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 もう一度結界を張り直そうとして、はたと気づく。恐怖に怯える屈強な男達の手に握られた武器が、松明の炎に煽られてぎらぎらと光を反射させている。

「……ああもう」

 精霊は敏感だ。神言に偽りは許されない。
 彼らは「罪なき者」とは言い難く、風霊は彼らから放たれる血の匂いを拒絶した。圧倒的な力を持つ術者でなければ、精霊の意志を押さえ込んでまで術を行使することは不可能だ。
 聖職者はあくまでも、その身に宿した神気を精霊と同調させて法術を扱う。精霊に拒絶されれば、神言はただ虚しく空を滑るだけだ。
 ニコラが一際大きくいなないたそのとき、一体の目玉の魔物――ゲイザーと呼ばれることが多い――が降下と呼ぶにはいささか不恰好な姿で、ライナの前に落下してきた。
 ロザリオの中心に填められたトパーズが、至近距離で感じ取った魔気に反応して、警告するかのようにかすかな光を集めて弾く。淡く光る不思議な法石は、貴婦人が好んで身に纏う宝石と同じはずなのにこうまで違う。
 「ひぃっ!」と情けない声を上げた男達に「それでも山賊ですか!」と妙にずれた叱責をし、ライナは己の血に濡れた右手を真っ直ぐ前に突き出した。

「<我が望むものに、強固たる守りを。――聖血の豪壁!>」

 神聖結界を張り巡らせるだけの時間も、そして体力もない。かと言って簡易結界だけでは、これだけの人数を守りきれる自信などはなかった。
 ゲイザーは魔力を持った邪眼での精神支配攻撃を主とするため、物理攻撃から身を守る金剛殻では意味がない。魔力が及ぶのを防ぐためには、どうしても聖なる結界が必要だった。
 そうなれば、聖職者が最も手軽に――という表現はおかしいかもしれないが――施すことができる結界を張るしかない。それが「聖血の豪壁」だ。
 神言を紡ぎ終わった瞬間、突き出していた右の手のひらが焼け付くような痛みに襲われた。激痛に呻くライナに構わず、その中心から赤い糸状のものが瞬く間に広がっていき、ライナ達の周囲に半球上の檻を築き上げる。
 ニコラが急かすように男達をライナの後ろに追いやると、緻密に構成された檻はしっかりと自分達を包み込み、やがてすぅっと半透明になって姿を消した。
 ぽたりと手のひらから滴り落ちる鮮血が、地面に吸い込まれるよりも早く地を這い、空気に溶けるようにして結界の一部となる。
 どこまで保てるだろうか。嫌な汗がこめかみを伝う。
 ゲイザーの暗い瞳が、ぎろりとライナを睨みつけた。ばさばさと羽音を立てて舞い降りてきた二体と一度目配せしたそれは、瞼もないのに生えている睫のようなものをゆらゆらと動かして、身を揺らす。その度にライナの後ろでは男達が「ひぃ!」だの「ひゃあっ」だのと悲鳴を上げるので、気が散ることこの上ない。
 ゲイザーはよほどのものでない限り、魔物としての総合的な階級は低い。祓魔師がいれば至極簡単に祓ってしまえるのだが、神官のみのこの場合、結界を張ったまま逃げるか捕獲するかしか道は残されていない。普段ならば後者の道を迷わず選択したが、今の状況は普段とは明らかに異なっていた。
 魔物によって負わされた怪我ならば支障はない。結界の中で回復呪を唱え、傷を癒せばいいことだ。
 だが、今ライナを蝕んでいるのは麻酔効果を持つ毒矢だ。ライナの身を容赦なく倦怠感と睡魔が襲う。人間によってもたらされた傷は、法術では治すことができない。気を抜けば結界が崩れてしまうことなど、目に見えていた。
 光源は地に落ちた松明の明かりだけだという環境の中、霞む視界でゲイザーを真っ直ぐに見据えて策を講じる。だが、重くなってくる意識では結界の強度を保つだけで精一杯だった。
 せめてこの傷さえなんとかなれば。そうすればあんな低級の魔物、一網打尽にしてみせる自信があるのに。
 悔しさに歯噛みするも、鈍痛のする頭では策が浮かばない。
 
