めた。傑と私をここまで運んだのだから。どんな屈強な犯人が現れるのか。

 しかし、光が縁どったシルエットは線の細い女性の姿だった。

 思わず目を瞬かせる。
 私の目の前に現れたのは、私に非常によく似た女だった。私が老けて、髪が伸びているバージョンみたいな女だ。
 思わず呆気に取られた。
 誰なんだ、この人。
 女は私に気まずそうに微笑んで、それから私にゆっくり近付く。警戒しようにも逃げ場はなく、激しい頭痛で素早い動きはとれそうにない。近付いてきたらどうしようという不安の中、女は私の一メートルちょっと手前の位置で突然座り込んだ。手には本のようなものを持っている。

「かなたちゃん、だよね? そうだよね?」

 私を知っている。

「……だれ」
「かなたちゃんのお母さんだよ」
「嘘!!!」

 はっきり見たもの。二人分の頭蓋骨。もう白骨化した二人分の遺体は私の親のものだ。
 それ以外有り得ない。
 私が殺した二人分の遺体は確かに存在していた。それなら目の前の女は息をするように嘘をついている。

「違う、違うの。かなたちゃんを産んだのは私だもの」
「は?」
「かなたちゃんのお父さん、高雄さん、そうでしょ。高雄さんの妹よ、私。智恵よ、私」

 お父さんの、妹。
 確かにお父さんには妹がいた。私の叔母だ。しかし、私は叔母には会ったことがない。
 お父さんと仲が悪いのだと、小さい頃お母さんが言っていた。
 でも。
 私の母親を名乗る女は私が泣いたときの不細工な顔と同じ顔をしている。
 私はもう何が何だか分からなくなっていた。
 もし叔母なら、なぜいま?
 そしてなぜ叔母が私を産んだのか?
 なぜ私を襲ったのか?
 私のその混乱は私の表情からありありと感じ取れたのだろう。女は持ってきた本のようなものを私に差し出してきた。
 本にタイトルはなく、よく見ればそれがアルバムだということはすぐに分かった。
 触ろうとしない私の代わりに、女がページを開く。パタリと開かれた、固めのページには私によく似た女性が赤ん坊を抱いていた。そして横に二千八百グラムかなたと、書いてあった。その女性は私に似ていて、そして、私の知っているお母さんと私は似ていなかった。
 祖母の出されなかった手紙が脳裏によぎる。

『お前に子が産めたら良かったのにねぇ』

 そういうことか。そうだったのか!
 祖母が言っていたのは、お母さんが本当に子どもを産んでいなかったからなのか。
 写真は恐らく病院で撮られたものだろう、女性は泣き笑いながら嬉しそうに赤ん坊を抱いている。

「……元気そうだね、私のかわいい娘」
「おか、あさん?」

 私と同じような顔で同じように笑う叔母、ではなくて、お母さん。
 私のお母さん≠ニいう言葉で、お母さんは目を大きく見開いた。そしてすぐにその瞳が潤んで、一つ二つと雫がアルバムに落ちていく。小さな肩は震えている。
 お母さんは私と同じくらい痩せていて、いや、でもそれで全てが納得いく訳ではなかった。襲ってきた犯人が実はあったことのない叔母で、その叔母が本当のお母さんだった。それを一瞬で理解しろと言っても無茶な話だろう。

 でも、でもでもでもでも。

 私が産まれてきたことを、
 このお母さんは喜んでくれていたんだ。
 私の命は否定されていなかった。
 命を踏み躙られていなかった。

 腹の底から色んな気持ちが込み上げてせり上がり、そして涙腺を通って流れ出ていく。
 お母さんが自分も泣いていたくせに私に近寄って私を抱き締めてくれる。柔らかくて温かい匂い、よしよしと掛けてくれる声は、夢で聞いた子守唄と同じだった。
 堰を切ったように大声で泣くと、抱き締められる力が強くなる。強く抱き締められると安心してしまうのは、どうやらお母さんから始まっていたようだ。

「かなた!」

 涙の往航の向こう側で声がした。霞んでろくに見えない視界の中でずっと動いていなかった黒い人影がこちらを向いている。何かを重く蹴る音がしたかと思えば、一瞬でお母さんが遠ざかって、私の前には傑が立ち塞がっていた。傑は肩で大きく息をしている。

「かなたに何をした、言え」

 さもなくばこのまま殺す、と傑の大きな身体がお母さんに覆い被さる。大きな手がお母さんの細い首をへし折ってしまいそうだ。お母さんが大した抵抗もしないのが恐ろしくて、すぐに傑にやめてくれと叫んだ。


『やめて!』


 私は。

 私の死体が転がっている様子を急に思い出した。あれは夢か幻覚、のはず。
 どうして今そんなことを思い出すのだろう。

 親は死んでいるし、私は生きているのだから。しかし、それでも私は死んだ時の感覚と景色を覚えていた。
 学校からの帰り近所の人が血塗れで倒れていて、そして人の叫び声が上がっている。
 逃げようと勢いよく走る人が次の瞬間には血まみれで崩れる。
 何度も赤が弾けて黒く染まる。

 そこは田舎の小さな村で、暑かったのを思い出した。そしてその叫び声が恐ろしくて、でもどうすれば分からない私の目の前に血に塗れた大きな男性が立っている。
 大きな身体に、黒髪のお団子頭、怒りに震える拳と小さな双眸と目が合った。

 そう、か。そうだ。思い出した。


「私を殺したのは、傑なんだね」





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