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*第13話


 短い髪を撫でる、少しかさついた手が愛しかった。水に濡れたそれを一度前掛けで拭いてから、わざわざしゃがんで目線を合わせ、目尻に優しいしわを刻んで頭を撫でる、美しい人だった。
 花を差し出せば笑ってくれた。青い花があの人はなによりも好きだった。青よりも赤の方が似合う人だったけれど、あの人は青い花を好んだ。
 けれど近くの花畑には青い花など咲いていなくて、それがとてつもなく悔しくて、子供の足でへとへとになりながらあちこち探し回った覚えがある。
 歩き疲れて精根尽き果て、泣きじゃくりながら夜の帳が下ろされた森の中を彷徨っていたとき、世界に一人取り残されたような絶望を味わった。

 遠くから自分の名を呼ぶあの人の声が響き、ゆらゆらと揺れるランプの光が近づいてきたときには意識は朦朧としており、夢だと思っていた記憶がある。
 夢でもいい。最後にもう一度会えてよかった、と子供らしからぬことを覚えたのは忘れたくても忘れられない事実だ。
 笑い、泣き、怒り――ときどき、あの人は子供には理解できない表情を見せた。無表情に近いが、笑んでいるようにも見える。
 あれがなんだったのか、今では考えずとも分かる。
 あれは紛れもない――



 ぽた、と頬に冷たいものが落ちてきた。その小さな衝撃によって意識を戻したシエラは、ふるりと睫を震わせながら二度目の失態を悔やむ。
 同じ展開でまたしても気を失ってしまったのだから、きっとあの男は馬鹿にした笑みを向けるのだろう。もしくは冷ややかに見下されるかもしれない。
 可能性としては後者の方が高いな、などと思っていたら、鼻の辺りに風を感じて違和を覚える。
 風というほどでもない。適当な言葉を捜し、シエラは見事ぴたりと当てはまったそれを胸中で呟いた。

(……といき)

 それ以上に当てはまる言葉は思いつかず、妙な満足感にまどろみかけたそのとき、唇でぬるい雫を受け止めた。
 ――なんだろうか、この妙な感覚は。
 自分の中で完結させかけていた疑問を再びひっくり返し、出した答えを見直す。
 吐息。ぴたりと当てはまったその言葉の奇妙さにはっとし、シエラは金の双眸を勢いよく見開いた。

「っ、なっ、リース!?」
「――起きたか。足を引っ張るしか能がないようだな、神の後継者サマ」

 切り捨てるように言い放つリースの顔が文字通り目と鼻の先にあり、焦点が合わない。
 瞬時に彼だと認識できたのは、眼前に広がる紫水晶のきらめきがあったからだ。
 言いながら離れていった顔を確認するなり、シエラは両の腕だけで後ずさって距離を開けた。
 ばくばくと心臓がうるさい。尋常ではないお互いの近さを思い出し、かっと頬に朱が散った。
 黙りこくるシエラを無感動に一瞥するリースは、普段とどこか雰囲気が異なっている。真っ直ぐな瞳に射抜かれ、彼が裸眼のままだと気がついた。
 絡みつく視線から逃れるように顔を背ければ、ぐったりと壁にもたれかかるシルディが力ない笑みを浮かべた。

 疲弊しているものの外傷はない。腕の中のテュールも、シエラと目が合うなり石床をたたた、と素早く四足で駆けてくる。
 膝をよじ登ってきた小さな竜のざらつく舌を顎に感じて、シエラはようやく安堵した。今度は誰ともはぐれなかったようだ。
 両手で抱いたテュールの尾の付け根には、出血したような痕があった。爆発によって飛んできた瓦礫がぶつかったらしく、おそらくその衝撃で気泡が弾けたのだろう。
 ふらつきながらもゆっくりと立ち上がり、辺りを見渡したシエラは感じていた違和感に思い当たってあっと声を上げた。

「シルディ、ここは……」
「うん、そう。どうやら読みは当たったみたいだね。向こうの洞窟から繋がってたんだ。洞窟って言っても、人工のものだったけど」

 そこは灯りを落としたアスラナ城の一室に、とてもよく似ていた。突き抜けるような高い天井と、砂埃は溜まっているがつるつるの石床が向かい合っている。
 古ぼけた絨毯からは黴(カビ)の臭いがしたが、壁につけられた燭台や調度品などは僅かな破損しか見受けられなかった。
 重厚な扉の奥に続く廊下を想像すると、もはやここが海中であることを忘れてしまう。
 部屋の隅に不自然に空いた穴は先ほど吸い込まれた場所と繋がっているらしく、どうやらそこが人工的に作られた通路用の洞窟のようだ。
 揺れる水面がテュールの光をきらきらと反射させる。
 信じられない思いに胸を衝かれた。
 大きく息を吸い込めば、新鮮な空気が肺いっぱいに溜まる。多少の埃っぽさなど気にならないほどだ。




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