「な、なぁ嬢ちゃん、アンタ聖職者なんだろ? オレ達を助けてくれよ!」

 痩せ型の男が震える声で懇願し、それに周りの男達が同調し始めた。口々に「助けてくれ」と大の男が叫ぶ様は見ていて気持ちのいいものではないし、それに視線をくれている余裕もない。
 その間にもゲイザー達は容赦なくこちらを睨みつけている。ぐわんと空気が一瞬鐘を鳴らしたかのように響き、一拍遅れて甲高い耳鳴りのような衝撃が結界を襲った。

「ぎゃあああ! も、もう駄目だ、殺される!」
「さっさと祓ってくれよ、聖職者なんだろぉ!?」
「わたしは、神官です。結界で貴方達を守ることはできても、あれらを祓うことは、できません」
「そんなっ! なんとかしろよ、なんのための聖職者なんだよぉ!」

 絶望の淵に立たされた一人の男がふらつく足取りで一歩後退したことなど、前方にいるライナには気づくはずもなかった。隣にいたはずの仲間達は皆、自分のことで手一杯といった様子で、視界の端に消えていく男の姿など気にとめもしない。
 俺は逃げる――そんな弱弱しい独り言を耳に拾ったのは、皮肉なことにライナ達ではなく、ぎらぎらと瞳を怪しく光らせるゲイザー達の方だった。ばさりと不吉に翼を打ち鳴らし、ご自慢の超音波を、わざわざ人間にも聞こえる不協和音にして発している。
 そのことに違和感を覚えたライナがちらと視線を背後に向けた、まさにそのときだった。
 神経を研ぎ澄ませて保っている結界の一部が、内側からぐにゃりと曲げられているような感覚に襲われる。数秒も経たないうちにその感覚は消えて、結界は元通りの形状に変化した。

「――いけませんっ、早く結界に戻って下さい!」

 頭から冷水をかけられたかのような錯覚に囚われ、実際、ライナの全身は汗と血でびっしょりと濡れていた。
 ニコラが不安そうに身震いし、男達はライナの怒声にびくりと体を震わせて、仲間の駆けていく後姿を驚愕の眼で見つめる。誰かが「戻れ!」と叫んだが、それすら男には聞こえていないようだった。真夜中の山はただでさえも足元を掬われるというのに、今の男は恐怖で体中の筋肉が硬直しているため、運動機能がうまく働いていない。そんな状態で結界から抜け出すとは、自ら喰われに行ったも同然だった。
 彼を守る結界を築こうと思っても、この状態では聖血の豪壁を保つだけで精一杯だ。もし余力が残っていたとしても、身軽で俊敏な動作のゲイザー達に対応できたかどうかは、定かではない。
 闇の中を影がよぎったかと思うと、一体のゲイザーが眼球のみの体に大きく裂けた口を開け、濁った鋭い牙を覗かせた。それはライナに声一つ上げさせる暇もなく、男の首へと喰らいついて不気味に笑んだ。
 刹那、男の断末魔が緊迫した夜の闇を切り裂く。鼓膜を大きく震わせ、肌を粟立たせる悲鳴は耳の奥にこびり付くようで、彼女はぐっと強く瞼を伏せた。
 ついで聞こえるぴちゃぴちゃという水音に、胃液が込み上げてくる感覚さえ覚える。肉を抉り、骨を砕く音が人間の持つ恐怖心を極限まで煽っていった。

 ――見るな。あれは見てはいけない。

 あの光景を見てしまえば、すべてが崩れていく。
 歯の根が震え、かろうじて踏みしめている地面の感覚が分からなくなってくる。脳裏に浮かんだ血の色は、闇よりも深くライナを引きずり込もうと無数の手を伸ばす。


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