善悪



お決まりの展開、繰り返しの美徳。
 私は大根役者の薄っぺらい正義が嫌い。
 必ず救われる犯罪者が嫌い。
 ドヤ顔で必ず解決する主人公が嫌い。
 必ず選ばれた人間が上に立つのが嫌い。

 でも不思議と日本人にはそういうものを好む人が多い。勧善懲悪。じゃあお前、善悪とはなんなのか言ってみろと街中の横断歩道のど真ん中で叫んでみたくなる。そんなことしても誰も振り向きもしないだろうに。
 黒い雲が他に行き場がないかのように頭上であぐらをかいている。風が吹けども吹けども重い腰は上がらない。そしてそのうち、ああ、ほら始まった。居場所が見つかったのなら泣かないでよ、雨雲。



 目を覚ますと傑がいなかった。
 途端にゴウゴウと鳴り出す風に吹かれて思わず身震いする。怖い。寒い。
 強い孤独感が身体に重くのしかかる。
 息を浅く繰り返しながら布団を這い出ると、不動産のチラシの裏に傑の文字があった。

『荷物を取りに家に一度行ってくる。すぐに帰るからいい子にしていて』

 右下に書かれた傑の名前を指でなぞる。
 家に行き、私の所に帰ると書いてあることで一気に気道が広がった。吸い込む空気は不味くない。何度も震える手で文字をなぞってから、昨夜傑に剥がされた服に手を伸ばした。
 がぱりと開けた冷蔵庫の扉の向こうは空。
 残り少ないケチャップ、にんにくと生姜のチューブ、ウスターソースにオイスターソースが扉に納まっている。棚の部分にはスライスチーズが三枚。
 決して豊富とは言えない中身である。
 仕方ない。
 傑が帰ってくる前に買い物をしよう。
 吹き出す風に対抗するべく、傑が部屋で着ているパーカーに身を包んだ。靴を履いて扉を開ける。財布と携帯と折り畳まれたエコバッグを持ち、準備は万端。
 しかし外からは風の音に人の声、近所からの食卓を思わせる匂いなどが想像以上に刺激となって足を竦ませた。
 そんな私を助ける人間はいない。
 傑のパーカーを強く握り締めて深呼吸を繰り返す。ふわりと香る傑の匂いにじんわりと涙腺が温度をもった。

「……よし、」

 ドアノブをひねって入り込む外気を踏んだ。
 隣に傑がいない外出。大きな背中の影は私にかからない。強くなる風の音、その風が巻き上げる不特定多数の人間の声。アパートを出てスーパーのある道を進み、横断歩道に差し掛かったところで高校生の集団が、たむろしており足を止めた。集団は大きな声を上げて笑い、大声で話している。その手には色とりどりの傘があった。

 賑やかな学生の群れは嫌いだ。平然と人を笑って凶器を投げつけてくる。
 集団から顔を背けるように空を見上げると真っ黒な雲がぽつりぽつりと泣き出した。
 涙が雨だと認識した途端、バケツをひっくり返したかのような雨に変化する。一気に濡れ鼠のようになった私。そんな私に自身が驚く前に前方の集団から、
 くすりと笑い声が聞こえた。
 私を笑っているに違いない。
 雨に信号の光が反射して、青になって遠ざかる集団。
 しかし耳に残る笑い声が足を竦ませた。すれ違うママチャリや傘をさした歩行者全員が私を見て笑っているに違いない。
 笑い嘲り、なぜこんなものが生きているのかと疑問に感じているに違いない。
 雨が傑の匂いを流していく。
 ゴウゴウと鳴る風と何もかもが煩くて頭がぐちゃぐちゃになって涙腺だけが焼き切れそうだ。傑、と名前を呟いても自分しかいない。


 捨てられたんじゃない?
 死ね
 ざまあみろ


 本日三十七回目の死ね=B声はいつも通りの三種類。お父さん、お母さん。


 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね


 そして一番私を殺したがるのは、私だ。
 明るい色の髪を両手でぐちゃぐちゃと掴んで泣き叫びながらゴウゴウの風の中でずっと私の死を望み続けている。そして私は何度だって呼吸の仕方を忘れてしまうのだ。

 私の世界で私だけの居場所がない。
 薬で脳をどれだけ誤魔化しても、世界を誤魔化せはしなかった。
 ああ、心臓がすり潰されそうだ。
 酸素がまわらない。視界が歪んで霞む。
 どこかに逃げてしまいたいから死ぬことしか考えられない。

「かなた!」

 世界が巡る。ぐにゃぐにゃぐちゃぐちゃと歪んで廻る。どれだけ人が死んでも生きても苦しんでも巡る非情な世界の片隅で蹲っていても仕方ないのは分かっている。でも誰の世界にも私の居場所がないんだもの。

「かなた、私が見えるかい?」

 傑の声がする気がする。傑、私を呼ぶ人。自分の隣を叩いて、座ることを促す人。
 まるでそこが私の居場所だと言おうとしているみたいで、人を信じたくなってしまう私を引き出す怖い人。

「いば、しょ」
「居場所?それがどうした?」
「……ない」

 意識が風の渦に呑まれる。風の音しか聞こえなくて、光もない。生きているのか死んでいるのかも分からない。脳を握られて上下に振られているような気分だ。暴力的で激情的で、その中の強い浮遊感。


 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね


 渦の間から私を指差す手が見えた。
 死を望まれる無価値で無意味で。
 勧善懲悪だと言うのなら、死を望まれて生まれてきて三十年近く生き長らえてしまった私は善ですか、悪ですか。

「かなた、こっちだよ」

 突然私を指差していた手と別の方向から手が伸びてきて私を引っ張る。抵抗するも虚しく一秒後には私は渦から飛び出して、優しい男の控えめな温かさに包まれていた。
 私がどこにも逝かないように包む力強い腕、支える胸、確かめるように動く頭、私の濡れた頭を撫でる掌。

