優しい男



都内には様々な画材屋が存在する。
美大近くは潤沢であるし、値段はピンキリ。
その中でも特別小さな、しかし安い画材屋に通っていた。しかし、そろそろそれは変えるべきかもしれない。
私に付き合って画材屋に来る夏油さんに、店はかなり手狭だからだ。


店主の娘さんはあまり乗り気ではないらしいが店番をしていることが多く、顔馴染みと言っても過言ではない。
娘さんはよく発注書と睨めっこしながらレジ横に座っていた。
その娘さんが入口すれすれサイズの夏油さんを見て、訝しげに眉を寄せていたのが最初。画材ひしめくその店で夏油さんが何にもぶつからずに物を見るのはなかなか難しい話であり、尚且つ娘さんから

「あの人、カタギ?」

なんて真剣に小声で言われてしまった。
本気なのだろう。画材に夢中になっている夏油さんの目を盗んで私に囁いた。

まぁね、分からないでもない。
では、夏油さんを連れて来なければいいのでは、と思いもする。
しかし、これ綺麗だね、これは何に使うんだい、なんかこれ変な匂いしない?なんて興味深々に言う人についてくるなと言えるほど私の気は強くなかった。

「これなに?」
「デスケル、デッサンの時に使ったりしますよ。私は使わないですけど」
「どうして?」
「私はデスケル使うと逆にパース崩れるんですよね……それに、大学生で使ってる人もいないですよ。デッサンし始めに使う人が殆どじゃないですかね」
「へぇー……」

金網に引っかかっているアクリルの黒枠を元に戻して夏油さんは首をかくかくと動かした。どう使うのか考えているのだろう。


11月半ば、夏油さんに拾われて1ヶ月と少しが経っていた。高層階のワンフロアから見える景色はさほど様変わりしていないが、湿気は下がり、気温は理想的になりつつあった。
かなり過ごしやすい気候になってはいるが、私が特に快適に過ごせているのは最初の1週間、夏油さんがあれこれ買ってくることがあったからだ。女の子は色々と入り用だろう。そう言って、ベルトコンベアのように黒いクレジットカードが動き回っているのを見て私は頭を抱えたのだった。
これが金持ち……。
無駄に広かったワンフロアは夏油さんの手によって、そこそこ寂しくない空間になり、私のペラペラで草臥れた衣服も厚みを増したのだった。


本日2度目の溜め息をつく。
1度目は店にニコニコ夏油さんが入っていくのを背後から見送った時に。
それはついに夏油さんの耳に届いた。
年甲斐もなく、と小さく呟いて大きい背中はしゃんと天井と垂直になった。
どうやら流石に恥ずかしく感じたらしい。
別に私は怒っているわけでも、
呆れているわけでもなかった。
ただ、これでは私が夏油さん無しでは生きていけなくなりそうで、それが怖く感じた。
作家とパトロンは何も永久契約ではない。
ギブアンドテイク。
あくまでこれは絵を描くためだ。

「夏油さん」
「なんだい。随分……うーん、おっとっとみたいな顔してるよ」
「……もしかして歪んでるって言いたかったりします?」

笑いながら肩をすくめる夏油さんに腹パンをする。しかしこういうやり取りは初めてではない。無駄に雰囲気のある不思議なこの男性は、案外お茶目さんなのだ。

「あれ?画材買わないんだ」
「……先週買ったばかりじゃないですか」

ほんの少し前までお金を貯めて貯めて、決死の覚悟で行っていた画材屋。そう短期間に何度も足を運んでは、逆に私は何を買えばいいのか分からなかった。

ふと、同級生たちの顔が頭を過る。
あれ?それ買わないの?と。
私の手には届かない画材を手にして、
ああ、お金ないんだっけ?と。
悪意はない、きっと。
ただ世界には上と下がいるだけ。
ただそれだけなのだ。


「……月島さん」
「はい?」
「食事に行こう」

夏油さんに言われて、呼吸で上下する腹部に手を当てる。確かに空腹な気がした。
私が頷くと夏油さんは微笑んで私の手を引いた。

ありがとうございましたー。
娘さんの気だるげな挨拶が妙に別世界のことのように感じた。

夏油さんに腕を引かれて人混みを歩く。
街路樹が青かったり黄色かったりするので、透ける光が色を変えてキラキラと夏油さんの綺麗な髪を照らしていた。
高い位置にある頭、大きな背中。
でも何を考えているのかよく分からない顔。

