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「王都にゃ聖職者様が大勢住んでんだ。そんで、城下町には精霊の加護っつーもんが施されてんだとよ。どういう仕組かは俺も知らねぇが、その影響で王都の冬はちっと緩やかなんだ。王さんの住む宮は常春だって噂だぜ」

 馭者の言う「常春」が別の意味を含ませていたことに気がついたのは、幸いなことにジルだけだった。馭者は嫌がらせやからかいのつもりで言ったのではないのだろう。単にそれが彼の話の癖なのだ。
 クレシャナは感嘆の息を吐き、青々とした大平原を眺めた。頭上には雪雲が浮かび、時折白い花を降らせている。にもかかわらず、轍を残す大地は冬色に染まることなく緑を保っていた。
 アスラナには珍しく冬でも温暖な地域に暮らしているため、クレシャナは雪を目にしたことがなかった。それでも、冬になれば芝は枯れる。
 肌に感じる空気は確かにこちらの方が冷たいのに、植物は春のような風体で息づいているのだから不思議としか言いようがない。

「それにしたって嬢ちゃん達、そんな田舎からなんの用だい? 姉妹で観光かい?」

 その一言に、それまで黙っていたジルの肩がぴくりと震えた。クレシャナが訂正するよりも早く、鋭い咆哮が響き渡る。

「どこに目ぇつけてんだ、このオッサン! 俺は男だっての!」
「ジ、ジル! 落ち着いてくださいませ!」
「男ぉ!? 嘘だろ、そんな別嬪に“ついてる”ってのか!? しかもその顔でその口の利き方って……、姉ちゃ、いや、兄ちゃんか。兄ちゃん、あんたそりゃ詐欺ってもんだ!」
「るっせーよ、もう何遍も言われた! 内地の人間はそればっかりだな、本当に」

 怒鳴るだけ怒鳴ってすっきりしたのか、苦く舌打ちしただけでジルは椅子に深く座りなおしたが、馭者は何度も振り向いて「信じらんねぇ」と零していた。
 島からこっち、声をかけられるたびにジルは女性に間違えられてきた。宿屋の主人、露店の店主、町ゆく男達、子ども達。そう何度も間違えられていては鬱憤も溜まっていたのだろうが、それも仕方ないのではとクレシャナはひっそり思う。
 なにしろジルは、口調からは考えられないほどの美貌の持ち主だったのだ。
 背中まで伸びた長い髪は薔薇色で、動くたびにさらさらと揺れ動く。落ち着いたエメラルドの瞳は穏やかさを宿していて、すっと通った鼻筋も、形良い唇も、血色のいい頬も、すべてが美しかった。それらを組み合わせると、一体の精巧な人形が出来上がる。
 これほどまでに美しい人を、クレシャナは六年前まで見たことがなかった。――そう、ジルが島に流れ着いてくるまでは。

 六年前、浜辺に一人の人間が打ち上げられた。服を剥いて初めて男と分かったその人は、今にも天に召されそうな状態だった。瀕死の状態のところを懸命に看病し、三日後に目を覚ました彼は、自分の名前以外のすべてを忘れてしまっていたのだ。
 目を覚ました美しい人の姿に、島民は誰もが息を飲んだ。そして彼が口を開くと、今度は違う意味で息を飲んだ。あまりにも外見との落差が激しすぎたからだ。
 天使か薔薇の化身かと囁かれていたジルは見事にそんな幻想を打ち砕き、記憶が戻るまでルイド島の住人として暮らすことになったのである。
 あれから六年。彼は未だ、なにも思い出さない。

「おっ、そろそろ城が見えてきたぜ。今はまだちっこく見えるが、近づいて驚くんじゃねぇぞ。とりあえず、あんたらは大手門の前まで――、ッ、掴まれ!!」

 切迫したその声に、クレシャナはなにが起こったのかまったく理解できなかった。
 甲高い馬の嘶きが聞こえたかと思うと、馭者の悲鳴がそこに重なった。嫌な音がする。大きく道を逸れた馬車の激しい揺れに、クレシャナの身体は放り出される寸前でジルに強く抱き締められた。
 ふわりと足が浮く。凄まじい衝撃を受けて、馬車はあっという間に横倒しになった。窓が割れる。ジルが呻く。芝生の匂いが濃くなり、――その匂いを、金臭さが掻き消した。
 たった三回分の呼吸の間にそれだけのことが起きたのだ。怖れよりも困惑が勝った。自分になにが起きているのか分からず、“壁”に腰かけたまま、クレシャナは呆然と呟いた。――呟こうとして、声が出ないことに気がついた。
 そこでやっと、彼女は己が恐怖に囚われていることを自覚した。

「いってぇ……。姫さん、無事か!?」

 「はい」と答えたいのに、喉の奥が詰まって音にならない。ぎこちなく首肯すれば、頭を押さえながらもジルが安心したように微笑んだ。

「おいオッサン、なに派手に事故って、――なっ!?」
「ジル?」
「姫さん、来るな! 中にいろ!」
「ジル!!」

 名前を呼ぶだけで精一杯だった。頭上にある扉をこじ開けて外に飛び出したジルが、そのまま乱暴に扉を塞いで走っていく。横転した馬車の中、クレシャナは震えながら前方に取りつけられた窓を覗いた。そこからは、倒れた馬が二頭見えた。馭者台に男の姿はない。代わりに、前を駆けるジルの姿があった。
 雨も降っていないというのに、どうしてこんな事故が起きたのだろう。石に乗り上げたような感覚はなかった。だとすれば、なぜ。
 馬車の外からはジルの声が聞こえる。必死に馭者を呼ぶ声だ。
 その声が悲鳴に変わったのは、すぐのことだった。

「ジル!? どうなさったのですか、ジル!」
「うわああああっ! にっ、逃げろ姫さ、駄目だ、隠れろ!」

 なにが起きたのだろうかと慌てて頭上の扉を開いたクレシャナの目に、赤が飛び込んできた。びしゃり。重みを帯びた水音が聞こえ、つい先ほどまで軽口を叩いていた馭者の断末魔の叫びが平原に轟く。尻餅をついて後ずさるジルの服は、彼の髪よりも濃い赤で染め変えられていた。


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