おかしな男




街を彩る赤と白が、クリスマスカラーから紅白でめでたいと都合よく言われ方が変わりつつある今日この頃。
常に空調が最適に整えられているこの高級マンションでは息が白くなるということもないし、絵を描きながら指先が悴むこともない。
ペインティングナイフも凶器みたいな冷たさはなく、常温で掴みやすい。
私は適温の油に筆をつけた。

夏油さんが女にその身体を差し出していることを知ったからといって、特に私たちが変わることは無かった。ただ、度々夏油さんに呼び出されては女に喰われるその肉体を眺める。眺める。滴り落ちる白濁を目で追う。汗と乱れる衣服の皺の曲線を視線で撫でる。香水に詳しくなかったが、ウッディーにバニラ、しかしジンジャーと微かなムスクがピリッと鼻に刺激を与えるらしいことを後日調べて知った。

ねえ、その子だれ?と夏油さんに背後から何度も何度も激しく胎を腟ごと抉られている女が言ったことがある。それはそうだ。前情報無しに自分の獣のような情事を眺めている女がいたら気になるだろう。

夏油さんは

「お気に入りのインテリアなんだ」

と、答えた。


その女は上機嫌で130万を置いて出ていった。インテリアちゃんのお小遣いにしてもいいよ、と乱れた髪を編みながら言っていたような気がする。
お小遣いどころか、女から貰った金は右から左へ。夏油さんから私へそっくりそのまま流れてくる。中には汗なのか汁なのか分からない液体の滲んだ万札が紛れていたが、私はお礼を言って受け取った。
2~3枚なら情事の片付けに来る清掃の人にお小遣いと称して渡した。

「絵が描けるようになったかい」

その言葉に返事する代わりに筆をただ走らせた。この1ヶ月近く。
私は異常な速度で絵を描いている。
油が乾くのを待つ間に次のキャンバスに手を出す、というのを繰り返していた為私は3つのキャンバスを前に筆を置いた。丸い背中や腕、脚の幾つもの曲線を複雑に重ねた作品を持ってエレベーターに乗った。
夏油さんに納品するためだ。

すぐにチン、と鳴るエレベーターに乗り込む。クロッキーもせずにそのままキャンバスに下書きをして描き出したのは久しぶりだ。いつぶりだろう。確か……そう、高校時代に私の友人が私を庇って虐められ始めたのを見た時だ。別に夏油さんは虐められている訳では無いし、状況は全く違うのだけど。

気付けばエレベーターを降りて、目の前には夏油さんがいた。カッターシャツにスラックス。私に会う時はお決まりの服装だ。

「連絡差し上げた通り、納品しに来たんですけど油が乾くの1ヶ月後くらいだと思うんです」
「そんなに掛かるんだね、いいよ、そうしたら額装は乾いた後にしよう」

夏油さんが作品を2つ持って、私は1つ持ってリビングに進む。いつも女の温度が移る床を反射的に避けてしまう。私は何を思えばいいのか分からなかった。ただ私の叫びの輪郭が急に明確になって私の胸を叩き、気付けばキャンバスに筆をつけていた。女は客だし、そのお金を私は享受しており、夏油さんはそれで生活している。見事な社会のサイクル。責めるべきものは何も無い。

「……すごいな」

夏油さんは壁に3つ吊るした後に小さく小さく呟いた。情事の吐息の半分にも満たないその声。私は静かにその声に耳を傾けた。どうやら今日は風が強いらしく、窓を叩く風音が先に耳に届いた。夏油さんは静かで、動かない。私も至って静かなものだった。いつもなら鼓動が煩くて、相手の反応が怖くて、どう見られるのか気になって気になって仕方ないというのに。
初めて買ったブランド物のジャージ。足元を見ると裾に赤い絵の具が付いていた。

「……、タイトル、タイトルはなに」

夏油さんは私に背を向けたまま。
作品を見上げながら、私を急かすように言った。なんだか口の中が妙に乾く。

「3つで1つ、『誠実のサイクル』です」

セイジツのサイクル。夏油さんはオウム返しをした。少し掠れた夏油さんの声。解説する必要は特に無さそうだ。私の作品で壁が埋まりつつあるこのリビングで、夏油さんは私の思想に囲まれて。

泣いていた。

綺麗に整えられた髪を乱れさせ、夏油さんは私の半身を見つめながら吐息を震わせている。偶に聞こえる嗚咽、不安定な呼吸。
鼻をすする音、詰まる声。
昇っていた陽は沈み、月は光を奏でて、星の囁きはまた昇る陽によって黙り、また陽が沈む。体感はそれくらいあった。しかし実際はたった数分の出来事だった。

