殺人




幼い頃、私は祖父母が好きだった。
 祖父母は怒鳴ったり殴ったりしない。食事も出される。それは私にとっては大きいことで、つまり私は愛されているのだと勘違いしていた。
 思えば、私はいないものとして扱われていたのだろう。しかしそれに気が付いたのは祖父母が死んで、遺品整理をしていた時だった。

 祖父母の家の和室。仏壇の置かれた線香の匂いが立ち込めた畳の部屋には古めかしい箪笥がある。一つ一つ引き出して、家の匂いが染み込んだ衣服を片付けていく。その中に大きな缶がしまわれていた。お煎餅の名前が書かれた黄色い缶。懐かしさに駆られて蓋を開く。その中身は出されなかった便箋の山だった。それはもう何年分にも溜まっており、不思議に感じた私は一つ手に取って開いてみた。

『お前に子が産めたら良かったのにねぇ』

 それは私が七歳の頃の手紙だった。孫の話は数回手紙に現れても、決して私の名前が出てくることはない。
 では、私の存在とは?

 ショックといえばショックだったが、不思議と納得した自分もいた。祖父母は事故で亡くなったらしかった。葬式は当然行われたのだろうが、私は参加していない。話も聞いていない。
 気付けば死んでおり、片付けだけしている。

 愚かなり、幼さゆえの無知よ。
 浅はかなり、幼さゆえの愛よ。

『ねーんねん、ころーりーよ
 おこーろーりーよ
 かなたはいいー子だ、ねんーねーしーなー』

 子守唄。振り向いてもそこには誰もいない。
 いつ聞いたんだろう。
 誰が歌ってた?探ると目の前で蜃気楼が揺らめいた。目を凝らしてもはっきりとしない輪郭を必死に追う。
 祖父母じゃない。父じゃない。
 母でもない。覚えのない人肌の記憶。温かいのに顔がぼんやりと霞みがかって、その姿は気が付けば傑の形になっていた。


 目を覚ますと車窓から眩い光が私の目を刺した。思わず強く閉じた瞼を見たのか、すぐ近くから笑う声が降る。頭上零センチメートル、私の頭を肩に乗せて傑は笑った。

「顔、くちゃくちゃだよ」

 私の肩を抱いていた右手が私の眉間を小突いた。嫌な夢でも見たのかと聞いてくる大きな手を取って手のひらを揉む。少し固くて、そして関節が大きい。厚めで大きな手。
 急速に頭が冷えていくのと同時に夢が崩れて消えていく。大事な夢だった気もするし、そうでもなかった気がする。

「忘れちゃったな」
「夢に私が出てないならいいんだけどね」
「なんで?」

 そこは逆ではないのか、と傑の顔を見上げると傑は少し口元だけで笑って私の頭に顔を埋めた。表情は全く分からなかったが、「夢の中での君を助けられなかったみたいだから」というその言葉は情事の吐息と同じくらい熱かった。
 車掌が駅名を伝える声につられて車窓に目を向けた。流れていく景色はいつぞや見た景色と逆行する。私の不安を表すように電車が大きく揺れて、二人で手を取り合った。
 目的の場所の最寄り駅へと近付いていく。傑が念入りに調べた駅名までほんの数駅。表情には現れていないものの、傑の緊張は繋いだ手から伝わった。汗ばんだ手に力が入る。
 親の死体を確認しに行く、という奇妙な目的ゆえに。
 車窓に映る私の顔はどこか幼い。戻ろうとしている。あの頃に。
 電車は速度を落としてゆっくりと止まった。車輪がレールを擦る金属音が妙に耳に障る。左側扉の上に表示された駅名を確認してから二人で立ち上がった。
 小さな無人駅に降りる人は少ない。
 私たちは大きく胸打つ鼓動に背中を押されて、その駅に足をつけた。

 町内を走る循環バスの緑色は嫌いな色だ。
 傑が電車とバスの時間を調整したので、次のバスは十分後に来る。その次は三時間後だ。好きだった田舎の景色が今は嫌い。子どもは視点が低くて少ないから、見えていないものが多すぎるのだ。這う虫の気持ち悪さも興味の対象であったなんて考え難い。
 なんて風がうるさい場所なんだろう。
 髪の揺れない風に私は吹き飛ばされそうだ。
 バスが私たちを揺らして数分、公民館前で降りてそこからは徒歩だ。車通りは少なく、時折犬の散歩をするおばさんが通り過ぎた。こちらをチラチラ見てくることが気になるが、田舎で見慣れない人間は総じてそういう目で見られるものだ。
 六月半ばの今日は案の定蒸し暑い。公民館をぐるりと囲む花壇では紫陽花が咲いている。大きな紫陽花の群れを傑が避けて歩くものだから、仕方なく私もそれに倣う。
 湿度百パーセントの私の左手と傑の右手はぴったりとくっついて離れない。時折思い出したように傑と道中に買ったペットボトルを傾けた。少し濃いめの味の麦茶が夏の匂いを香り立たせる。カラカラと私の後を追い掛けるキャリーの車輪が時々小石にぶつかって跳ねた。
 コンクリートの道を抜けて柔らかい水気に溺れている土を踏みつけて進み続ける。以前よりずっと家が増えた住宅街は、それでもやはり田舎の様相を抜けきれずに閑静な様子だ。途中で傑はキャリーの車輪が土に埋まるのを見て、引っ張るのを諦めて持ち上げた。
 直後、私が足を止めた。
「ん?着いた?」
「うん。あそこ」
 私が指差した方向を傑の目が追う。少し大きめの長屋とコンクリートの塀、その横には私の苗字の表札があった。二階建ての木造家屋は静かに佇んでいる。漆喰の外壁は黒ずんでおり、塀に付けられた門扉は錆びて歪んでいるせいで半分開いている。そして隙間からは私の腰までありそうな雑草が茂っていた。もう何年も人の手が入っていないのは、誰の目から見ても明らかだ。

