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「なぜ避ける、むっつりめ!」
「なぜって、師匠の一撃をまともに喰らって仕事に支障が出ないとでもお思いですか? それよりもむっつりってなんですか、むっつりって!」
「老いぼれの拳骨の一発や二発、喰らったところで支障なんぞ出るか! むっつりはむっつりじゃ、むっつりエルク!」
「だから、む――」
「――うるさい」

 この調子では集中して本も読めない。いい加減この終わりの見えない舌戦に嫌気が差したシエラは、焼き菓子を片手にぽつりと不満を漏らした。
 すると一瞬にして二人の動きが止まり、部屋には静寂が訪れる。急激な変化に目をぱちくりとしばたたかせる彼女の前に、身なりを整えたオーギュストが老いを感じさせない所作で片膝をつく。
 一礼した彼は、年とともに重ねてきた様々なものが宿る眼差しを穏やかに向けた。

「お見苦しいところをお見せいたしました。私はアスラナ王国軍事総帥、オーギュスト・バレーヌ。以後、お見知りおきを」
「軍事総帥……?」
「この国の軍は俺達騎士団と、それから白黒両将軍の率いる一般兵士の正規軍――正式には左右双軍だけど、王国軍で通ってる――があるんだ。総帥は最高指揮官で、通常は軍儀にてまず……まあ簡単に言えば、軍において一番偉い人ってことだよ」

 なんの話だかさっぱり、という顔をしていたのだろう。エルクディアは小さく笑って、説明を締めくくった。
 軍において一番偉い人。騎士団と王国軍はどう違うのだろう、という疑問をシエラは今のところ気にしないことにした。

「ちゃっちゃと説明せんか、馬鹿弟子が。――後継者殿、このような未熟者に護衛を任せるのは心もとないかもしれませぬが、腕と顔だけは確かなのでどうぞご安心下さい」
「……顔は関係ないと思うんですけど。まあとにかく、この人は俺の師匠なんだ。小さい頃からずっと剣を教えてもらってる。見た目は怖いけど、面白い人だから」
「相変わらず楽しそうな師弟関係だねえ。少し妬けるな」
「そうは仰いますが、陛下とて仲良きご婦人方がたくさんおられるでしょうに」
「おやおや、さすがはオーギュスト殿。これは一本取られてしまったかな」

 話に入れず、かといって入る気もなく、シエラはただ黙って彼らの会話を聞いていた。流れるようなやり取りは、一度や二度の馴れ合いではないことを示している。
 かつて何度もこうした言葉遊びを交わしてきているのだろう、と簡単に推測することができた。
 オーギュストが長椅子に腰を据えると、当然といった風体でエルクディアがシエラの隣に座る。乱れるに任せていた金髪を二度ほど手で整え、彼はほっと息をついた。
 なにを読んでたんだ、と手元を覗き込まれ、シエラは無言のまま本の表紙を見せる。

「『創世記』? そんな小難しい本読んでるのか」
「……お前が読めと言ったんだろう。そうでなければ、誰がこのような面倒な本読むか」

 どうやってこの世界が創られたのかなど、別段興味ない。ここに世界が確かにあって、そこに自分達が生きている。シエラにはそれだけで十分だった。
 王立学院の女教師を追い返したあと、エルクディアが言ったのだ。「この国、世界の歴史に関する本も何冊か読んでおけよ」と。それなのに本人が忘れているとはどういうことだろう。
 むっとした顔で見上げれば、彼は面白いくらいにたじろいだ。

「あ、いや、その……ごめん、忘れてた。でもちゃんと読んでてくれてありがとう。偉いな、シエラは」
「ふん……。別に、暇だったから目を通していただけだ」

 礼を言われるようなことなどした覚えがない。それなのに嬉しそうに微笑まれると、どこか気恥ずかしくて顔を背けた。
 途端に頭に降ってくる心地よい体温が、ゆっくりと髪を滑っていく。その動きがなぜか懐かしい気がして驚いた。
 カイの撫で方でも、父であるロエルの撫で方でもない。記憶の奥深く、もっとずっと前の――遠い遠い、掠れた記憶に今の感触が残っている。
 あまりに優しい触れ方に、シエラは無意識のうちに頭を預けるようにしていた。
 誰かに触れられることは嫌ではない。
 むしろその逆だ。下手に言葉を交わすより、こうして黙って触れ合っているだけの方が楽だし、心地いい。
 昔から、思ったことを言葉にするのが苦手だった。わざわざ形にすることが面倒で、どうしようもなく意味のないことのように思えたのだ。だからなにも言わなかった。
 そしてそれはこれからも変わらないのだろう、と思う。
 変わる必要など、どこにもないのだから。

「まったく……お前も後継者殿くらい素直だったら、わしも楽だったのだがな」

 大仰にため息をつくオーギュストは、記憶を手繰るように斜め上に視線を持ち上げる。
 すぐさま彼の指す『お前』が口元を引きつらせ、苦虫を百匹ほどまとめて噛み潰したような顔をした。
 それに構わず、屈強な老人は背負った大剣をかちゃりと鳴らして言った。

「お前は言われた本など一切読まなんだ。おかげで兵法を叩き込むのに苦労したわい」
「そっ、そんなことありませんでしたよ! ちゃんと言われたとおり、図書館の本すべてを網羅する勢いで読み漁ったじゃないですか」
「わしとフェリクスにケツ叩かれてやっと、じゃったろうが。あの頃のお前は本っ当に手のつけられないクソ生意気な悪ガキで――」
「オーグ師匠っ、昔の話はもういいでしょう! それよりも、本当はなんの用でこちらにいらしたんですか」

 身を乗り出して無理やり話を遮ったエルクディアをしばしじいと見つめ、オーギュストは不満そうに口を尖らせる。
 どうやらよほど過去に触れられてほしくないらしく、エルクディアは負けじと老騎士を見据えた。
 柔らかそうな金髪から顔を覗かせる耳がほんのりと赤く染まっているのを見つけ、シエラはくて、と首を傾げる。
 怒っているのか、それとも恥ずかしがっているのか。どちらにせよ、彼にとって過去の話は鬼門のようだ。



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