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 すぐ横に竜の前足が落ちてきた。落下の衝撃で切断面から跳ね上がった血をまともに浴びながらも、タラーイェは足を止めようとはしない。走って走って走り続け、何度も転んでは立ち上がった。小さな心臓が破れてしまいそうなほどに早鐘を打ち、喉からは血の味がした。それでも、少女は立ち止まり方を忘れたかのように足を動かし続けた。
 そんなタラーイェが唯一足を止めたのは、爆音と共に大きく地面が揺れたそのときだけだった。その衝撃がもたらす意味を正確に理解してしまった少女は、頬を濡らしながら再び走り出した。
 日はもうほとんど落ちている。オリヴィニスに生きる者として夜目は利いたが、それにも限度はあった。完全に日が落ちて夜となれば、タラーイェとて明かりもなしに進むのは難しい。
 足裏が砂を踏む。砂漠地帯に抜け出たのだ。未だ昼の熱を孕む砂に足を取られて思うように進まないが、それでもタラーイェの目は目的の存在を見つけだしていた。
 砂の大地に、愛しい竜が横たわっている。あれほど美しかった若草色の鱗は傷つき、焼け焦げ、赤黒い血の汚れを纏いつかせているのが夕焼けに照らされていた。その上、かの竜の周りをおぞましいオークの集団が取り囲んでいる。
 足が縺れる。どれほど懸命に走ろうとも、振り上げられた斧の間に割って入ることなどできない。ゆえにタラーイェは絶叫した。薄い腹から空気を絞り出し、限界を訴える喉をかつてない声量が震わせた。
 たとえ喉が破れようとも構わなかった。たとえ声を失おうと、愛しい竜ならば必ずタラーイェの言葉を聞き取ってくれるからだ。

「ウィンにっ、あたしの竜にさわらないで!」
「……なんだぁ?」
「美味そうなガキがいるぞ! 捕まえろ!」
「来ないでっ、さわるな!!」

 すぐさま近くにいたオークに腕を掴み上げられたタラーイェだったが、その小さな身体のどこにそんな力が残っていたのかというほど激しく抵抗し、醜いオークの鼻面を蹴り上げた。それが魔物の嗜虐心を煽ったのか、たちまち抱え上げられて彼らの仲間のもとに引き立てられた。
 全力疾走と恐怖で荒い呼吸に、泣き濡れた顔。頬を真っ赤に火照らせて喘ぎながら抵抗を続ける少女の姿に、豚とも牛ともつかぬ面相のオークが涎を垂らしながら笑う。
 人間の女は美味い。そんなものは、人を食らう種族の中では常識だった。脂の乗った妙齢の女もいいが、年若い処女であればなおのこと血が美味い。肉が少ないのが残念だが──とオークらは目配せし、タラーイェの纏った薄絹を一枚ずつ裂き始めた。
 食べる前に嬲ろうというのか。タラーイェが怖気から掠れた悲鳴を上げて身を捩るも、太い腕に捕らえられていては逃げ出しようがない。縦にも横にも自分の倍以上ある魔物に囲まれ、少女は二重三重の恐怖に襲われた。
 自分が殺されることへの恐怖もある。まだ想像もつかぬ、花を散らされる恐怖も。けれども最も恐れたことは、ウィンガルドを目と鼻の先にしていながらも助けられないことだった。
 幼い身体のあちこちを這う手から逃れようと暴れながら、タラーイェは彼らの隙間から覗き見える愛しい竜の名を呼んだ。絶対に助けてみせるから、と叫んだ。それをオークは嘲笑う。もうあの竜は死んでいるのだと言ったその口で、タラーイェの着ていた薄絹を咥えて引きちぎっていく。

「──……る、な」

 低い声が鼓膜を震わせる。砂の動く音がした。
 タラーイェの前に、淡い光の珠が浮かび上がる。優しい光を放ちながら慰めるように鼻先を掠めていったその珠に、少女は唇を噛み締めた。

「──我が太陽にっ、その汚らしい手で触れるなッ!」

 空気が爆発したかのようだった。竜の額が強く光っている。鼓膜が破れそうになるほどの大喝を放った竜が、首だけをもたげてそのあぎとからブレスを放つ。豪速で駆け巡ったか細い竜巻は、鋭い刃となって次々とオーク達を襲っていった。
 赤々とした夕陽に照らされた竜巻は、さながら炎を纏って燃えているようだった。すっぱりと首を切り落とされ、オークが血を噴き上げる。タラーイェの身体を拘束していたオークの腕が落ち、野太い悲鳴が上がった。それでも竜巻は勢いを衰えず、血臭を巻き上げながら魔物を切り刻んでいく。
 悲鳴が聞こえなくなるまで、ほんの数秒のことだった。ぐしゃり、と音を立てて最後のオークが血で濡れた砂地に沈むのを、タラーイェは呆然と見届けた。

「ッ、ウィン! ねえっ、ウィン、大丈夫? ううん、大丈夫。大丈夫よ、絶対助けるから!」
「出てくるなと、言ったろうに……」
「いやよ、いや、ねえウィン、しっかりして、お願い! どうしたら血が止まるの? なんでおでこが光ってるの? ねえ、ウィン、どうしたらいいの……!?」
「ああ……すまない、我が愛しき太陽よ。この姿のままでは、そなたに触れることすらできぬ」
「そんなのどうでもいいの! ウィンはウィンだもの!」


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