「放置されてるんだね、親戚は?」
「さぁ……お父さんに妹がいたのは聞いたことがあるけど、他は聞いたことない」
「なるほど、じゃあ行こうか」

 暑いけれど長袖を着てきてよかった。半袖ではどこかで切り傷が出来そうだ。
 傑は私の後ろについて周りを見渡しながらそっと敷地に入り込んだ。腰まである雑草を掻き分けて進んでいく。納戸は全て閉じられており、家の中は確認出来ない。
 靄のかかる記憶を手探りで漁りながら、恐らくここであろうという場所に辿り着く。周りの家からは見えない奥まった場所にある庭だ。庭は後ろの林と面しており、人目はない。庭は荒れ放題だが、唯一、弱って痩せた桃の木が庭の隅にいるのは分かった。

「かなたは場所を思い出してくれ。掘るのは私がやる」
「……掘り起こすの?」
「遺体をそのまま放置なんてしてないだろ?……埋めた、わけじゃないのか?」
「……覚えてない」

 覚えていない。それは本当だ。
 私が覚えているのは赤色と鉄棒の臭い、そしてぐったりと力が抜けて放り出された手足だ。確かに普通に考えれば埋めた、というのが一番現実的だ。祖父母亡き後この家は放置されているものの、もし買い手がつけば人の手に渡る。そのまま放置なんてことは有り得ない。

 するり、

 何かが足に触れた感覚がして草の隙間から足元を見る。

 赤黒い手が、私の足に触れている。

 真冬の外気に晒されたかのように手足が途端に震え出す。亡霊が私の首に指をかけて力強く締めてくるかのように呼吸が出来ない。
 小さな悲鳴が思わず飛び出る。
 すぐに視界が涙で歪み、顔を背けた。
 足元には、何もなかった。

「かなた、大丈夫かい」

 大きな身体が私を包んだ。
 慣れた手つきで私の背中を優しく叩く。優しい傑。傑が真実を知りたがっているのなら、私はそれに応えたい。
 口の中が胃酸の味でごった煮状態だったので、近付いてきた傑の唇だけは遠慮した。

「……埋めた記憶、ないの。だって私はまだ子どもだったし、大人二人を埋めるだけの力があったかどうか……それに、庭は結構ちゃんと造られていたから、どこを掘ればいいのか……」
「それは確かに。まだ幼いかなたがやるのはかなりの重労働だ。……とするなら、もっと簡単に隠すか」

 傑はキャリーケースを開けて折りたたみスコップを広げて、生い茂った雑草を掻き分けていく。そしてすぐに足を止めた。傑が足を止めたのは縁側の目の前で、すぐに傑は縁側を覗き込んだ。縁側の下はどうやらパンパンに膨れたたくさんのゴミ袋が詰められているようで奥は見えない。傑は私にキャリーケースを託してゴミ袋をどけ始めた。ゴミ袋は十袋どかしてもまだ出てくる。ゴミ袋は町内指定のゴミ袋で、まるでそこだけゴミ屋敷だ。
 人の気配は全くない。だというのに、明らかに不自然なゴミ袋に二人して首を傾げた。
 ゴミ袋が十八袋を超えた頃、縁側の下に身体を突っ込んでいる傑の身体の動きが止まった。
 私は呼吸が止まった。
 ゴミ袋が風でうるさい音をたてている。
 のそのそと身体を縁側から抜き、傑が真顔で私を見る。土に塗れた両手で赤い大きめの懐中電灯を操作して、縁側の下に光を当てた。
 見ろ、そういうことだと分かって私も縁側の下を覗き込んだ。私は医学には詳しくない。遺体のことも全く分からないけれど、頭蓋骨と呼ばれる骨が二つ。ボロボロにはなっているものの、しっかりと見えたことは分かった。

 ───やっぱり、私は殺している。

 やっぱり人殺しだ
 最低なクズ野郎
 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね

 私が口を開こうとした瞬間、傑は目を見開いて私を見ていた。その目に映るのは人影。

「かなた!危ない!!!」

 その言葉に反応する前に重くて硬い音がする。一瞬で熱さと冷たさが脳を行き来して、私の意識は遠く飛ばされた。





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