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動きを鈍らせた邪竜に竜の戦士が飛びかかる。脚に、腹に、背に、尾に、彼らが誇る爪や牙の痕を刻んでいく。だが、それでも邪竜は倒れない。
やっと凄まじい速さと衝撃に慣れてきた頃、エルクディアはその腰から剣を抜いた。竜の腹に刃が刺さるのは、もうすでに知ったことである。自らの力だけで敵うとは思えないが、今エルクディアが跨っているのは氷狼族の長である。この神速をもってすれば、邪竜の懐に飛び込むことも無謀ではあるまい。
「やる気か?」
「そのために来ました。それに、俺はあのひとの近くにいた方がいいんでしょう」
リシオルクの力は、エルクディアが近ければ近いほど強さを増しているようだった。それもそうだろう。なんといっても、この身に納まる竜玉は本来かの竜の体内にあったものなのだから。
周りの戦闘の音が激しく、人間であるエルクディアの耳はほとんど声を拾えていなかったが、それでも足下から伝わってくる振動によって、マスウードがなにを言ったのかはなんとなく分かった。
闊達な狼が笑う。空という翼ある者の領域を、翼を持たない氷の狼が我が物顔で駆けた。
「その愚かなまでの勇敢さに免じて、イイコトを教えてやる」
ぐん、と勢いよくマスウードが上昇する。なにもない空中だというのに、彼の足裏は確かに踏み締められるだけのなにかを捉えているようだった。
風を切って進むせいで目を開けるのもやっとだ。だが、リシオルクとの距離が縮まっていくほどにそれも気にならなくなってきていた。本来なら勝敗など戦う前からついているような相手を前にしても、不思議と恐れは感じない。心が凪いでいく。その胸の奥に、あたたかいものがあった。
「受け入れろ。抗うな。その力を認めろ。借り物だ? 上等だろう、借りておけ。そうすれば、お前は竜になれる」
「え……?」
邪竜の振り下ろした尾を避け、翼の下に潜り込む。咄嗟に突き立てた剣先は硬い皮膜の翼をかすかに傷つける程度であったが、この不安定な場で剣を振るえることそのものが奇跡に近い。
マスウードの言うように、エルクディアに宿っているのは借り物の力だ。ずっと昔から。実力だと思っていたものなど、なにもなかった。手のひらから、あらゆるものが瞬く間に滑り落ちていった。足下が崩れるような絶望感を味わったのはつい先ほどの話だ。
だが、マスウードはそれを認めろと言う。もうすでに自分のものではないと、エルクディアはそう理解しているのに。
リシオルクに匿われていた洞窟で磨いた愛剣は鋭く砥がれ、切れ味は格段に良くなっている。だが、それでも邪竜の硬い鱗には敵わない。
「お前の中に、竜玉がある。玉ン中には力がそのまま残ってんだよ」
「しかし俺は……」
「お前は人間だ。竜みたいに火を吐けるか? ンなわけねぇよ。そういうことじゃない」
ふいにマスウードは邪竜から視線を逸らし、地上に目を向けて耳をぴんとそばだてた。なにかを見つけたらしいが、夜の闇の中ではエルクディアに見通せるはずもない。
「お前は爪も牙も持たない、正真正銘ただの人の子だ。──だが、代わりになるモンは持ってんだろ?」
剣を握る手に力が籠もった。
ぞくり、一瞬にして全身が粟立つ。
「受け入れろ、抗うな。たとえ借り物だろうと、その力を認めろ。借り物でなにが悪い? それはもう、お前のモンだ」
「マスウード! 無駄口を叩いている場合か!」
「っと! ありがとよ、坊ちゃん!」
あわやというところで雷撃を避けたマスウードが、檄を飛ばしたノルガドに向けて尾を振った。
その急な動きにも難なくついていくことのできたエルクディアは、ただ一人静かに身の内に意識を集中させていた。手のひらに柄が吸いついている。まるで、生まれたときから握っていたような──もっと言えば、この剣が身体の一部のような感覚だった。今までもそう思ったことはあるし、そんな表現を何度もしてきていた。
だが、今度ばかりは違う。“本当に”、身体の一部なのだ。爪や、牙のように。
どくん、心臓が大きく拍を刻む。吐き出された血が全身を巡り、産毛を逆立てていく。
「見せてみろよ、エルクディア。この地でなら、お前は竜になれる! あのでけぇ姐さんに一発かましてやれ!!」
──この力はもう、俺のものだ。
閉じていた瞼をパッと押し上げたその刹那、エルクディアの身体からは黄金の闘気が立ち昇って爆発した。右手に握った剣には金と緑に揺らめく炎が絡みつき、太陽のような明るさで燃え盛っている。
身体の下でマスウードが楽しげな声を上げた。リシオルクの声が聞こえる。耳からではなく、身体の中から直接聞こえてくる声だった。おそらく竜玉の影響なのだろう。
「美しい姿だ」かつてこの身に竜玉を移した時渡りの竜は、エルクディアをそう評した。
邪竜が迫る。俊敏に攻撃をかわしながらマスウードがその懐に飛び込み、後ろ足に氷の枷をもたらした。巨体が傾ぐ。