昨日、母から来た連絡を思い出した。
母はパトロンを理解しているのかいないのか、
「媚びを売っておきなさい!相手は男なんでしょ、あんたなんかでも多少どうにか出来ることあるわ」
なんて言ってのけた。
流石にその意味が分からないわけではない。
つまり、作品がどうとかではなく。

どこまでも私の周りは私に期待はしてくれない。今まで結果を残してきていない私の自業自得だと分かってはいても、欲しい言葉を貰えないと分かってはいても、それでももっと他に言葉があってもいいのではないだろうか。

横断歩道で足を止める。
陽向に立つ夏油さん、木陰に立つ私。
夏油さんがパトロンになると決まってから、私は周囲の私に対する評価というのを改めて感じてしまっている。

苦しいのだ。泣きそうだ。
歯を食いしばっていないと、それこそ。
恩人である夏油さんに対してすら、何を言ってしまうか分からない。

私は懸命に歯を食いしばりながら歩き、
夏油さんの足が止まったところで足を止めた。人気が減った細道の角、1本の小さなクロマツの真横。

「お食事処……」
「入るよ、おいで」

夏油さんが暖簾に手をかけたのは、日に焼けて変色した暖簾で、こじんまりとした小さな定食屋だった。入口の脇にはこれまた変色した食品サンプルが置いてある。米であろうと肉だろうと野菜だろうと、全てセピア色だ。
カツ丼定食税込560円。え、安い。

お店の中は11月にしては早い、暖房がつけられていた。古い暖房がごうごうと音を立てている。いらっしゃいの声はおじいさんとおばあさんの声。激狭店とまでは言わないにしても、カウンターと掘りごたつ席が1つという狭さだ。出汁の匂いがこもる店内では、ほんの少し呼吸が出来る気がする。
夏油さんは迷わず靴を脱いで掘りごたつ席に腰を落ち着かせた。私もそれに倣うと、少し小さめのお冷のコップと温かいおしぼりが出された。

「なにか食べたいものはある?」
「えっと……カツ丼定食、ですかね」
「じゃあ私は焼肉定食大盛りで」

やはり慣れた場所なのだろうか。
夏油さんはメニューもろくに見ずにそう言った。おばあさんは小さなメモ用紙にカツ定、焼定大と書いてすぐにカウンター奥へと消えていく。手持ち無沙汰の私は手書きのメニュー表を眺めることにした。日替わりランチもあったようだ。日替わりランチは税込460円。ワンコイン以下。優しい値段設定だ。

「月島さん」
「あ、はい」
「私との契約は不服だったかな」

夏油さんは口元を緩く上げながら、でも私の表情を探る顔をしている。私が誤魔化すように笑顔を向けても、それは変わらない。
なぜここまで私に気を使ってくれるのか分からない。この人の意図はどこにあるのだろう。何が目的だというのだろう。

「不服なんて、滅相もない」
「なぜ?」
「なぜ、ってパトロンがつくこと自体私には勿体ないくらいで……賞だってろくに取ったことない、ですし」
「賞が必要?」
「そういうわけでは……他にもっと凄い子はたくさん、いるわけで」
「それで?」

それで。
だから。

「……私は、負け組なので」

そこまで私が言うと夏油さんはトン、と指で机を叩いた。短く整えられた爪。怒っているような様子ではない。ただ、話を聞いて欲しそうにしている。

トン、トン

親が小さな子どもをなだめるような、
そんな音。

「じゃあ、私はどうすればいい?君は本当に顔も知らないそいつらに勝ちたくて作品を描いているのかい?」

思わず私が顔を上げると、
夏油さんと真っ直ぐ目が合った。
薄い唇が言葉をかたどる。

「いいかい、世の中はそうである者と、そうでない者に大きく分かれる。分かるだろ。
努力が報われる者、そうでない者。
君が涙を流そうと血を流そうと足掻いて走り回ろうと、笑顔でステップを踏んで前を歩く者なんてたくさんいる。
苦労したからといって報われるわけじゃない。
苦しんだからといって幸せになれるわけじゃない。
君は、本当は、勝ちとか負けだとか、そうじゃないんだろう?
自分を愛してくれる人が欲しいんだ。
自分を認めて欲しいんだ。
ただ、それだけだったんじゃないかい。
ここに私がいるって気付いてほしい。
……私が、君を見つけたことを忘れていないか。

私はかなたの作品が好きだ」



その後運ばれてきたカツ丼定食は、今までの人生の中でなによりも美味しい食事で。
間違いなく、私はその瞬間。

世界で1番幸せな作家だった。






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