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 表に出さないように必死に取り繕いながら歯噛みした矢先、穂香が泣き濡れた瞳を瞬かせた。赤い眼差しが、ナガトを捉える。

「……へいわ、が」
「え?」
「今、一番欲しいもの。……みんな助かる、いつもの……平和な日常が、欲しいです」

 ナガトもアカギも、二人揃って目を丸くさせた。
 胸の奥が引き絞られる。喉が渇き、こめかみの辺りがずくりと痛んだ。眩暈さえしそうな衝撃が全身を襲い、揺さぶってくる。それが白の植物によるものではないことくらい、すぐに気がついた。
 奪われた平穏な日常を望む声が、深く突き刺さる。

「おっけ。それじゃあ、なんとしてでも俺らが勝たないとね」

 “それ”を与えてやれるのは、――取り戻せるのは、自分達に他ならないのだから。


 世界は白に侵される。
 微塵の慈悲も見せず呑まれ、内側から狂わされる。
 だから、この手は引き金を引く。
 緑を取り戻すために。守るために。
 ――そのために、種の弾丸を撒き散らす。
 だからどうか、無事でいて。
 信じてもいない神に、そんなことを祈った。


* * *



 冷えた空気が肌を刺す。吹き抜けた風が街路樹の緑を揺らし、切なげな音を立てた。
 研究所から一歩外に出ただけで、こんなにも心臓が早鐘を打つ。ハインケルが今いる場所に、身を守る囲いなどない。脆い盾すら与えられず、剥き身の身体を危険に晒しているようなものだ。それが堪らなく怖い。
 一刻も早く、頑丈で滅菌された建物の中に籠もりたいのに、ミーティアはかかってきたコールに応答してしまった。呆れた声がハインケルの鼓膜を揺さぶる。

「馬鹿でしょう、アナタ」

 溜息混じりに吐き出された言葉は自分に向けられたものではないのに、それでも身が竦んだ。
 一体なにが起きている。――そんなこと、考えるまでもない。恐ろしいことが起きている。それだけ分かれば十分だ。
 足元に咲く名も知らない花は、こんなにも綺麗なのに。雑草一本すら、ちゃんと緑を湛えている。樹の表皮は茶色で、枝についた葉には緑や黄、赤など、色がある。
 ――こんなにも、美しいのに。
 スツーカを胸に抱き、ハインケルはぼさぼさの前髪をそうっと掻き分け、空を見上げた。薄雲を掃いた青空が頭上に広がっている。そこに浮かぶ雲の白さは、どうしてこうも美しいと感じるのだろう。植物の白は、あんなにも恐ろしいのに。
 どれほどそうしていただろうか。いつの間にか通話を終えていたミーティアが、庇うようにハインケルの前に立った。「どうしたんですか?」そう訊ねようとしたのに、硬質な声が被さってきて最後まで言葉にならない。

「ハインケル博士、あちら、お知り合いかしら?」
「え? ……知り合い?」

 問われるままにミーティアの背からひょいと顔を覗かせて、絶句した。思考が錆びつき、機能を停止させた。心臓が送り出す血液量が爆発し、全身を痺れが駆け抜ける。呼吸が乱れ、後ずさった踵が研究所の壁にぶち当たった。
 逃げ道はどこだ。どこにある。舌が喉の奥に引っ込み、情けない悲鳴が僅かに漏れ出た。
 青空を背負い、金の髪を輝かせた二十歳ほどの小柄な女性が、白衣を風に靡かせていた。白衣といっても、やや緑がかったものだ。その白衣には嫌というほど見覚えがあった。なぜなら、自分が着ているものも同じ色をしているからだ。
 女性の愛らしい顔立ちには、それでいて強気な笑みが浮かんでいる。その背後に、屈強そうな男の影が三つほどついてきていた。
 ――こちらを見据える透き通った青い瞳は、ハインケルのものとよく似ている。

「ハァーイ、おにーさま。お元気してた? 連絡一つくれないんだもの、あたしとぉーっても寂しかったぁ」
「あ……、に、逃げっ……!」
「やぁだひっどーい。逃げなくてもいいじゃない。キョーダイの再会を喜びましょ? ねっ?」
「みっ、ミーティアさ、早くっ!!」

 震える手でミーティアの手を掴み、ハインケルはその場を駆け出した。聡明なミーティアであれば、これが異常な事態であるとすぐに気づいただろう。余計な口を挟むことなく駆け出すその足に、心の底から感謝した。
 甘い声が耳にこびりつく。

「ちょっとぉ、なんで逃げんの?」

 響く笑声はどれほど愛らしく聞こえようが、あんなものはただの嘲笑だ。全身を絡め取る怖気に、もつれそうになる足を必死に動かして逆らった。
 研究所の中に滑り込んで、そして扉にロックさえかければ。そうすれば、しばらくは耐えられる。
 そんな思いを、一発の銃声が踏み躙る。

「再会を喜びましょうって言ってんでしょ? 大人しくしなさいよ、臆病者のハインケルは・か・せ?」

 「ま、あんたに会っても嬉しくもなんともないけどねー」あっけらかんとした物言いには、嘲りと侮蔑だけが込められている。
 顔の横を掠めていった弾丸が、扉の脇に取りつけられていた電子キーを撃ち抜いていた。
 煙が昇る。白い、煙が。
 近づく足音に、涙がせり上がる。瞳を潤す己の体液は、きっとひどく塩辛い。
 どれほど嘆いたところで、動き始めた歯車は止まらない。
 助けを求めるように、ハインケルはミーティアの手を強く握り締めた。


【16話*end】
【2016.0225.加筆修正】


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