帰るところ 前編




 車は平日の午前中にしては人通りの少ないビル街を進み、見覚えのあるビルに向かっていった。ビルの反射光が車内に差し込み、思わず顔をしかめた。

 茹だるような夏の日だ。冷房の効いた過ごしやすい車内だというのに冷や汗が止まらない。

 男は流暢に五条さんと夏油さんへの文句を連ねていた。上納金の金額が上がって商売上がったりらしい。そこで嫌がらせを思い付いたのだと言う。

 理由なんて心底どうでもいい。

 下っ端ヤクザの苦労なんて知りもしないが、稼げないただの役立たずなのでは?と思ってしまう。念の為、そう開きかけた口を閉ざしておいた。

 私はなるべく大きく、軽快に返事をした。強がりに思えるかもしれないが、“私”を悟らせない為だった。話していた内容はあまり覚えていない。


 私はスクールバッグのチャック音が鳴らないよう、人差し指と親指でチャックを押さえながらゆっくりスライドさせる。

 すると、ああ、忘れてた、と男が言って前の席と後部座席の間に分厚いアクリル板が降りてきた。

「お前みたいなゴミ屑のことは知らねぇけど、何かされると困るんでね」

 一度バッグに突っ込んだ手を止めた。恐らく、あの言い口だと私が警棒を使うことは知らないのだろう。でも警戒されている。分厚いアクリル板を一発で割れるほど私の腕力はない。私は静かにバッグを漁り、隠し持てそうなものをいくつか青い制服の裏に隠した。少し大きい制服からなら、きっと分かるまい。

 正直惜しいが、警棒はバッグの中に仕舞い直した。血液パックは使ってしまってもうない。何か仕掛けるにしても材料がない。

 きっと私は殺されるのだろう。
 死は怖くない。
 しかし、こんなのに殺されるという可能性に私は嫌気が差していた。

 果たして五条さんと夏油さんは気付くだろうか。あの2人なら気付きそうなものだ。

 では、助けてくれるのか。

 五条さんは私とwin-winの関係だと言った。だから折檻はない、と。それはいい。
 問題はそこから先だ。

 私に“楽しませて”もらったから“返す”。

では今の状況はどうだ。

 別に白馬の王子様が助けに来てくれるなんて思ったことはないが、五条さんと夏油さんの行動は全く読めなかった。




 着いたぞ、と声を掛けられたのは15分ほどドライブを楽しんだ後だった。
 車のドアが開いて、慎重に降りる。冷や汗も相まって、外の陽射しを受け吹き出る汗は、殊更気持ちが悪かった。

「なんだ、血か?」

 私をまともに見たのはその時だったんだろう。校長室でぶちまけた血の返り血だ。一応車内で白いハンドタオルを赤くしながら血は拭ったが、制服についた血はどうにもならなかったのだ。

「け、喧嘩しちゃって……それで」

 少し声を震わせて、片腕を掴んで斜め下を見下ろす。いつだかドラマで見たヒロインを思い出しながら、適当な演技をすることにした。その方が油断を誘えるのではないかと思ったが、どうだろう。

 じろり、と男の小さな目が私の身体を見つめる。死ぬタイミングがいつなのか分からない私は、呼吸を止めて僅かに震える以外、微動だにしない。

 そんな私の緊張が伝わったのか、男は満足げに、まぁいい、と言って私に背を向けた。音をあまり立てないようゆっくり空気を吸う。この様子なら多少の時間は稼げるだろう。

 一呼吸出来たかと思ったが、すぐに運転手が降りてきて、私からスクールバッグを奪い、強く私の背中を叩いた。大きく低い音と強い衝撃に思わず噎せた私を、蹴り飛ばして前に進めさせる。くそ男の馬鹿力め。私は大人しく胸を押さえて、撫でながらビルの中に進んだ。


 相変わらず普通のビルだ。
 男が前を歩き、運転手が私を挟むように歩いている。綺麗なエントランスを抜け、奥には2つエレベーターが並んでいる。男がボタンを押すとすぐに高い音を立てて右側のエレベーターの扉が開いた。乗り込んでも状況は変わらなかった。エレベーター内は冷房がよく効いていたが、私は今が涼しいのか暑いのか、いよいよ判別が難しくなっていた。

