美しい男


パトロンに搬出の手伝いをさせる作家はなかなかいないだろうな。
手に付いた浅い傷が薄くなりつつあるのを見ながら私は顔を上げた。


ボロアパートの畳は未だ寒気よりも熱気が勝っていた。すきま風は冷たいので貰い物の新聞紙が隙間に詰めてある。そんな自室でダンボールに画材を詰めながら思った。
ビーッという音を立てて伸びるガムテープで色々なものに蓋をしていく。


私にパトロンがついたという話を聞いて驚いた友人知人たちの反応はといえば、
おめでとう!と言いつつも
何でこいつに?というニュアンスが含まれていたのは隠しきれていなかった。
既にパトロンがついていて、華々しく賞を総なめにしていた知人からもおめでとうの連絡が来た。でも意外だな、という言葉から私は返信を送れていない。

私自身が1番意外に感じている。
アトリエ兼自宅を新しく与えられることが決まったのは夏の雨のように突然のことだった。



個展の時間が終わっても彼は帰る気配を見せず、その上搬出を手伝うとまで言った。
ギャラリーに流れていた音楽は止まり、静かな空間に2人の小さな声だけが妙に響く。

彼はジャケットを乱雑に脱いで、天井からぶら下がるワイヤーからゆっくり作品を下ろす。高級そうなジャケットと作品の扱いの差は大きい。
どこか愛しいものでも見つめるような眼差しに私は大きく唾液を飲み込んだ。

彼は夏油傑と名乗った。
げとうすぐる、脳内で反復する。
これが私の作品に価値を見出してくれた人の名前。
彼は高い身長で私と違って楽々と作品を下ろしていく。

いるんだよなぁ。
私に出来ないことを簡単にする人。

私はハッとしてすぐに首を振った。
恩人のような人に私は何を思っているんだ。
私の手が止まったことにすぐ気付いた夏油さんは手を止めて私に目をやった。

思わず顔を逸らした私に夏油さんがゆっくりと、優しい声音で言った。

「信じられないかい」
「……少し」

いや、少しではない。
心の片隅でこの人は何かの詐欺か?なんて
思ってしまっている私がいる。
もやしが2円値上がりしたことに地団駄を踏むような私、貧乏作家を捕まえたところで何も美味い汁なんか吸えないのだが。

「そうだな。私も正直、自分がこんな事を言うとは思っていなかったからね」
「そう、ですか」
「うん。でも思うよ。君の作品に囲まれるなら、死んでもいい」

なんて大袈裟な。と私は笑ったけど、
夏油さんは決して笑わなかった。
彼が本気なのは火を見るより明らかだった。


私は少し悩んだ。
夏油さんにパトロンの経験はないらしい。
資産を増やしたいというわけでもない。
ただ、ただただ私に作品をつくっていて欲しいだけ。ただそれだけ。
あわよくば、それを全て見ていたい。
なかなか外れないワイヤーのフックをあーだこーだと四苦八苦しながら夏油さんは言ったのだった。

感動?喜び?それとも困惑?
頭の中の思考が定まらないとき、夏油さんが外してくれた作品を受け取ろうとして、作品を手の上に落とした。おそらく、額の研磨不足だったのか、ささくれだった木が私の右手に刺さった。思わず飛び出た私の痛みを訴える声に夏油さんは大きく反応した。
作品をゆっくり床に下ろして、少し血の出た右手を迷いなく取る。

大したことないです、ごめんなさい、と最後までは言わせてもらえなかった。
木の破片が入ったかどうか見るためだろう。
夏油さんは傷口を思い切り指で挟んだ。
傷口を抓られる痛みに再び私が痛みを訴えるが、夏油さんには聞こえていないらしい。

夏油さんは傷口をまじまじと見つめたあと、迷わず傷口を口に含んだ。
ぞくぞくっと右手から肩、背中を通って腰まで大きい波が伝わる。思わず喉を反らした自分に驚きを隠せない。変な声でも出ていやしないかと左手で口元を隠す。

ぢゅ、と少し低い音をたてて夏油さんが私の傷口を吸う。その音だけで私の脚から力が抜けた。背骨が波打つ感覚に頭が真っ白になる。なのに顔が熱くて仕方ない。
その時間は何分にも何十分にも感じたが、実際はものの数秒だった。

「私が作品を下ろすから、手を洗っておいで。右手は大事な手だろ」

私は走ってお手洗いに駆け込んだのは言うまでもない。


その後のことは余り覚えていないが、夏油さんから住所と連絡先が書かれた紙を渡されたのは事実だった。私は作品をレンタルトランクルームにまで運び、鍵を掛けた時に正気を取り戻した。


明後日からならいつでも部屋に荷物を運んでおいで、と電話先で言われた時にすんなりと受け入れた私に自分で驚いた。



浅い傷に指を沿わすと、その日の熱を思い出してしまいそうで。
私は、全てのダンボールにガムテープを貼り終えた。



私が結局新居に移ったのは10月の半ばに差し掛かったところだった。
ラフなカッターシャツとスラックスを身にまとった夏油さんがそれはもう高いマンションの前で待ち構えていた。

「荷物少ないね」
「お金なくて」
「作品は?」
「私が住んでいたところの近くにあるレンタルトランクルームに全部置いてあります」
「そうか。じゃあ後で取りに行こう」
「結構ありますけど……」

問題ないよ、と笑った夏油さんに首を傾げたが、その意味はすぐに分かることになる。


「君の部屋は23階だよ」
「何号室ですか」
「ワンフロアだよ」

ワンフロア……ワンフロア?
それってなんだっけ。犬種?
ぐるぐる無駄に回る思考に追い付けない私を置いて、夏油さんは私の少ない荷物を奪ってマンションに姿を吸い込まれていく。
私はと言えば、少し乾燥した秋の風にカラカラの葉っぱと一緒に背中を強く押されて1歩を踏み出した。

23階に着いたら、本当に私の部屋しかそこには無く、1周回って笑ってしまった。
その上家具は全て完備。
こんな高そうなソファーどこ製なんですか、夏油さん。


「これからレンタルトランクルームに作品を取りに行くけど、作品は私の部屋に運んでも構わないかい」
「それは良いですけど……夏油さんの部屋ですか?」
「この前言ったよ。君の作品に囲まれたいんだ」
「……軽トラの方がいいですよ、量多いので」
「最高だね」

そう言って夏油さんは今まで見た事のある生き物の中で1番美しい笑顔を見せた。


「改めてよろしく。月島さん」




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