夏油さんは目と鼻の先を真っ赤にして、私に振り向いた。震えている唇は女の生殖器を舐め尽くす唇。

「少し、話をしよう」

コーヒーを淹れ始めた夏油さんの代わりに私は脚立を使って、予定通りソファーの真向かい、1番目の着くところに並べられた作品たちの傾きを直した。またこの部屋に私の叫び、思想、半身が増え、夏油さんの部屋が“私”になる。私の胎内で女にその身を売り、私の胎内で泣き崩れるその人。
コーヒーを淹れるその大きな背中に私はとてつもなく、どうしようもなく、愛おしさが渦巻いていた。今の夏油さんなら、絵の具と思想に浸り、曲がり、とても綺麗とは言えない私でも触れられるような気がした。
私がインテリアだとしても、それでも。



「昔話だ」

コーヒーを2つテーブルに置いてから、夏油さんはティッシュを引き寄せて一言零した。

「私は母を殺したんだ」

乱れた髪の間から見える夏油さんは酷く憔悴しているように見えた。女に喰われている間はあんなにも堂々して見えるのに、中身はそうでもないらしい。私は、はいと小さく頷いた。

夏油傑少年は幼少期、自分を撫でる父親の手が好きであった。繋ぐ母親の手が好きであった。幼稚園の帰り、両親と手を繋いで帰る公園脇に定食屋があって、そこによく家族で通ったのだと言葉は断続的に続く。

2人で行った、びしゃびしゃのカツ丼定食を思い出す。その店の横にあったのは公園でなく、無機質なビルだった。

傑少年が小学2年生の頃に、父親の浮気の話で両親は大喧嘩。母親が出掛けているうちに女が出入りしていたのだ。傑少年はそれを知っていた。その女がよく笑って、そしてよく駄菓子をくれる人だったのをよく覚えている。
「お父さんにもお母さんにも内緒だよ」
優しいお姉さん。父親の浮気相手。父親の子どもを新しく妊娠した人。
やがて父親は家に帰らなくなり、そのままになった。そこから母親は変わってしまった。刺激を与えれば勃起する。その程度であった小学3年生であった傑くんにセックスを強要するようになったのだという。

そこまでぽつりぽつりと話していた夏油さんは少し笑って、コーヒーを1口。
まだ飲むには熱かったか、とおどけてみせた。だから、私はまだ黙っていた。
歯を食いしばる。少し眉をひそめた夏油さんは再び少年時代にもどった。
痛いほどに熱いコーヒーは刺さるようだった。

やがて母親が再婚した相手が資産家の男だったそうだ。今住んでいる高級マンションは、その資産の1つらしい。その男は別に母親を愛しているわけではなかった。
男は、傑くんを愛した。
男は傑くんと母親が性的関係にあるのを知っており、それが男の心を擽ったらしかった。
母親と義父に身体を求められる日々。
まだ幼い彼は、小学校にいる“おとこのこ”と“おとこでもおんなでもない”ことを求められる自分の差異に次第とズレが大きくなっていくのを感じたそうだ。
周囲からは幸せそうな家族、と言われていたそうだが内情はそんないいものではなかった。でも、まだ傑少年に救いはあった。学校という空間だった。自分が性的な象徴でいられなくなる唯一の救い。
唯一の時間。唯一の場所。

小学6年生の夏、終了式の後。
蝉時雨、焼くような陽射しの下、
水色のTシャツに薄いピンクのスカートを履いた隣の席の女の子が、傑少年に告白をした。勿論、その女の子にそんな意図はなかった。しかし、傑少年はそう受け取れなかった。



中学校にはほぼ通わず、親の相手をした。
中学1年生の冬、まだ12月中旬。
12月18日、交通事故で義父が死亡。
遺産は義父の遺言で全て傑少年へと渡った。
それを知った母親はヒステリックを起こし、そして。


「よく覚えているよ。あわてんぼうのサンタクロースが流れていたんだ。歌詞のところまで思い出せる。
ならしておくれよ、かねを

りんりんりん りんりんりん」

突き飛ばした母親が階段を転げ落ちていく瞬間、聞こえていたあわてんぼうのサンタクロース。聞こえるかねの音。
りんりんりん。りんりんりん。

その日は太平洋側に強い寒気が舞い込んできた日で、10数年ぶりのホワイトクリスマス。
初めて母親を拒んだ日。
事故として、更に生命保険金が傑少年の手元へ入ってきた。


「ジゴロを始めたのは中3からだ。なんだろうね、身体の慣れっていうのかな。セックス依存性を商売にしただけ。だから、」

だから、なんですか。

「かなたがそんなに泣かなくていいよ」


風の煩い年末のとある日。
愛されたかった私に気付いた夏油さんこそ
愛されたかった人なのだと知った。




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