別離の罠


 
 
「いただきます」

 手を合わせて軽く頭を下げると、テーブルの端に立っていたニット帽の男性は嬉しそうに鼻を啜った。
 もう何年も囲んでいない温かい食卓。私はいつもの青い制服に身を包んでいた。



 起きたのは1時間半ほど前のこと。暫く身体が動かなくて、天井の木目を眺めていた。白くて大きいベッドの上に1人。
いつの間にあのクラブから帰ってきたのだろう。記憶がない。ヘッドボードの上にある窓のカーテンから光が漏れているので朝ではあるのだろう。血と精液でパリパリになっていた肌を暫く見つめ、扉の外から聞こえた知らない男性の声に促される形でシャワーを浴びた。秘所の強い違和感で真っ直ぐ立てない。がに股になりながらお風呂場に入った。ボロボロで妙に肌に張り付く制服を身体から剥ぎ取る。

 あちこちが痛いし、どこもかしくもパリパリで絡まる陰毛は触るだけで痛い。
 シャワーの水が秘所にしみて鋭く痛む。歯を食いしばりながらシャワーの温度を少し上げて肌を強めに擦り、何度も全身を洗った。流れていく水が赤く流れていく。

 お風呂を出た頃には思わず振り返るような出汁のいい匂いが部屋の外から流れ込んでいた。どうやら台所は近くにあるらしい。ぐう、という腹の音でそういえば自分が丸一日食べ物を口にしていないことに気が付いたのだった。


 汗をかく時期だというのに黒いニット帽を被った男性は猪野と名乗った。組の構成員らしい。そう名乗りながら、長テーブルまで私を案内し、食事を差し出した。
 ほかほかと湯気が上っているのは少なめの麦ご飯と鯖の味噌煮、大根おろしの乗っただし巻き玉子、なめこの味噌汁、茄子の煮浸し、オクラとほうれん草の和え物。ヤクザの食事って随分健康的なんだな、と思わず感心してしまうほどだった。
ここ数日鉄錆臭いものばかりを肺に入れていたせいで、並んだ料理の香りが優しく身体に染みる。

 急に切なくなるほどの食欲がせりあがってきた。急いで箸を取ろうと箸置きの上の赤い箸に手を伸ばすと、慌てていたのか床を転がっていく片方の箸。あ、と声を上げるとすぐに猪野さんが俺が取るんで!と床に這いつくばった。

 それと同時に扉が勢いよく開いた。目に入ったのは、服に血を飛ばし、内出血をあちらこちらに散らばせた五条さんと夏油さんだった。五条さんは夏油さんに肩を抱えられている。

 肩を抱えている夏油さんも怪我をしているが、どうやら五条さんの方が酷いらしい。2人の綺麗な顔が腫れ上がっているのはなかなかの出来事ではないだろうか。

 猪野さんは急いで箸を拾うと、2人にお勤めご苦労様です!と大きく頭を下げた。五条さんと夏油さんはそれに対して適当に手をひらひらと振って、長テーブルの椅子に腰掛けた。猪野さんが急いで箸を洗って持ってきてくれたが、先程まで湯気を上げていた食事たちはすっかり冷めてしまった。

「おはようございます」
「あー、おはよう」
「おはよう、かなた」

 五条さんも夏油さんも苦笑している。

「どうしたんですか、その怪我」
「別に。ね、傑」
「そうだね。何ともないよ」

 何ともないわけではないでしょう、と突っ込もうとすると猪野さんが私の耳元で囁いた。

「折檻ですよ。一般人に迷惑掛けたからって若が怒っちゃって」

 その言葉を伝えた瞬間、五条さんと夏油さんからの視線に猪野さんはヒッと声を上げてすぐにカウンターキッチンに消えた。

 折檻。言葉だけは知っているが、つまり“若”にめちゃくちゃ叱られた、ということだろうか。肉体的に。そういえば気にしたことはなかったが、五条さんと夏油さんはどういう立場の人達なのだろう。かなり上だと思ってはいたが……。しかし折檻されるくらいだ。
 上には上がある、ということか。
 五条さんはふんぞり返りながら椅子をギシギシ言わせ、夏油さんはテーブルの上で腫れてない方の頬で頬杖をついている。

 箸を握る。かと言って2人に気が散って1人、美味しそうなご飯に手を出すのは躊躇われた。しかし鮮やかな味噌の匂いは腹の底から食欲を抉り出してくる。どうしたものかと猪野さんを見ると忙しそうにテキパキと走り回っていた。


