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 ――血。
 馬の首が、転がる。
 この世のものとは思えぬ醜悪な生き物が、馬の腹に爪を突き立ってて臓物を引きずり出しているのが見えた。

「ひっ、あ……!」

 悲鳴すら出てこなかった。膝の力が抜け、その場に崩れ落ちる。その拍子に割れたガラスで足を切ったのか、鋭い痛みが左足に走った。ガラスの砕けた前方窓から、血飛沫が飛び込んでくる。
 心臓が胸から逃げ出したがっているかのような速さで駆け、手足は激しく痙攣するように震えていた。眦から涙が滑り落ちる。
 今のはなんだ。あんな生き物は見たことがない。
 漆黒の毛並みに、覗いた牙は鋭く、瞳は爛々と光っていた。猪でもなければ犬でもない。ならば、あれは。

「まも、の……」

 ――ジル。
 あれが魔物だというのなら、外にいるジルはどうなる。
 恐ろしい考えに取り憑かれ、クレシャナは氷の塊を飲んだように体温がすっと下がっていくのを感じた。まさか、そんな、駄目だ。こんな我儘で彼を死なせてしまうだなんて、そんなことは許されない。
 だって彼は、まだ家族に会っていないのだから。

「ジルっ……、ジル!」

 這うようにして再び扉を開けようとした刹那、先ほどの衝撃にも勝るとも劣らない振動が馬車を襲った。直接風に当たっていなくても感じる激しい熱に、思わず両腕で顔を庇う。
 これは明らかに炎の熱だった。事実、火の爆ぜる音が外から聞こえてくる。よろめきながら扉を開けたクレシャナは、眼前に広がる光景にまたしても絶句した。
 辺り一面が炎の海に呑まれていた。倒れる馬の胴体、転がった頭、おそらくは人だったのだろうその形に従い、炎がより濃さを増す。
 灼熱の炎の中に、なにかが踊っていた。影が一つ、二つ、三つ、――それ以上は分からない。
 そしてクレシャナの空色の瞳は、今にも炎に呑まれそうな人影を見つけた。ぐったりと力なく横たわるその人は、まるで人形のように美しい。蛇のように大きく口を開けた炎が彼を食らう寸前、クレシャナは空気の変わる音を聞いた。

「<聖なる流れにたゆたう水よ、我が声に応え癒しをもたらせ! ――アクア・フロウ!>」

 水が降る。
 雨ではなかった。“それ”は、まるで意思を持った生き物のように平原を駆け抜け、炎を飲み込んで熱を食らった。焦げた臭いが鼻をつく。なにが起こったのか、クレシャナの頭では追いつかない。
 ただ呆然と、焼け焦げた大地に立つその人影を見つめていた。

「オイ。テメェら、これはやりすぎなんじゃねぇの?」

 面倒くさそうに男が言うと、先ほどまではいなかった人影が二つ、どこかへ飛び出していった。
 これは、なんだ。ジルは無事なのだろうか。自分はどうすればいい。
 動けないでいるクレシャナに、別の声が降ってくる。

「お嬢さん、大丈夫か?」


+ + +



「ジルは……、ジルは無事なのでしょうか。もしものことがありましたら、わたくし、なんとお詫びすればよいのか……!」

 今にも倒れそうなほど顔を青褪めさせて震える少女は、クレシャナと名乗った。空色の瞳に溢れんばかりの涙を浮かべ、それでも必死に泣くまいと唇を噛み締めて両手を祈るように重ね合わせている。
 暖房の効いた室内にいるにもかかわらず、彼女はさながら極寒の地に放り出されたような風体だった。

「大丈夫だ。魔物による傷なら、神官が治せる」

 縋るように見上げてくるクレシャナを拾ったのは、クラウディオ平原だった。
 任務の帰りに魔気を感じた二人の祓魔師――ヴィシャム・ドナートとフォルクハルト・カペルは、異変を感じて怯える馬を宥めながら城の方角を目指してひた走った。本来魔物の発生率の低いクラウディオ平原での魔気だ、自然と顔が険しくなる。
 現場に辿り着いた二人が見たものは、横転した馬車をも飲み込もうとする凄まじい炎の渦だった。これは魔物の放った炎ではない。まったく別物だ。現に、魔物の気配は次第に薄まっていく。

『フォルト!』
『俺に命令すんじゃねぇ!』

 そんなつもりはないとどれほど言おうが、口も態度も目つきも悪い相棒はちっとも理解してくれない。馬上から飛び降り――仮にも全力で駆ける馬の上からだ――、軽やかに着地したフォルクハルトは、魔物も慌てて逃げ出しそうな凶悪な笑みを浮かべて神言を紡いだ。
 水竜のごとく聖水の流れが炎を呑み、消炭になりかけていた魔物ごと浄化して大地を鎮める。
 相変わらずの鮮やかな手並みに見惚れている場合ではない。横転した馬車に駆け寄ると、一人の少女が顔面蒼白で顔を出していた。

『お嬢さん、大丈夫か?』

 声をかけるなり彼女は短い悲鳴を上げて恐怖に目を瞠り、ヴィシャムの銀髪を見てそのまま意識を失った。過度な緊張と恐怖から解放され、心身共に限界をきたしていたのは明らかだった。
 ヴィシャムは倒れた馬車から少女を引き上げ、フォルクハルトが血まみれの美人を抱き上げて城へと急いだのである。このときはてっきり女だと思っていたが、赤毛の美人はどうやら男だったらしい。
 目を覚ましても震え続けるクレシャナに、ヴィシャムは優しい声で言った。

「ここはアスラナ城だ。優秀な神官、医官がごまんといる。君のご友人もきっと助かる」
「ヴィシャムさま、助けていただいた身でお言葉を疑うような言動、誠に申し訳がありませぬ。しかし、わたくし、どうしても不安でっ」
「それは当然のことだ、気に病む必要はない。それに厳密に言えば、彼を助けたのは俺じゃなくてあっちの目つきの悪い方だ。あの犬が駆けつけたんだから、まず間違いはないさ」
「あ? 犬っつったか、大虎野郎。死ね、今すぐ死ね」
「口が悪いぞ、フォルト。躾が行き届いてないと思われるから自嘲しろ」
「なんだとコラ! ふざっけんのも大概に、」



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