飲み干す男
今年最後の通帳の記帳。
地元の銀行通帳にある下2桁、92円は手数料さえ払えなかった。今はその前に長く数字が続いているのに不思議な違和感を覚えつつ、銀行を出た。
窓口の閉まった銀行のATMコーナーの暖房は強い。自動ドアから一歩出れば、マフラーに顔を埋めるかいかり肩になっている人の群れ。私は途端に悴む指先をダウンのポケットに突っ込んで歩き出した。黒いダウンジャケットのチャックを1番上まで上げれば首が風に晒されることはない。冷たく乾いた風に私の白い吐息が巻き付いて空に消える。
今日の夕飯はシチューにしよう。
冷蔵庫の中にある少し萎び始めた小さな人参を思い、商店街に足を運んだ。
クリームシチューのルゥを買ったらすぐに帰ろう、そう決めてお店のカゴを手の取り、横目で見覚えのある影が目に付いた。
艶のある茶色い髪、ふんわりと巻かれた髪は邪魔にならないように高いところで1本に縛られている。随分化粧っ気のない薄い顔をしているが、綺麗な人だ。でも、どうしてそんな人が商店街の小さな店のエプロンなんかしているのだろう。
“インテリアちゃんのお小遣いにしてもいいよ”
明らかに世界の勝ち組に見えたその女は、負け組である私の目の前でしゃがみながら買い物カゴを運んでいる。
悴んだ手は真っ赤で、綺麗な爪の形もなんだかみすぼらしく見えた。
「あの」
「はい?何かありましたか」
THEお客様対応、といった笑顔を浮かべた女に“インテリアちゃんですけど”と名乗ると、女は一瞬で悪戯が見つかった子どものようにバツの悪い顔になった。
その顔を見れば分かる。
この人は勝ち組で、肉食獣で、金で男を買える立場の人間、ではない。
小さな商店街の小さなスーパー。そこでパートをやっているスッピンの女は私に頭を下げて、すぐにバックに下がって行ってしまった。スーパー入口に貼られたパート・アルバイト求人チラシ。赤い文字で書き込まれた最低賃金1041円。
元々お金があったのか、それとも元から私と同じような出の人なのか。それは分からないにしても、今彼女が130万をポンと出せるような人ではないのは確かな様子だ。ともすれば、彼女は借金するかなどして一生懸命夏油さんに貢いでいることになる。
130万は大金だ。一般的な賃金で働いている女性正社員の年収の半分程度にもあたるだろう。
夜の仕事もせず、小銭を掻き集めているのだとしたら。
それが何を意味しているのか、分からないほど私は世間知らずではなかった。
もし、また彼女が夏油さんを喰いに来たとしたら、それは本当に自殺にも等しい行為だ。
私はカゴを置いて店に入り、クリームシチューのルゥを手に取って320円ぽっちをクレジットカードで支払った。
「夏油さん」
鶏もも肉、人参、里芋、白菜が1口サイズに切られたクリームシチューを見て、夏油さんは家庭的だと喜んだ。
炊きたてご飯とぐつぐつ煮込んだクリームシチューの相性は最高で、最高に熱い。
シチューに突っ込んだスプーンも熱を持ってしまい、口への運び方を少しでも間違えれば火傷するのは必至だ。しっかり火の通った里芋はねっとりと口の中で溶けて、芯の熱さが尋常ではない。それを寧ろ歓迎とばかりに喜んで口に運ぶ夏油さんに一声掛ける。
夏油さんは口をはふはふと動かし、湯気を口から吐き出して僅かに目を潤ませた。
分かりきっていたことながら、熱かったらしい。夏油さんは水を1口流し込んでから一呼吸置いて、なんだい、と返事した。
可愛い人、そう思いつつ怖い人だとも思った。
「私が受け取っているお金って出所は全部女性ですか?」
「殆どね」
殆ど、という言い方に私が聞き返すと、偶に男の相手もするからね、という返事があった。今日天気悪いね、と続けて言うものだから夏油さんはそれを何とも思ってはいないのだろう。傷が深すぎて見えないのだろうか。
いや、今はそれじゃない。
「その女性たちって、どうやって見つけてくるんですか?スカウト?何か条件ってあるんですか?」
「急に食いついてくるね。どうしてかな?」
「質問に質問で返さないでください」
「それはごもっとも」
夏油さんはふふっと笑って、フォークでサラダのレタスを刺した。シャキシャキと刺さる音がした割に、持ち上げるとレタスは全て落ちていってしまった。
「女性は紹介制だよ。特に条件はない」
「え、条件ないんですか」
「うん。強いて言うなら、面倒臭くない」
ただそれだけだよ、と笑顔で夏油さんは熱々のクリームシチューをかきこんだ。夏油さんの大きな口に吸い込まれ、中を焼きながら食道を進み、胃へ進むシチュー。
腹へと収まっていく食べるという行為。
その行為に胎を抉り進む反復行動を重ねて思う。夏油さんのその少し眉を下げて笑うその眉間にどれだけの女性たちが金を払い、堕ちて、消えていくのか。
「夏油さんはセックス依存症なんですよね」
「そうだよ」
「それなら私ともセックス出来ますよね」
「……いくら払えるんだい」
夏油さんは笑顔を消して低い声で金を持ち出した。それは私の計算のうちで、先程記帳をした通帳をテーブルの上に置いた。8桁の数字の羅列を指先で追う。
「全額です」
夏油さんは真っ黒で小さな双眸でそれを見つめて、首をゆっくりゆっくり左に傾けた。
そして私が見えていないかのように壁を見やる。全作品にキャプションを付け終えたこともあって、早くも夏油さんのリビングの壁は私の半身で埋まりつつあった。あと作品は置けて20号が1つ、それくらいだ。
夏油さんと出会ってたかが数ヶ月、半年にも満たない、指の関節分程度の月日。
「私の目的が叶ったら」
「叶ったら、なんですか」
「叶ったら、全てかなたにあげるよ」
シチューがすっかり冷えて、僅かに舌にざらざらとした感触を残したのを確認して私はスプーンを置いた。残すためではない。
壁を見つめる夏油さんの横を通り過ぎて電子レンジに向かう。
温めて、もう一度温かいうちに食べてしまおう。
壁を埋める最後の私の半身は既に輪郭を持って肉付き始めていた。
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