 私がぼんやりしているなか、五条さんの前には5段のホットケーキを。夏油さんには大盛りにも程がある大盛りのざる蕎麦を差し出した。
 やっと笑顔を見せた五条さんはテーブルの上にあった蜂蜜を滝のように掛けていく。
 そういえば2人の性癖はなんとなく把握したが、食の好みを知るのは初めてだ。流れていく蜂蜜を目で追うと、五条さんは私の目の前にある料理に目をとめた。

「ねぇー猪野ー。女子高生の朝食にこれは渋くない?」
「あ、はい!七海さんが若者にはバランスのいい食事を、と仰っていたので!」
「出たよ、七海信者」

 猪野さんに、七海さん。
 新しい名前を反芻しながら、五条さんと夏油さんが手を合わせるのに合わせて
 私も手を合わせる。

「いただきます」

 テーブルの端に立っていた猪野さんは嬉しそうに鼻を啜った。

 そこからは早かった。
 吸引器のように蕎麦を啜っては啜り続ける夏油さんと、1口がホットケーキ4分の1の五条さん。私は急いで麦ご飯をかきこんだ。口に運んだ茄子の煮浸しは噛むと汁が零れるほどに溢れ、よく生姜が効いていた。

 途中咳き込みそうになりながらも、確かに美味しい食事に私は心底ほっとして行くのを感じた。薄味に見えたおかずたちは案外しっかりとした味付けで好ましい。

 夏油さんはあまりワサビを入れるタイプじゃない。
 五条さんはバターより蜂蜜や生クリーム派。
 途中で蕎麦湯を持ってきたり、生クリームを追加で持ってきたりする猪野さんを甲斐甲斐しく思いながら私も食事をなんとか終えた。それでもやっぱり五条さんと夏油さんのスピードには適わず、待たせることにはなってしまったが。

 五条さんは新聞を広げて姿を隠し、夏油さんはスマホを弄り始めてしまった。

「五条さん」
「なに?食べ終わった?」
「はい。あの、その怪我」

 私がどうしたんですか、まで言い終わらないうちに五条さんは手をひらひら振って、もういい、と意思表示をした。面倒臭い、多分そういう気分なんだと思う。私は黙って猪野さんに食器を渡すと夏油さんがスマホから目を離した。

「さっき猪野が言ってたけど、折檻だよ」

 五条さんは新聞から顔を上げない。

「あの、私は」
「かなたに今のところお咎めはない」
「これはwin-winの関係だからね」

 と言ったのは無視を決め込んでいた五条さんだった。

「僕と傑はかなたに楽しませてもらった。色々とね。だからその分は返すよ。だから君の折檻はなし」

 新聞を案外几帳面にきっちりと畳みながら、五条は口元だけで器用に笑いながら言う。

「でもこの世界に無償の愛なんて存在しない。君の行動によっては処分するよ?商品にならないのはもう確認済だし」

 昨晩の血飛沫に悦んでいた五条さんとは違う目が私を貫いた。少し手が震える。生死がとても近くにあるのは昔からだったが、こうもハッキリ言われると実感が凄い。

 崖っぷちなんてものじゃない、崖から落ちている途中に五条さんと夏油さんが気紛れに手を出してくれただけに違いない。

 私は常に宙ぶらりん。

 身体の芯が冷えていく気がしたが、ふと気になって顔を触ると、やはり私は笑っていたのだった。



 じゃ、行ってらっしゃい。と2人に見送られて私は警棒と、ある物の入ったスクールバッグを肩に掛けた。
 今日の車の運転手は猪野さんだった。2人がいないのをいいことに折檻について聞けば、少し悩んだ姿勢を見せたあと教えてくれた。

 私の高校で怪我人を出しながら、金をばら撒いたのが若にバレたらしい。
 まぁ随分派手な出来事ではあったし、バレるのは当たり前かもしれない。骨も数本折られていることを聞いて少し頭を抱えた。それで“別に”と言えてしまうのはいかがなものか。しかし、灰皿を振りかぶったことを思い出して、私が言えることではないことに気付いた。



 本鈴が鳴る直前に車は校門に着いた。私はバッグをブラブラとぶら下げながら、風紀の教師の横を通り過ぎて教室へ向かった。

 相変わらずガヤガヤと騒がしい2階の教室。本鈴が鳴った瞬間に私は教室の扉に指を掛けて一歩踏み込んだ。途端に静かになるのは昨日と同じだが、クラスメイトたちの視線が違うことはすぐに気が付いた。後ろから入ってきた教師は私に気付くと、すぐに一歩下がったが、すぐにヘラヘラと笑顔を浮かべた。
 理由は考えなくても分かる。
 一千万の効果だろう。
 五条さんと夏油さんは面白いことを考えるなぁ、と真っ直ぐ自分の席に向かいながら感心した。その鮮やかな大胆さは私の想像するヤクザとは一風変わっている。