 エレベーターは6階で止まった。
 また屈強な運転手に叩かれないよう、男に付いていく。エレベーターを降りた瞬間から、右手奥から女性の泣き叫ぶ声が聞こえていた。男が下品なニヤケ顔をしながら振り返る。

「お前、顔だけはいいからきっと皆に可愛がられるぞー」

 泣き叫ぶ声がビリビリと鼓膜を揺らす。

 現状、いる場所からはそんなに大きく聞こえる訳では無いが……流石に今自分が置かれている状況が危機迫っていることは理解した。
 男に怖がる顔を見せておく。
 それが本当の私の顔なのか演技なのか、溶け合いつつあった。



 廊下はシンプルで、右手は壁、左手には窓があった。エレベーターと部屋の間に火災避難器具が収められている箱があった。

 若干俯きながら目だけで、注意深く周囲を見渡しながら男に着いていく。すると後ろから髪を根っこから強く掴まれ、強制的に足早に歩かされた。ぶちぶち、と髪の抜ける音がする。
 痛いには痛いが、殺した父親のお得意技でもあった為、私は痛がる顔を見せて前に進んだ。


男は軽快に足を進め、白くて厚めの扉を開けた。
 泣き叫ぶ声が一気に波のように押し寄せる。
 そこには服をズタズタにされ、血を流し、その上でレイプされる女性が何人もいた。

 天井から吊るされた謎の吊り革、壁や床に付けられた拘束具、血のついた……ペンチ?ハサミやナイフ、医療系ドラマでしか見た事のないような道具まである。
 女性の泣き叫ぶ声に支配されたその空間は決して気持ちのいいものではなかった。
 女の私だからそう思うのかもしれないが、最高に悪趣味。漂う酸味の強い臭いはなんだ。

 とにかくここで目一杯遊んでもらって、最後は何かしらで処分されるんだろう。

 目の前の女性たちは“私”だ。

 部屋の中の男は8人。全員胸板が分厚い体つきをしていて、屈強そうだ。
 男と運転手を入れて10人。
 どう考えたって、かなり分が悪いのは馬鹿な私にだって分かった。


 どうする。いや。
 しかしどんな状況であろうと、やるしかない。私には帰るところがあるのだから。


 私が悩みながらブレザーのボタンに手を掛けたところで、扉の向こうからノックする音が聞こえた。男は表情を変えずに扉の向こうに少し顔を出すと、愉快そうに表情を変えた。

「お客さんだ」

 扉が大きく開くと、多少は殴られたのか少量の血を顔面から流している猪野さんの姿があった。今朝被っていた帽子はない。

 まさか猪野さんが助けに来てくれるとは全く思っていなかった為、少し固まっていると、猪野さんは私の知らない表情で私に近付いてくる。

 朝、食事を運んでくれた顔ではない。

 困ったように笑いながら話してくれた顔ではない。


 猪野さんは持っていた黒いクラッチバッグから黒い何かを出して、私に握らせた。
 警棒じゃない。カチャリと音がするもの。

「かなたさん、これには弾が一発だけ入ってます」

 猪野さんは丁寧に、ここがセーフティです。これを外すと撃てるようになります。と説明してくれた。

 弾が、一発。

「猪野さん、これは、五条さんからですか」

 聞きたくない答えではあった。
 自分で聞いて馬鹿だと思った。

「はい」
「これは、自殺しろということですか」
「せめて楽に。という慈悲だと思います」

 猪野さんはそれだけ言って、私から離れて背中を向けた。


 慈悲?そんなものじゃない。あの人達は苦しむ人間が好きだから。おおかた、私が悩み苦しむのを想像して楽しんでいるに違いなかった。



 手を離された。
 崖から落ちる私を気まぐれに掴んだその手は離されたのだ。
 私は深い深い闇に落ちて。
 そして。
 死ぬだけ。



 男は腹を抱えて笑っていた。
 運転手も、女性を犯していた男たちも総じて私を嘲笑っていた。

 自殺用の拳銃に、青い制服だけの私はどれだけ滑稽に映っていることだろう。
 私はだらん、と力なく下ろした腕に吸い付くようにいる自殺用の拳銃を見下ろした。
 ただ冷たくて硬い黒いもの。



 とうに帰るところなど無かったことに、私は今更気が付いたのだった。


 B級ホラー映画の演出のように安っぽい不気味さを放って、白い扉は閉まった。





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