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「……へんなの」
「はい?」
「ルチアね、レンツォのこと、大好きなんだよ」
「知っていますが、それが?」
「だからね、ルチア、レンツォに恋してるんだろうなぁって、ずーっと思ってたの」
枝の先から朝露が垂れ落ちるような静けさで、ルチアはぽつりと零した。まるで寝言のようだった。膝の上の少女は、ぽつり、ぽつり、言葉を落とす。
「レンツォがぎゅってしてくれるとね、あったかくって、とーってもしあわせなんだよ。でもね、あのね、……ドキドキとは、違うの。胸のとこがね、きゅうってなったりしないの。ベラリオさまのときも、ホーテンさまのときも、こんなのなかった。苦しいときはたくさんあったけど、でも、どれも違うの。ルチアね、痛いのも好きだけど、でもこの痛いのはなんていうか……」
「それは風邪ですね。しばらく外出は控えて部屋で安静にしてなさい」
「って、こらレンツォ! なに大人気ないこと言ってるの!! もー、気にしなくていいからね、ルチア。まったく、レンツォってば」
「風邪?」と小首を傾げたルチアを丸め込もうとした矢先、シルディに力一杯背中を叩かれた。その衝撃で眼鏡がずれる。すかさずルチアが戻してくれたが、二重三重に苛立ちが募り、今すぐ吐き出すわけにもいかずにシルディを冷ややかに睨み据えた。
そんなレンツォの眼差しをさらりと受け流し、シルディがルチアを抱き上げる。大人しく身を預けた少女は、今にも泣きそうな顔でシルディにしがみついていた。
「ルチアね、逃げてきちゃったの。急にこわくなってね、それで……。どうしよう、ラファータ怒ってるかなぁ……」
どうやらどこぞのクソ田舎のガキはラファータという名前らしい。「妖精」とはそういうことか。
ここからどうやって軌道修正させようかと考えていたというのに、シルディがまたしても余計なことを口走った。
「ルチア、素敵な恋をしたんだね」
「……そうなのかな」
「そうだよ、きっと。だってルチア、前よりすっごくかわいいよ」
確かにその通りだ。
ここ最近のルチアは表情が以前にも増して明るくなり、それこそ光のように輝く笑顔を撒き散らしている。軽やかな足取りも、歌うような笑声も、疲れ切ったロルケイト城にはなくてはならない癒しの存在だった。
今の彼女を見て、毒姫だと恐れる者はそういない。愛くるしい少女を化物だと罵る者は日に日に減っていった。
「なんですか。ちょっと自分が幸せだからといって偉そうに。このクソ忙しい中出かけて買ってきたあの耳飾りだって、どうせまな板小娘にやるんでしょう」
「もうっ、レンツォ! 子供みたいな拗ね方しないでよ!」
「王子に子供みたいと言われては私ももう終わりですね。傷つきましたしばらく引きこもります」
慌てるシルディの腕の中で、ルチアはしばらく黙り込んでいた。猫のようにその腕から擦り抜けたかと思えば、彼女は初めての恋を知った「女の子」の顔で照れくさそうに笑った。
夜色の瞳をうっすらと潤ませ、頬に朱を刷いて少女は笑う。恥ずかしそうに、照れくさそうに。
こんな表情を見るのは、初めてだ。
「うん。――うん! ルチア、恋したの! どうしよう、恋したんだよ! ねえレンツォ、聞いて、ルチア、恋をしたよ!」
ここまで純粋な瞳ではしゃがれては、大人げなく妨害する気など削がれていく。――まったく、困ったものだ。
背中に羽でも生えているのかと聞きたくなるほど、ルチアは何度もその場で飛び跳ねて全身で喜びを表現していた。初恋とは、こんなにもはしゃげるものだったろうか。遠い記憶を探ってみるが、雑多な記憶に呑まれてなかなか思い出せない。
一足飛びで「女」になった少女が、今こうして「女の子」の顔で笑っている。
柔らかい前髪を掻き上げて、レンツォはその白い額にそっと唇を寄せた。
「……その服、とても似合っていますよ」
白いワンピースも、半透明のショールも。
途端にルチアは幸せそうに笑って、レンツォの頬にキスを返す。
「ありがと! あのね、ラファータもそう言ってくれたの!」
なんとも言えない寂しさを誤魔化すように、レンツォは小さな頭を掻き回した。
+ + +
恋をした。
それがどんなものか話には聞いていたし、自分はレンツォに恋をしているとばかり思っていたけれど、どうやら違ったようだ。こんなに幸せな気持ちになれるなんて知らなかった。言うまでもなくレンツォの傍にいることは幸せだけれど、胸の締め付けられ方が全然違う。
早くラファータに会いたい。昨日は逃げるように帰ってしまったけれど、彼は怒ってはいないだろうか。そんな不安もあった。
けれど、今のルチアはとっておきの考えを話したくて仕方がなかった。今までずっと考えていたけれど、ずっとずっと迷っていたことがあったのだ。その解決策を見つけた今、一番に話したいと思ったのがラファータだった。
あと数日で、シエラ達はアスラナに帰ってしまう。
それはもちろん寂しいし、なによりファウストが見つからないことがもっと寂しい。大好きな兄をひとりぼっちにさせてしまったから、早く見つけて以前のように一緒に暮らしたかった。
そのためには、ロルケイト城に籠もってばかりではいられない。
なにより、シエラはルチアの力が役に立ったと言ってくれた。それがとても嬉しかった。
「ラファータ!」
「――ああ、ルチア。よかった、来てくれたんだね。昨日は慌てて帰ってしまったから、今日はもう来てくれないのかと思ったよ」
「き、昨日は、ちょっと用事思い出したの! だから、その。……あっ、あのね、ラファータ、聞いてほしいことがあるの!」
「奇遇だね。僕もルチアに話さなきゃいけないことがあるんだ」
いつもの場所で本を読んでいたラファータが、革袋に分厚い本を仕舞いながら笑った。