厳かに祈りを [ 80/143 ]
※ツイッター診断より「レンツォが厳かに喉に欲求のキスをされるところ」
ロルケイト城内にある神殿部の扉の前に、影が一つ伸びていた。月明かりに照らされた影はうっすらと、けれどはっきりと長く伸びている。
白い廊下には波を連想させる彫り物の柱が等間隔に並んでおり、その柱に寄りかかるようにして、彼はじっと空を見上げていた。大きな扉の向こうから、涼やかな鈴の音が聞こえてくる。しゃん、しゃん。まるでなにかを呼んでいるようだ。
扉に手をかけた人影が、明るい月明かりを受けて薄闇に浮かび上がった。深く濃い薔薇色の髪の持ち主を、この城で知らぬ者はいない。
彼――レンツォは神殿の扉を開けると、誘われるままに奥へと歩を進めた。
「……また抜け出してきたんですか、蓼巫女さん」
「あいや、秘書官さん。おこんばんはですー」
ひらひらとした独特の巫女服に身を包んだ女性が、祭壇の前で膝をついていた。
ルタンシーン神殿の奥で寝起きしているはずの巫女がどうしてここにいるかなど、もう今更聞くまでもない。蓼の巫女は城への出入りが自由だ。たとえそれが、ルタンシーン神殿を無断で抜け出してきたと分かっていても。
蓼の巫女は聖杯に浸していた手を拭い、レンツォに向けてにこりと笑った。僅かな明かりしかないこの場所で、彼女の白い面(おもて)は不思議とよく見えた。
「秘書官さんはこんな時間に、どないしはったんですー? お祈りなんですかー?」
奇妙な喋り方は共通語が苦手だからだと言っていたが、レンツォ相手に共通語を使うのも妙な話だ。
蓼の巫女は鈴の束を取り出すと、しゃんしゃんと鳴らしてその場でくるりと回った。年齢の読めない女性だ。名前すら分からない。子供のように屈託なく笑い、彼女はレンツォの前に躍り出る。
レンツォがわざわざ祈りなど捧げる人間ではないと知っているくせに、あえてそんなことを訊いてくるのだから食えない相手だと思う。露わになった額を軽く叩いてやれば、べちんと小気味のいい音がした。
「おサボりですか、あなたは」
「さぼりやなんて、そんなそんな。ちょこーっしお散歩に来ただけですー」
「またゴルドーさんが大騒ぎしながら城門を叩きそうですね。そうなる前にとっととお帰りなさい」
「……ゴルドーは口やかましいんで、わしも困っとるんですよ」
肩を竦めた蓼の巫女の頬を、天窓から差し込んできた月光が撫でた。青白く浮かび上がった顔に浮かぶ表情は幼い子供のようだ。だのに、レンツォの手を両手でそっと包み込んだ彼女は、大人の妖艶さで首を傾げてくる。
花のように広がった帯が、細腰の後ろで揺れている。
触れた指先はひどく冷たかった。つい今しがたまで聖水の中に浸していたからだろう。丸く整えられた爪先が手の甲を撫で、そのまま指先に口づけられた。
「眠れんのです?」
「鈴の音が聞こえたもので、またどこかのお転婆巫女がやってきたのかと思って様子を見に来たんですよ」
「あいや、それはそれは。……それにしても秘書官さん、あの鈴が聞こえたんですー?」
「ええ。はっきりと」
眠ろうとしていたところに、鳴り響く鈴の音が聞こえた。高く、けれど耳に痛くない涼しげな音だった。仕事を終えたレンツォの耳に優しく届いたそれは、聞き流すにはあまりにもはっきりと聞こえすぎていた。
蓼の巫女は一瞬だけ目を丸くさせて、けらけらと声を上げて笑う。
「そんなら、秘書官さんはちょこーっし休息が必要なんですねー」
祈りが必要なんですよ。
蓼の巫女はそう言う。あれはそういう者にしか聞こえない音だと。だからルタンシーンに祈れと彼女は言ったが、レンツォはその言葉を鼻で笑って否定した。包まれた手を振り払い、頭一つ分背の低い彼女を上から見下ろす。こうすると、シルディはいつも「こわいんだけど」と眉尻を下げていた。
けれど、この女性がこの程度で怯えるはずがないことを、レンツォはもうすでに知っている。
神殿の聖杯に滴る水音に、小さな鈴の音が重なった。
「神に祈ることなどなに一つありませんよ」
「言うて秘書官さん、こないだの模擬海戦のときに嵐よ来いってお祈りしてたやないですか」
「それはそれ、これはこれです」
「勝手ですねー」
蓼の巫女はまっすぐに右手を挙げ、手首に填められた幾重もの腕輪をしゃらりと鳴らした。
「このディルートが最大の守り神、ルタンシーン様への信仰心はないんですー?」
「ええ。これっぽっちも。神様が私に給金を支払ってくれますか?」
「それは無理ですー」
そう言って笑い、蓼の巫女はレンツォの前に跪いた。つられて帯が羽のように翻る。細腕が今一度レンツォの腕を掴み、弱い力で引っ張ってくる。けして強くはないが、不思議と抗えないなにかがあった。冷えた神殿の床に膝を折る。
蓼の巫女はゆっくりと腕をレンツォの首に回し、吐息の触れ合う近さでまっすぐに見上げてきた。
巫女の声は、すべてが祈りなのだと誰かが言っていた。神官の言葉もそれと同じなのだと。
だから、彼らの声は清らかなのだと。
首の後ろをくすぐる指先は、神に仕える者の動きとは思えなかったけれど。
「どうしたんですか?」
「わしも一応、ルタンシーン様にお仕えする巫女ですー。目の前で信仰心がないって言われたら、むっとしますんよー?」
「おや、それは失礼を」
「ですからー」
レンツォの鼻が甘い香りを捉えた。
薄い皮膚の上、盛り上がった喉のその場所に、柔らかな唇が触れている。
呼吸するたび、一言発するたび、そこはゆっくりと上下する。やんわりと食まれれば、くすぐったさと息苦しさを同時に感じた。
生をありありと叫ぶそこから音を立てて唇を離し、蓼の巫女は首に腕を絡めたまま微笑んだ。
「――祈りなさい。貴方の声で。我が神、ルタンシーン様にその声を届けなさい」
レンツォに届いた言葉は、拙い共通語ではなく、古語交じりのホーリー語だった。
言い終わるや否や、喉に強い衝撃が走る。僅かに走った痛みは歯を立てられたからだと気がついたのは、己の口から吐息が漏れたときだった。
これのどこが清らかなのか。くつりと笑えばまた噛みつかれる。脈打つ血管の上に落とされた口づけが神聖なる祈りと言うのなら、彼女の仕える神は随分と色に寛容なようだ。
「神に祈るのは、明日の天気だけで十分ですよ」
ですからとっととお帰りなさい。
耳朶を噛みながらそっと流し込んでやった言葉に、蓼の巫女は肩を震わせて笑った。
(なればこそ、あなたの代わりに祈りましょう)
(20120807)