「……すぐ、る?」
「そうだよ。やっと反応したね」
「私……」
「六月とはいえ風邪ひくよ。帰ろう」

 傑は私を立たせず、そのまま抱き上げて言った。『帰る』というのは、勿論あの桜木ハイツの話だ。ゴウゴウという轟きの代わりに、よく聞くようになった傑の『ただいま』の声で鼓膜と海馬が揺れる。雨で全身びしょ濡れの私を戸惑いなく抱き上げる傑。傘なんて意味がないことを悟ったのか、すぐに傘を閉じて私に持たせた。

「昔はよく傘なんて差さないで帰ったなー」

 世界が汚いから傘の差し方を覚えたけど、と傑は補足する。でも傘を差さない世界の方がずっと綺麗に見えるのだから不思議だ。傑は唇で私の顔に張り付いた髪をかき分けて私の額にキスを降らした。世界で一番綺麗な雨。
 私が燃えるように熱い目頭に身を任せると、そのまま私たちは家に帰った。
 家に着くと勝手知ったるかといった具合の傑は私を脱がせて風呂場に押し込めた。ノズルを間違えて回した時と同じくらい熱い涙が止まらなくてなかなかお風呂場を出られない。ずっとお湯を浴びるだけの私を心配したのか、傑は暫くして全裸で風呂場を覗いてくる。冬でもないのにもくもくと立ち篭める湯気に傑は笑って、熱い熱いと私を抱き締めた。急に身体に温度が帰ってきて、全身が脈打つのを感じる。生きている。
 欠けた呼吸は傑の口移しで修復された。

 二人、真っ赤な肌になって風呂場を飛び出した。一体どれくらいの時間、熱いお湯を浴び続けたのか。執拗に口付けを繰り返したせいで時間の感覚はない。
 流石に肌がひりひりするし、六月の湿度の高い空気すらひんやりと感じるのはやり過ぎだ。傑の真っ赤になった股からぶら下がる一本を指で弾くと腰が浮く。ごめんと言う前に傑の指が私の真っ赤な乳首を弾いた。お互い睨み合いが始まる。五秒間のくだらない沈黙はやはり笑いで弾けて消えた。

「カバンを取りに行ったんだよ」
「カバンってそれ?」
「そう、キャリーケース」
「なんで?」

 お互い下着だけで扇風機の風に当たりながら、傑の持ち帰ったキャリーケースを見つめた。特別大きいわけではないが、それでも日常使いするものとは違うカバンだ。
 私の疑問ばかりの問い掛けに傑は珍しく真面目な顔をする。
 小さめの黒目は下手すれば威圧的なのだが、それを上回るお茶目さを知ってしまったので私は普通に冷たい麦茶を喉に流し込んだ。そして次の言葉は「旅行に行こう」だった。
 なんだ、やはり真面目な顔をするようなものじゃない。そう思ったが、傑の言葉はそれで終わらなかった。

「かなたの地元に行くんだ。そして確かめよう。君が殺したのは、本当に親だったのか」

 傑は私の携帯をテーブルの上に乗せると連絡帳を開いた。
 登録数百二件の表示は全て『母』と表示されている。百二件全ては行≠ノおさめられている連絡先は、普通に考えれば正気の沙汰ではないだろう。
 雨音は激しさを増していて、瞬間、傑の顔が雷光に照らされた。ゴウゴウという風の音より大きい雷鳴。後頭部を全力で殴られたかのような衝撃でアパートが僅かに震えた。

「母親の子どもとしてじゃない。これからはかなたがかなたとして生きるんだ」

 勧善懲悪。これがそういうドラマだとしたら私は追い詰められた犯人なのだろうか。傑は刑事なのだろうか。刑事と犯人が結ばれて幸せになるドラマなんかあっただろうか。


 人殺し
 お前が死ね
 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね



「……静かだね」
「静かじゃない」

 驚いて私が顔を上げると、テーブル越しに居た傑はすぐに私の横に座り直して私の頭を傑の胸に押し付けた。うるさい、確かにうるさい生きている音だ。急に世界が静かになる。風の音も脳内お喋りも雷鳴もアパートの軋む音も何もしない。ただただ傑の鼓動と呼吸音が私の世界に満ちた。私の膝まで浸かるような命の海が波となって流れてくる。
 どんどん海の水位は上がっていって、腰、胸、肩、頭のてっぺんまで海に浸かる。不思議じゃないか。世界の中で唯一、優しい世界なのは海の中だなんて。傑が満ちた世界だなんて。

「……行くの、やめるかい」

 傑が少し眉を顰めて聞いてくる。
 別にね、私どうでもいいの。
 私が誰を殺していて、誰を殺していないだとか。でも、傑がこれを知りたいと言うのなら。

「……ううん、行くよ。すぐにでも」

 重い腰で居座っていた黒い雲の隙間から漏れた光が窓から一線だけ部屋を照らした。

 実家は静岡なれど、実は親を殺したのは実家ではないという話を傑にした。
 記憶がどの程度頼れるのか私のような壊れた人間では分からないが、それでも傑は頷きながら電車の時間を調べていた。
 親が埋まるのは元々祖父母が暮らしていた神奈川県の端だった。そこは神奈川県と山梨県と静岡県が触れ合う位置で、場所を山北町という。
 傑は自分と私の着替えなどをキャリーケースにしまい、そして折りたたみのスコップを二つ、私に何も言わずにしまっていた。
 私はと言えば、傑と二人で撮った写真を一枚カバンに忍ばせる。
 私を見て微笑む傑の姿が、夕陽に照らされて血に染まっているように見えた。





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