 金、暴力、セックス。指を折り、折った指を見つめながら聞こえる教師の話を流す。
 こんな何も持たないつまらない女にそんなことを教えて何があると言うのだろう。
 教師がくねくねしながら何かを言っている。窓枠いっぱいに見える入道雲に視線を移した。

 数日前まで家から逃げるように駆け込んだ学校という場所。
 ここにもう、私の居場所はない。
 価値もない。
 私の覚悟は決まっていた。
 では何故私は今日ここに来たのか。
 いつの間にホームルームが終わっていたのか、猿どもが私の机に寄ってきた。

「ねえ、この間のイケメン次いつ来るの?」
「月島さんもお金あんなに持ってるの?」
「ヤクザってみんなあんな感じ?」
「月島さんもヤクザなの?」

 そんな言葉を矢継ぎ早に聞かれた。オスもメスも似たようなことしか言わないんだ、と心底がっかりした。

 がっかりした。

 私はこんなところに心の安寧を求めていたことに。

 そんな時、私の名前を呼ぶ校内放送が流れた。校長室に来るように、との言葉に私は咄嗟に口元を抑えた。私は机の横に引っ掛けたバッグをひとなでして、持ち上げた。
 するりするりと私を避けていくクラスメイトたち。
 じゃ、と。
 私は最後まで私を心配そうに見つめる臆病者の親友だった子の肩を優しく叩いて教室を後にした。
 もう会うことは無いだろう。



 校長室と書かれた部屋の前で立ち止まった。
 3回ノックしたあと、偉そうな声が返ってくる。私はゆっくり開けて、いかにも被害者面をして中に踏み入った。中には校長、教頭、学年主任、担任、副担任の5人が神妙な面持ちで私を待ち構えていた。

 注意深く私は口元を押さえて、下を向きながら偉そうな机の前に立った。冷房がよく効いていて気持ちがいい。

「ヤクザと関係があるというのは本当かな」
「父が借金した先がヤクザだったので」

 随分直球で聞いてくるものだ。とりあえず嘘はついていない。
 矢継ぎ早に5人から質問が飛んでくる。
 最初の3問くらいにはまともに答えていたのだが、段々馬鹿らしくなってきた。無言になった私をどう思ったのか、段々威圧的な態度に変わっていく自称“まとも”な大人たち。

 とどのつまりは、ヤクザ関係者だから学校を辞めて欲しいのだろう。こうなることは警棒を馬鹿なクラスメイトの顎に命中させる直前に考えていた。

 なんの驚きもない。
 でもどうせなら面白く終わりたい、というのが私の本音だった。あの2人の影響だろうか。
 飛び交う言葉たちが私の横を掠めていく中、私はバッグを開けた。
 少し歪んだ警棒、ではなく、その隣におさまっていた袋とカッターを取り出した。

「先生方、安心してください。私は学校を辞めますから。なので、せめて最後に私の門出を祝福してはくれませんか」

 意味が分からないといった様子だが、ベタに拍手をしようとしているのか5人が手を胸元に持ってきた瞬間、私はカッターを長めに出して袋を引き裂いた。

 上がる叫び声。
 赤く染まる校長室。

 その時には私は、人の叫び声で秘所が濡れるのも、血液の匂いで心が落ち着くのもすっかり分かるようになっていた。


 上がり続ける叫び声を後に私は校長室を出ると、聞きつけた教員たちが職員室から飛び出してくるのが見えた。
 私はもう口元を押さえるのをやめて全力で校門に向かって走り始めた。

 こみあげる笑い。

 両手を広げて青い青い青空に向かって私は笑い声にも似た咆哮を上げた。
 入道雲の影が学校に掛かったかと思えば、陽射しは走り、私を追い掛けた。

 楽しい。
 気持ちいい。

 キラキラとした太陽に私の手元の赤が反射する。
 まだ乾いていない赤は光沢を放って、やはりどこまでも美しいのであった。




 車は校門前に止まっていた。
 多分、私がこうするのを分かっていたんだろう。迷わず後部座席を開けて、バッグを放り投げながら入り込んだ。笑いながら後部座席に深く腰掛けると、いつもと違う臭いがした。

 違和感。

 助手席からこちらを振り向いたのは、いつぞや五条さんと夏油さんに上納金を渡していた男だった。
 殺意の込められていた目がフラッシュバックする。


 車はゆっくりと発進した。









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